第4話
熱に浮かされた眼差しで我が子の背中の皮を一枚一枚捲っていく父親。不思議なことに、葵は全く痛みを感じていない。それどころか、白い頬に恍惚の色を浮かべている。
たまらなく淫靡な光景から北斗は目が離せない。唾液を呑んだ音が思いのほか大きく響いて、心拍数が上昇する。
父親は集中して本を読み耽っている。どのくらいの時間が過ぎただろう、父親は満足したのか、本を閉じるように背中の皮を丁寧に元に戻した。捲れ上がっていた背中の皮は瞬く間に元通りになった。滑らかな肌には傷跡もない。
「服を着替えなさい、夏場でも風邪を引くぞ」
もっともらしい捨て台詞を残して父親は部屋を出て行った。階段を降りて行く足音を数え、葵がクローゼットを開けた。北斗は膝を抱えたまま呆然と葵を見上げていたが、弾かれたように立ち上がる。
「驚かせてしまったね」
葵は困ったような、物憂げな笑みを浮かべる。頬は紅潮し、身体はしっとりと汗が滲んでいる。北斗は幽霊でも見るような目で葵を凝視している。
「俺、帰るよ」
「わかった」
葵はクローゼットから新しいシャツを出して着替える。父親の書斎に電灯が点いたのを確認し、北斗を家の外へ連れ出した。
夕立は上がり、雨雲は過ぎ去った後だった。蝉の声が再び森に戻ってきた。雨に濡れたブナの木立を抜けてゆく。
「君はいったい」
人間なのか、と言いかけて北斗は口籠もる。
「ぼくはこの家の本をすべて読んだ、と言ったね」
葵が立ち止まり、振り返る。
幼い頃から本が好きだった葵に、父の孝太郎は多くの書物を与えた。葵は貪欲に本を読み漁った。小説家だった孝太郎は資料に買いそろえた蔵書を片っ端から読了していく葵に驚いた。
葵は驚愕の速さでページを捲る。そして内容を覚えていた。学術書やラテン語の聖書を読んで内容を理解し始めたときには、脳に異常があるのではないかと心配した母親が検査を受けさせようとした。しかし、孝太郎は反対した。
「この子には才能がある」
孝太郎は感動に震え、葵を溺愛し始めた。
あるとき、風呂場で葵の背中を流していた孝太郎は、肩より少し下に小さな瘢痕があることに気付いた。怪我でもしたのかと触れてみると、皮膚が大きく捲れ上がった。
捲れた皮膚は背中についたまま、血管が透けて脈打っていた。孝太郎はひどく驚いたが、葵は痛がる素振りがない。
よく見れば、捲れた皮膚に文字が浮かび上がっている。
「読める、読めるぞ」
孝太郎は興奮しながら皮膚に書かれた文字を読み始めた。次の
風呂から上がった孝太郎は机に向き合い、一心不乱に原稿を書き始めた。
葵は背中にどんな文字が浮かぶのかを知らない。皮膚を破り取るわけにもいかず、読むことはできないという。
それから、うだつの上がらない小説家だった孝太郎の作品が注目されるようになる。孝太郎の書く小説は驚くべき発想力と鋭い感受性が持ち味で、文壇でも高く評価されるようになり桁違いの収入を得るようになった。
「ぼくの背中には読んだ本のすべての知識が存在するんだって」
知識を複雑に掛け合わせた文字列が浮かび上がるのだと。まさに人工知能のようだ。
孝太郎は葵の背中からインスピレーションを得て小説を書く。それは誰も知らない物語であり、耽美な言葉であった。読者はかつてない知識と感情の奔流に呑まれ、孝太郎の作品に魅了された。
「お前に雑念が入るといけない」
孝太郎は葵が学校に通うことを禁止した。無粋な人間に会うと雑念に支配され背中に現われる本の質が陳腐化するから、と他人から遠ざけるようになった。
葵の母の反対を押し切り、狭いアパート暮らしから現在の洋館に引越した。洋館はかつて、炭鉱経営者が政府関係者と秘密の会合を持つ迎賓館の役割を担っていた。
人の寄りつかぬ静かな環境で葵の精神力を研ぎ澄ませたい、という孝太郎の考えだった。
「そんなの、お父さんの所有物じゃないか」
葵への執着心に歪んだ淫らな瞳を思い出し、北斗は怒りに拳を握りしめる。
「ありがとう、そんなふうに怒ってくれるなんて嬉しいよ」
葵は力無く微笑む。父から受けた
「家から逃げ出さないのか」
「ぼくはこの森から出られないんだ」
葵は長い睫毛を伏せる。北斗は悔しさに唇を噛む。
「ぼく、戻るね」
葵は踵を返し、ブナの木立の奥へ消えていった。北斗は沈黙のままその背中を見送り、市道を叔父の家に向って歩き始める。
***
「あそこに住むのは変わり者だ」
夕食時に北斗が洋館のことを尋ねると、叔父は眉根を顰めた。子供を学校に行かせず、家庭訪問をした先生は追い返されたという。
「ああそうだ、ほら、あの人」
叔母が店番をしていたとき、洋館への道を尋ねた記者がいたそうだ。高名な小説家を取材すると洋館へ向ったはずだった。その二週間後に警察が行方を捜していることを知ったという。
「やめなさい」
叔父は北斗を気にして叔母の言葉を遮った。
翌日も北斗は森へ出掛けたが、葵の姿はなかった。
夏休みの終わりが近づき、ひぐらしの声とともに町を離れることになる日まで葵と会うことはできなかった。
***
日常に戻り、学校が始まっても葵のことがたびたび脳裏を過った。時に夢にも見た。瞼の裏に浮かぶのは、清流で見た蠱惑的な白い背中だ。
あの背中に内在するのは葵が読んだ膨大な本の知識だ。それは彼の経験や意識と混じりあい、生きている文章として現れる。
彼の父はその魔力に取りつかれ、葵を束縛している。
北斗は学校帰りに書店に立ち寄り、辰巳孝太郎の小説を手に取った。幻想文学とホラーを融合させた作風で、既視感を感じさせない物語と幅広い知識、美麗な文章は目を引くものがあった。
十五年前に新人賞を取って作家デビューしたものの、鳴かず飛ばす。しかし、八年前に執筆した本が話題になりベストセラーに、以降寡作ではあるが出す作品は必ずヒット作となった。そして、彼の妻、葵の母は同時期に亡くなっていることが分かった。
北斗は葵の背中の皮を一枚ずつ捲っていく孝太郎の姿を思い出し、嫌悪感に震えた。葵は父親の言いなりだ。彼を守ってやる者は誰もいない。
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