第2話
叔父は夫婦で酒や日用品を扱う商店を営んでいた。寂れた商店街の中程にある店は自宅とひと続きで、叔父も叔母も店をやりながら北斗の面倒を見てくれた。
この町にはかつては財閥の鉱山があり、病院に銭湯、映画館やパチンコ屋もあった。四十五年前の閉山を機に、働き手は町を去った。多くの労働者で賑わっていた場所は次々閉鎖され、今は崩れかけの廃墟が残るのみ。
当時の銭湯の名残のある小さな温泉宿がいくつか点在し、町の観光資源となっている。
北斗はこの鄙びた町並みが好きだった。
時間の流れがゆったりとして、道行く人たちは皆知らない人ばかりだ。どこか遠い異国にやってきた気分になれた。
中学生になっても叔父の家に泊りに行くのは慣例となった。母は弁当作りの手間が省けるし、北斗は叔父の家で羽根をのばせる。叔父が配達に行っている間、店の手伝いをするのも楽しかった。
町を横切る唯一の市道を外れて北へ向うと、廃坑に隣接するブナの森があった。叔父の家から歩いて二十分もかからない距離だ。
小学生の頃、よく叔父と森を散歩した。夏は清流に舞う蛍、冬は雪化粧の木立に佇む野生の鹿を見た。都会育ちの北斗にとって、森は驚きの宝庫だった。
***
「この間も会ったね」
涼やかな声に振り返れば、ブナの木立から降り注ぐ陽光の下に少年が立っていた。白いシャツに黒色のパンツ姿で、すらりと伸びた手足は目を引いた。黒い髪に白磁のような肌、憂いを帯びた表情は年の頃より大人びて見えた。
浮世離れした佇まいは忘れもしない、彼は三日前に見た水浴をしていた少年だ。
「ああ、うん」
覗き見のつもりは無かったが、北斗は後ろめたさに言葉を濁す。できれば再会したくはなかった。
「逃げ足の速さにびっくりしたよ」
少年は屈託無く笑う。北斗は気まずくて唇をへの字に曲げて頭を掻く。
「この辺の子じゃないね」
「夏休みで叔父さんの家に遊びに来ているんだ」
少年はこの町が地元のようだ。北斗は余所者扱いされた気分になり、慣れ親しんだ森に疎外感を覚える。
「ぼくは
葵と名乗った少年は北斗に握手を求めた。大人じみた挨拶に北斗は困惑しながら葵の華奢な手を握った。フォークダンスで繋いだ女子生徒の手のように柔らかくて、北斗は慌てて手を引っ込めた。
「三上北斗だ」
「行こう、あっちにリスがたくさんいる」
北斗が名前を言い終わらぬうちに、葵は軽やかに走り出した。
葵は森の中のことを何でも知っていた。
リスが駆け回る枝、鹿の親子が水を飲みにくる水辺、梟の眠る木の虚。野鳥の鳴き声がすれば、その名前を教えてくれた。
黄色い絨毯を敷き詰めたようなマリーゴールドの花畑や、珍しいキノコが生える湿地、一番感動したのは森で一番大きなブナの木だ。
森へ行けば、毎日葵に会える。そして毎日心躍る発見があった。
「葵はすごいね、何でも知ってる」
「ぼくは本を読むのが好きだからね。それにこの森は庭みたいなものだよ」
葵は謙遜でも遠慮でもなく、ごく当たり前のようにそう言った。
***
お盆を過ぎた頃だった。
北斗と葵は清流で沢蟹を探して遊んでいた。
不意に、空に暗雲が立ち込め雷鳴が轟く。急激に気温が下がり始めたと思うと、頬にぽつんと冷たいものが落ちた。
蝉の声も掻き消すほどの激しい夕立だった。二人はぬかるみに足を取られながら走った。
「うちで雨宿りしよう」
葵は踏み鳴らされた獣道に入っていく。ブナの木立が開けると、稲妻が瀟洒な洋館の輪郭を浮かび上がらせた。
煉瓦塀と鉄柵で囲まれた噴水のある庭園の奥に、ヴィクトリアン様式のアンシンメトリーな洋館が建つ。鱗模様の尖塔のてっぺんで風見鶏が風に煽られてくるくる回っていた。
「えっ、ここが葵の家なの」
北斗は驚嘆の声を上げる。葵は観音開きの扉を開き、北斗を招き入れた。
廊下にはペルシャ絨毯が敷き詰められ、正面に左右に分岐する大階段が伸びている。階段正面には異国の英雄譚を描いたステンドグラスが嵌め込まれ、時折光る稲妻の閃光が館内を照らした。
葵は呆然とする北斗を玄関脇の部屋へ連れていく。見事な彫刻の施されたオーク材の扉を開くと、西洋アンティークの調度品で統一された豪奢な応接室に度肝を抜かれた。
正面はフランス窓、両側の壁は天井に届く書架になっており、分厚い蔵書がぎっしり詰め込まれている。暖炉の上にギリシア神話をモチーフにしたブロンズ像と燭台が飾られていた。
「これで身体を拭いて」
葵がタオルを持ってきた。真っ白なタオルはふかふかで、嗅いだことのない甘い花のような香りがした。
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