第3話

「すごい、まるで図書館だ」

 北斗は本で埋め尽くされた書架を見上げて感心する。世界の神話や日本の小説、医学書や歴史書、音楽書に建築論、統計学に天文学、地質学とあらゆるジャンルの本が並ぶ。

 分厚いハードカバーの本は博物館に飾られていてもおかしくない年代ものだ。


「書庫や地下室にはもっとたくさんの本があるんだ」

「世界中の本を集めた家だね、葵のお父さんはすごいね」

 北斗の父はビジネス書くらいしか読まない。同じような見出しの本を買ってきては通勤中に読み終えたとすぐに古本屋に売り払う。同じ大人でもこうも違うのか。


「これだけの本、一生かかっても読めそうにないよ」

 北斗は無理無理、と手を振る。葵は不思議そうに首を傾けて北斗を見つめる。

「ぼくは読んだよ。この家の本全部」

 冗談言うなよ、とからかおうとしたが葵は真顔だ。それがごく当たり前という素振りに、北斗は何も言えなくなった。


「飲み物を持ってくるよ」

 葵は応接室を出ていく。遠い雷鳴が聞こえて、北斗は肩を竦める。

 だだっ広い部屋にひとり取り残され、不安な気持ちがこみ上げてきた。暖炉の上に掛けられた油絵の女性が憂いを帯びた瞳でこちらを見下ろしている。北斗は背筋に寒気を感じて目を逸らした。


 そう言えば、この家には人の気配が無い。家族は留守なのだろうか。数日前、森で出会って一緒に遊んだけれど、彼のことは何も知らないと気が付いた。

 本棚から本を一冊取り出してみる。立派な革の表紙でずしりと思い。ページを捲ると、アルファベットだが英語ではない。聖母や天使の挿絵からして、古い聖書のように思えた。


「水出し紅茶を淹れたよ」

 扉が開き、葵が戻ってきた。

「あ、ありがとう」

 北斗は勝手に本を手にとったことが恥ずかしくなり、慌てて書架に本を戻す。

「それはラテン語で書かれた聖書だよ」

 葵はテーブルにグラスを置く。

「ラテン語だって」

 驚く北斗に、葵は涼しげな顔でグラスを口につける。


 葵はこの家に父親と二人で暮らしているという。家政婦が週に二度やってきて、掃除に洗濯、おかずの作り置きをして帰る。葵は学校に行っておらず、家庭教師に勉強を教わっていた。

 葵の超俗的な雰囲気の理由が分かる気がした。やけに成熟していたり、純粋な子供のようだったり、不安定な人格は彼の育った特異な環境のためだ。


「ぼくの部屋を案内するよ。コレクションを見せてあげる」

 葵は応接室から北斗を連れ出し、二階への階段を駆け上がる。アンティークのランプが灯る廊下の一番奥が葵の部屋だ。

 部屋に入って壁に目が釘付けになった。蝶やカブトムシ、クワガタにトンボ。整然とピンで縫い付けられた昆虫標本が並ぶ。瑠璃色の美しい羽根を持つ蝶は特に目を引いた。


「すごいね、これ全部作ったの」

「そうだよ、森で捕まえたんだ」

 北斗の驚く様子が嬉しいのか、葵は饒舌になる。北斗の指差す昆虫の名前と特徴を流暢に説明していく。

 ベッド近くの壁は書架になっていた。生き物の図鑑全集が並んでいる。葵はこの家の本をすべて読んだ、と言うのは本当なのかもしれない。そして、それを記憶している。


 階段を上る足音が聞こえ、葵が身体を強張らせる。

「父さんだ、君がここにいるとまずい。隠れて」

「えっ、どういうこと」

 葵は狼狽する北斗を問答無用でクローゼットに押し込めた。見知らぬ人間を勝手に家に上げたことを怒る気難しい父親なのか。

 考える間も無く足音はどんどん近付いてきて、扉を開く音がした。北斗は極度の緊張に身体を硬直させる。


「お帰り、早かったね」

 ベッドに腰掛けた葵は取り繕った笑顔で父親を見上げる。北斗はルーバークローゼットの隙間から息を殺して様子を伺う。

 葵の父は白髪交じりの髪を撫でつけ、整った顔立ちに口髭を生やしている。身長は高く、葵と同じように手足が長いためスタイルは抜群に良い。背筋を伸ばして立つ姿は紳士然としているが、怜悧で冷たい印象を受けた。


 父親は返事をせぬまま葵を凝視している。葵の肌に雨に濡れた白いシャツが張り付いている。

「濡れたのか、脱ぎなさい」

 優しい口調だが、有無を言わせぬ響きがあった。葵は俯いて口籠もる。父親は沈黙のまま待つ。

 葵はちらりと北斗の隠れるクローゼットを意識したが、シャツを脱ぎ始めた。陽の光の下で見た白い肌は、ダウンライトの明かりの下で妖艶な雰囲気を纏う。


 葵はおずおずとベッドに横になる。その背に父親が覆い被さり、ベッドが軋んだ。北斗は喉まで出かかった悲鳴を必死で飲み込む。

 まさか、虐待の現場を見せられているのか。葵を助けないと。北斗は脈打つ心臓を押さえながら飛び出す瞬間を見計らう。


 父親は葵の背中に指を滑らせる。その動きはまるで恋人の肌を愛しく撫でるようだ。葵は抵抗もせず、ベッドに身を横たえたまま微動だにしない。

 父親が人指し指と親指で葵の背中を摘まんだ。そして、驚くべきことに皮膚を引っ張り上げた。


 葵の背中の皮膚が広範囲に捲れ上がった。北斗は叫び声を上げそうになり、慌てて口に指を突っ込んだ。

 父親は背中の皮をページを捲るように一枚一枚剥いでいく。薄皮に脈打つ毛細血管が透けている。凄惨な光景は悍ましい悪夢を見ているようだ。北斗はクローゼットの闇の中で小刻みに震えている。


 不思議なことに、葵は一切叫び声を上げなかった。

 父親はゆっくりと葵の背中の皮膚を捲り続ける。そして、皮膚の上を滑るように目線を動かしている。この行動はいったい何を意味するのか。正面の壁の書架が視界に入った瞬間、北斗は悟った。

 彼はをしているのだ。



 





 



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