第17話 歪んだ笑み


 艀船はしけは波に打たれて回転した。

 船側が空を向き、だん、と音を立てて甲板が海面に叩きつけられる。

 

 が、直前にウィスタは動いていた。

 波が頭上まで迫るのと同時にオリアスの胴に腕を廻した。オリアスもまた、ウィスタを庇うように抱きしめる。

 二人の視線が瞬時かさなる。言葉を交わすいとまはない。しかし、そのようなものは不要だった。


 きん、という音とともに走った光が周囲の水を切断する。波は微細な飛沫となり、光を帯びながら回転して球を形成し、二人をその内側に取り込んだ。

 波が二人を叩いたが、衝撃は球の表面を滑るだけだった。

 艀船の下に一度、潜る。

 ウィスタは固くつむった目をゆっくり開いた。目の前には、オリアスの胸。黒い厚手の布地を通しても、わずかに蒼く、星のかたちに発光しているのが見てとれた。

 オリアスも目をひらいた。海面のほうを見あげる。目配せし、互いに頷いた。

 浮上する。

 艀船の横に出て、上を向いた船腹に手をかける。そこで光の球は消失した。

 とたんに、波をかぶった。

 海面が荒れている。

 オリアスと並んで、ウィスタは神殿の艀船の方を見た。

 

 「……え」


 思わず、声が出る。

 リリアと巫女が、対峙していた。

 三人の巫女のうち一人は主教の前にたち、他の二人がリリアに正対している。

 巫女の表情はいずれも、陶然、と表現すべきものだった。 


 と、リリアが腕を交差させた。

 周囲の水から二つの小さな渦が立ち上がり、竜の形をとる。腕が振られると同時にそれは、彼女の前で祈りの姿勢をとっている二人の巫女に殺到した。

 が、到達しない。水の竜は弾かれるように軌道を変え、ひとつは砕け、ひとつはリリアに反転した。避けられない。小さく叫んで、リリアは転倒した。

 艀船の周囲に立った複数の波浪が、リリアに襲いかかる。彼女は顔の前に手のひらを差し出し、なにかを呟いた。強い風に打たれたように、波は砕け、消失した。


 リリアは手で身体を支え、起き上がった。わずかな時間で、すでに無数の痛手を受けているらしい。息が荒い。

 それでも、ウィスタのほうを見て、笑った。大声をあげる。


 「ウィスタ。生意気に。飛沫から球体を作るのは高度な技術だ。いつの間にそんな技を……っと」


 再び足元に迫った波に向け、手を振り下ろす。水は割れた。

 顔を上げ、巫女たちに声を向けた。


 「なあ、おまえたち。自分がいまなにをしているのか理解できているか」

 「……主教さまのご意思は、水霊すいれいの意思。それすなわち、世界の意思。わたしどもは従うのみでございます」

 「……ふ。良い子だ。巫女の世界は変わっていないな。相変わらずの、クソだ」

 「あなたも巫女であった者。かくあるべきではございませんか」

 「まあ、せいぜい気をつけろ。そこの年寄りはどうやら耳が遠くなったらしい。水霊の霊言がなにやら、歪んで届いてるらしいからな。話半分で聞いておけ」


 そうして主教、イディ三世のほうへ向きなおった。


 「……遅かれ早かれ、本性を晒すだろうとは思ってましたが。あっさりしたものだ。シア航国こうこくの襲来をウィスタに止められたのが、そんなに痛かったのですか。ルオを火の海にする機会はもう、そう簡単に訪れないでしょうからね」


 なかば眠るように目を細めていた主教は、その言葉に眉をあげた。

 が、声はあくまで、穏やかだった。


 「……議長。いや、巫女の長、リリア・リオ・リッジヴァルデン。ひとつ、聞いておきたい。どうして君は、巫女を辞めたのだ。なぜ、教政院きょうせいいんなどへ入った。あれだけ大事にしたのに」

 「ウィスタですよ」


 そういい、ウィスタの方を見る。転覆した艀船の船腹にオリアスとともに立っていた彼女は、息を呑んだ。


 「わたしは長い時間、ウィスタを見ていた。あれだけ期待されながら秘儀に失敗したのも、どんなに訓練を積んでもわずかなちからしか得られなかったのも、望まなかった婚姻の相手が海に沈んだのも、ぜんぶです」

 「……ああ。そうだな。不憫な子だ」

 「そう、不憫な子です。生まれのときから、あなたに囚われていた」

 「……どういう、意味かね」

 「ずっと違和感を感じていた。ウィスタから巫女のちからをそう多く感じなかったのは事実です。だが、あなたはウィスタに、近すぎた。いつでも背を撫で、いつも庇おうとし、ずっと、駄目でもよいのだ、できなくてよいのだと、言い聞かせた。まるで上を向く意思を奪おうとするように」

 「……」

 「そうして、婚姻相手が海に沈んだ。商船を扱う家の御曹司です。自分の家の船です。現場は近海です。そう簡単に、転覆するほどの失敗をするとは思えない。それでも、事実、沈んだ。そしてウィスタは深い失意とともに、神殿を去った」


 ウィスタの目には、リリアがこぶしを握りしめたように見えた。

 ちらと彼女のほうを見て、呼吸を置き、ゆっくりと言葉を続けた。


 「……あなたは、ウィスタの夫を、殺した」

 

 ウィスタの視界が歪み、昏くなった。

 平衡感覚を失い、膝を折ろうとしたが、それにすら失敗した。

 横に倒れかかり、オリアスに支えられる。

 自身の浅い呼吸音だけを感じている。

 

 主教は、言葉を返さない。

 薄く開いた目を静かにリリアに向けている。


 「神殿の巫女たちが意思をあわせれば、国の周囲の海は制御することができる。嵐を生むことも難しくはない。つい先日、そこのシアの皇嗣さまの潜入船が転覆した夜のようにね。ウィスタの夫が沈んだ夜、わたしはあなたの指示で遠方に出ていた。神殿に戻り、事故の知らせを聞いた」

 「……」

 「違和感が決定的になった。手に入るだけの記録を調べた。話を聞いた。あなたが海上国家に伝承される、はじまりの巫女の神話をずっと追いかけていたことも知った。ちょうど、ウィスタが生まれた日からね。あなたは、ウィスタの紋章の意味を、知っていた」

 「……」

 「彼女の本当のちからを知っていた。それは、あなたの目的の邪魔だった。だから封じ続けたのだ。手元に置いて監視し、失意を繰り返し与え、意思を奪い、希望を閉ざして、封じた。そのことに気がついたから、わたしは巫女を辞めた。さらに調べるために、教政院に入った。あなたの真の目的を」


 リリアは前に踏み出した。巫女たちが反応する。ざざ、と周囲の海面が揺れる。


 「……他国の密使をすべて始末し、国内に諸外国の悪評をひろめ、一切の外交を絶って、武力による開国を誘発する。それがあなたの目的だ。だが、それであなたは、何を得る。灼かれた国で何をする」


 主教、イディ三世は、あくびをするかのような表情を作った。大きく息を吸い込んで、ふうと吐き、眉尻を下げた。


 「聖ルオ国は滅びるのだ。無理難題を押し付ける海上国家群に灼かれてね。わたしはわずかに残った巫女たちとともに、世界の同情と支援を受けながら、新たな国家を創建する。ルオは、捨てる。水霊のちからは、すべてわたしがつくる。自然発生する巫女はもう必要ない」

 「……ちからを、つくる……?」

 「ああ。わたしが、産ませるのだ」


 そういい、側の巫女たちに笑みを送った。その視線がもつ粘着質は、リリアの肌に粟を生じさせた。


 「後の世のすべての巫女はわたしの子であり、孫となる。わたしが世界の巫女たちの始祖となる。もう、祝福のちからなど与えはしない。水霊の意思は、わたしの意思だ。わたしが、世界となるのだ」

 「……狂っている」

 「安心しろ」


 主教が指を動かすと、瞬時にして波浪が立った。先ほどよりずっと大きい。その波は正確にリリアを直撃した。受け止めきれず、彼女は転倒して流された。艀船から転落する。

 船上からそれを見下ろし、主教はため息をついた。


 「君はわたしの好みではない。手は出さんよ」


 リリアは波間に顔を出していたが、意識がないように見えた。すぐに姿が見えなくなる。ウィスタは我にかえり、叫んだ。


 「リリアさま!」

 「ウィスタよ。わたしの可愛い、ウィストアギネス・アスタレビオ。怖い巫女の長ももういなくなった。どうだ、わたしと一緒に来ないか。新しい世界で、みなで幸せに暮らそうじゃないか」


 そういい、主教はウィスタの方へ手を差し伸べた。

 その表情は柔和だったが、目が充血している。高揚感のためだろうが、出発前に呷った強い酒の影響もある。

 ウィスタはオリアスに支えられながら、震える声を絞り出した。

 

 「……主教さま……すべて嘘と、おっしゃってください」

 「ああ、いいとも。すべて嘘だ。君にちからなどない。君は、わたしに縋らなくては生きてゆけないのだ」

 「……わたしの、夫、は……」


 主教がちいさく舌打ちをしたことは、もちろん誰も気づいていない。


 「……船は……沈められたのですか。わたしを、護ってくださっていたのでは、ないのですか……」

 「……まったく。面倒だ」


 主教の両手が、今度は大きく上がる。巫女たちは跪く姿勢から立ち上がり、互いに手のひらをあわせる。摩擦音が生じ、海面が、たん、と揺れた。それははるか神殿の方角へと飛び、ややおいて、低く重い唸りが海底から響きはじめた。

 海面が大きく、荒れ始める。空気が帯電している。厚く暗い雲がにわかに湧き、雷鳴が轟いた。


 「シアの航帝こうていとの密約も無駄になってしまった。我が国を滅ぼした暁には便宜をはかる、と言っておいてやったのにな、とんだ役立たずだ。みんなまとめて、沈んでしまえばよい……ウィストアギネス・アスタレビオ」


 そういい、歪んだ笑みをウィスタに向けた。


 「君は良い子を産んでくれそうに思ったのだがな。最後まで手を出さずにとっておいたのに、惜しい。まあ、水の底で亡き夫でも探してくれ……ああ、顔を知らぬのだったな。哀れなウィスタ。さらばだ」


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