「食」の魔力に酔いしれよ。「少女」を食らって華やぐ嘉会の帝国

名瀬口にぼし先生の最新作と聞いてさっそく拝読させていただきました。
期待した通り、名瀬口先生の魅力が詰まった作品で、すでに名作の予感がしています。
数多の作品がひしめくカクヨム上でこうした唯一無二の個性を持つ小説に出会えたことはまたとない幸福です。

本作『少女は宴の夜に死ぬ』には、強大な権力を持つ『大嘉帝国』という国が登場します。
これは非常に強い国家で、周辺の小さな国々は帝国に従うほかありません。
しかし帝国には独特な信仰がありました。
すなわち、食事です。
大嘉帝国には「食べたものを支配できる」という考え方があり、よって大嘉帝国に従属した国々は帝国へと生贄を差し出さなければならないのです。年頃の少女たちが恭順の意志を示すために、帝国へと捧げられ、宴の夜に供される『食材』になってしまう――。

衝撃的なストーリーながら、名瀬口先生の筆致は少女小説のように柔らかで読みやすく、そして淡々と進んでいきます。
登場するキャラクターも魅力的です。
私が気になっているのは「犠妃」を帝国へと運ぶ美貌の搬贄官でしょうか。
捧げ物となった少女たちを世話する料理人のルェイビンも、武骨ですが飾らない性格や振る舞いに好感がもてます。
また、作中に登場する異国の料理の数々はどれもものすごく美味しそうに描かれます。
いずれも、確実な死に向かう少女のための食事なのですが、そうとわかっていてもお腹が鳴ってしまうような美食が次から次へと登場するのです。

少女たちが犠牲になるのは、つらい。
でも彼女がたちが食べている「ごはん」は、ほんとうにほんとうに美味しそうです。

この小説を読んでいると、食事という行為には二面性があるのではないかということを考えてしまいます。
つまり、食べることというのはそもそも罪悪感がついて回る行為なのではないかと思うのです。

人間が食事をするときには、かならず他者の生命を害する必要があります。

将来的に光合成などができるようになるかもしれませんが、とりあえず現在時点ではそういうことはできません。牛や豚や鶏やその卵を食べ、植物を地面から引っこ抜いて調理しなければならないのです。

しかも、現代日本に生きている人々の大半は「食べる/食べられる」という営みの外側にあります。
さきほど植物を地面から引っこ抜いて食べると言いましたが、都市に住んでいるとなかなか、野菜を収穫して食べるということはできません。
できたとしても趣味としてしか成立しない規模の話でしょう。
現代人というのはかなりの人数が生産をになう人達とも、生産される食物とも隔絶した生活を送っているものです。
それなのに、生きるためにはそうしたサイクルに無遠慮に手を突っ込まなければいけません。
何かを生み出すことも、ましてや屠った経験すらない人々が、スーパーに並んだパック詰めの食材を買って食事をするのです。
それが正しい行いなのかどうか、なかなか歯切れのいい返事ができない瞬間というものが、誰にでもあるのではないでしょうか。

そして、もしもその触れられないサイクルの中に「少女」が組み込まれていたとしたらどうなるのか――。
結論はひとつ。
それでもおなかは空くのです。

名瀬口にぼし先生の作品の魅力は、いつもそうした「食べること」の罪悪感にストレートに切り込んでくるところにあります。

とくに印象的なのは主な登場人物である少女たち、帝国に「犠妃」として捧げられた若い娘たちが粛々と自分の運命を受け入れているように見える点です。
あまりにも悲劇的な運命に処された少女たちの物語です。
少女たちが泣き叫び、怒りをあらわにするのではないかと想像していたのですが、彼女たちは表向きには激しい感情を出しません。(※まだ二章の時点なので今後の展開は違うのかもしれません)
もちろん自分たちの運命を理解しており、内心では怒りを抱えている少女もいるのですが、傍目には驚くほどあっさりと運命を受け入れてしまうのです。

戦う力を持っているのに、なぜ彼女は怒らないのかと考えるとき、架空の物語でありながら女性性のあり方について身につまされるような思いがします。

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