第3話 星の海、海の星
沈んでゆく。
ただ、ウィスタにはその感覚がなかった。
苦しくもない。
不安もなく、怯えもなく、沈んでゆく。
意識はある。が、自分が生きているかどうかの判断すらできずにいるから、果たしてそれがたしかに自分の意識なのかと問われれば、答えに窮しただろう。
水は濁っており、視界はほとんど、ない。
水中に咲いた、あたかも純白の巨大な百合のような姿は、ただ、沈むにつれて深い蒼に囚われ、闇に同化しつつある。
上下もなく、距離も時間も、温度もなく。
苦痛も、よろこびもなく。
これが、消えるということなのだろうかと、ウィスタは薄く考えた。
と。
船上で感じたような衝撃が、再び彼女の胸を貫いた。
背をのけぞらせ、声を漏らす。唇の間から気泡が流れ出てゆく。
閉じた瞼をとおしてでもわかる強い、蒼い光。
視界を染めたその光はすぐに収束したが、胸のざわつきは消えない。
目をあける。
痛みを感じる。
慣れると、首の下から伸びる光の線に気がついた。
線は、海面と逆の方、つまり海底にむかって伸びていた。
ふたたび、衝撃。
軽い頭痛とともに映像がちらついた。
島。夏。砂浜。
こちらにむかって手を差し伸べる人影。
逆光のなか、笑っているように見えた。
映像が掻き消え、濁った闇が戻る。
が、光の線は消えていない。
すべきことが、ウィスタには理解できた。
目を閉じ、
周囲の水が動く。
身体が回転し、足が上となる。
光の線を追い、海底に向けてすべるように移動してゆく。
湾の中でも水深の浅い場所であり、間もなく海底にたどり着いた。
線は、砂の上に横たわる黒い影に繋がっていた。
影は、ひとのかたちをしていた。
すぐ横に降り立つ。
それでようやく、顔がみえるようになった。
黒か、深い藍なのか。
ひかりがほとんど届かない場所で髪の色が見分けられない。
閉じられた目のうえで、そこにかかるほどの長さの前髪が揺れている。
男性だった。
ウィスタとおなじほどの年齢。
ただ、生きてはいないように見える。
その胸から伸びる光が、ウィスタの胸に、繋がっている。
かがむように近寄り、その胸に手を伸ばした。
指先が触れる。
爆ぜた。
そう感じた。
世界が消失し、生成された。
真っ白の空間がウィスタを包み、回転し、拡張した。
やがて白は、ウィスタを、そして目の前の男を侵食して、すべての色を打ち消した。
島。
ウィスタは砂浜に立っている。
いや、立っているのは、ウィスタではない。
知らない誰かの目をとおして、ウィスタは、強く照りつける日差しに輝く海をみているし、知らない誰かの皮膚をつうじて、いま手を握る相手の温度を感じている。
手を引くその男の、黄金色に輝く長い髪が揺れていた。
視界にはいる自分の腕の色は、浅黒い。揺れる髪の端が見える。男と同じ黄金色。
笑っていた。
ふたりともに、笑って走っている。
場面が変わる。
夜だった。
やはり、砂浜。
並んで腰を下ろすふたりの頭上を、凄まじいと形容すべきほどの星空が覆っている。
星あかりが波間に落ち、白く崩れる波頭の泡と混じり合う。
ふたりのくちびるが離れ、ひとことふたこと、言葉を交わす。
短い言葉だが、世界の質量をもっても贖うことができない重さの、約束だった。
約束を見守り、担保するのは、星の海。
場面が変わる。
男が、旅立つ。
海面を覆う朝霧のなか、故郷に向かう船に乗り、こちらに手を振る。
大声で名を呼び、見えなくなるまで両手を振り続ける。
男がその浜に戻るのを、毎日迎えにゆき、毎日ひとりで帰った。
季節が変わって、年が変わって、数えることができないほどの嘆息がこの浜に置かれた。星のめぐりは何十回も繰り返され、ついに、終わりを迎えた。
ウィスタは、生命を終えて砂浜で眠るように横たわるそのひとから、離れた。
離れた彼女のいのちは、ながい時間をひといきに旅した。
朝と夜が瞬時に数千も通り過ぎた。
誰もいなかったこの島にひとが住まうようになり、家がたち、町ができた。
そのなかでいつしか、胸にあざを持つ女児が生まれ、その子が水を操り、やがて巫女と呼ばれ、彼女らのまわりにまた人が集まり、神殿がたつ、その様子を見守り続けた。そのなかに、ウィスタ自身の誕生とその後むかえる失意をも、みつけた。
時間が、いまを、追い越した。
黒い雲。
国を覆う分厚い雲が、海まで続いている。
水平線の向こうに現れたのは、無数の船影だった。
軍船。
黒く塗られた巨大な軍船が、海を埋めている。
この国に向かってくる。
ひとびとはその姿に怯え、逃げ惑う。
砲撃。轟音。炎。
町が焼ける。神殿が崩れ落ちる。
生きているものの、そしてもう生きていないものの、叫び声。
怨嗟が海を赫く塗りつぶしてゆく。
ウィスタは身を捩り、手を伸ばし、護ろうとしたが及ばない。なにもできない。ただ、ただ、灼ける命たちを見送るのみだった。
顔を知らぬ夫の、その顔が浮かんだ。
白い世界が、終わった。
海の底。
横たわる男。
その胸に伸ばしていた指を引き、背に腕をまわし、抱き上げた。
そうしなければならないと感じた。
胸と胸が近づき、互いを繋いでいた光の線が収束する。
次の瞬間。
上空から海面を見ているものがあれば、強く蒼い光が海を走るのを目撃することとなったはずである。
ゴンズの船、ウィスタが沈んだ地点を中心に、背丈の数百倍に至る巨大な星が、その蒼い光によって瞬時に描かれた。星は、八つの角を有している。
その輪郭を境界として、海が、落ちた。
轟音とともに、星のかたちの巨大な穴が、くちをあけた。
境界で海が切断されている。
断面は、渦巻く海水。垂直に聳え立つ水の壁が形成されている。
ゴンズの船は、それを支える海水を瞬時に失い、中空に放り出された。
が、即座に、霧の渦が穴の底から吹き上がった。霧はまばゆい光の粒と混ざり合い、穴を満たした。巨大な手に載せられるように、ゴンズの船は支えられた。ゆっくり回転しながら、いまは光で埋められたその星形の中心に、浮いている。
光の霧の、ひときわ強い流れが上昇してきた。
流れの中心にあったのは、花、だった。
揺れる船体の床に四肢をつきながら、ゴンズは、そう見たのだ。
真っ白な巫女服の長い裾が、袖が、噴き上げられる光の粒子に彩られて渦の中央でふわりと舞っている。
ウィスタの全身が、輝いていた。
朱であるはずの髪すら、いまは白にちかい青に染められ、みずから発光している。
その表情は、ひとのものと思われなかった。
うっすら開けた目を伏せ、右手を前に差し出している。
下に向けた手のひらは、わずかに離れた場所に浮いている、横たわった姿の人影に向けられている。人影もまた、青白く、輝いている。
そのまま、左手をわずかに上げる。
ゴンズの船はがくんと揺れ、ウィスタのほうへ引き寄せられた。
光の表面を滑るように進み、ウィスタの下に入る。
甲板に、彼女の足が着く。人影が降りる。
と、光が、ふいに消えた。
渦は粒子となり、粒子は揺れて拡散し、たち消えた。
ウィスタと人影を包んでいた輝きも静かに失せた。
彼女は目を閉じ、よろめくように姿勢を崩した。
凄まじい轟音とともに、海が閉じた。
断面が崩れ、濁流が流れ込み、巨大な波をたてて渦巻いた。
嵐に翻弄されるように船は揺れた。
それでも転覆することもなく、やがて、海面は平穏を取り戻した。
「……いったい……なにが、どうなってやがる……」
ゴンズはしばらく腰が抜けたように甲板に座り込んでいたが、やがて立ち上がり、横たわっているウィスタの顔を覗き込んだ。肩を揺する。
と、ウィスタは目を開けた。
がばっと起き上がり、見回す。
その勢いにゴンズはもういちど、尻餅をつくこととなった。
「お、おい、ウィスタちゃん……大丈夫なのかよ」
その声にかまわず、ウィスタはちかくに横たわっていた男を見つけ、にじり寄った。くちに手を当てる。首筋に触れる。
眉を寄せ、首を振って、胸に手を当てた。
祈るように目を閉じる。
身体が熱くなる。
熱が、腕に降りてゆく。
手のひらに広がり、男に伝わる。
血を、温める。
小さく鋭く、金属を擦るような音。
それがやがておおきくなり、やがて、だん、という衝撃が甲板を走った。
男の背がわずかに浮いた。
同時に水をがばっと吐く。
しばらく水を吐き続け、咳き込み、おおきく息を吸い込んだ。
苦悶していたが、やがて、目を開いた。
覗き込むウィスタの顔を焦点のあわない目で捉える。
ウィスタはなにもいわず、その目をずっと、見つめている。
それでもやがて、男がなにかをつぶやいた。
はじめ音にならなかったが、しばらくおいて、再びつぶやき、それはウィスタの耳にも届いた。
「……もん、しょう……ほし、と、なみ……きみが、きみが、ほし、の……」
そしてまた、男は意識を失った。
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