第16話 護れ、ウィスタ
太陽はすでに水平線を離れ、星と月から空の支配を取り戻しつつある。
ウィスタは昨夜、一睡もしていない。が、わずかの眠気も感じていない。表情を見る限り、オリアスも同様だった。
オリアスがみずから操船している。
ウィスタはその側で、
乗り込んでいるのは二人だけだ。
リッキンも他の者も同行を主張したが、オリアスは頷かなかった。相手がこちらを沈める気なら、何人乗っていようと同じことであり、犠牲は少ない方がよい、と。万が一があった場合の全艦隊の今後について指示をして、オリアスは、ウィスタとともに艀船に降りた。
母艦から離れるときに、その陰から陽光の下へ出る。海面に乱反射した朝の光が二人を刻み出す。並び立つその姿は、母艦から見送るものたちに神話のいち場面を思い起こさせた。
ほどなく、神殿の船の側からも艀船が離れるのが見えた。こちらのものよりやや大きい。やがて接近し、乗り込んでいるものの姿が視認できるようになったとき、ウィスタは声を漏らした。
「……ああ……主教さま……」
思わず頭を下げ、巫女の礼をとる。
神殿の艀船の先頭には、純白の神官服に身を包んだ主教、イディ三世の姿があった。
後ろに、
声を張れば届く距離まで近接した。
オリアスは停船し、舷側に立った。
ウィスタも横につく。
「……シア
オリアスが声をあげると、主教はやや驚いた顔をして、頷いた。
「聖ルオ国、
「……その節は、失礼を」
「いや……密かに我が国を訪れたのは、なにか存念があってのことだったのであろう。今日の用件も同じと、考えて良いのかな」
「……それは」
オリアスが続けようとすると、主教の後ろで腕を組んでいたリリアが前に出た。
「ちょっと、よろしいかな。そこの元巫女がわたしに話がある。そう聞いたから、主教もわたしも、ここに来たのだ。先にウィスタに用件を聞こうじゃありませんか。なあ、ウィスタ」
そういい、ウィスタのほうへ目を向ける。その目を彼女は、まっすぐ受け止めた。
「……はい」
「言ってみろ。時間はたっぷりある。昔の思い出話からはじめるか」
リリアはそういって笑ったが、ウィスタは動かない。
「……なにが、起こっているのですか」
「ん?」
「神殿で。ルオの国で。水霊の巫女のちからは、望むものには等しく
「……おまえは、どう思うのだ。どう考えるのだ。はっきり、言ってみろ」
「議長」
主教が振り返り、リリアを制止した。
「ウィスタにそのようなことを言わせなくてもよい。わたしがそちらの、皇嗣どのと直に話そう。ああ、ウィスタ。かわいそうに、捕えられて酷い目に遭わされ、そのように言えと脅されたのか。もう、心配するな。あとはわたしたちが……」
「いいえ」
ウィスタが声を張った。目を見張る主教。まったく予期していない言葉を聞いた者の反応だった。
「いいえ。わたしが、知りたいのです。わたしが、確かめたいのです。自分の国に何が起きているのか。神殿は、わたしが知っているような神殿なのか」
「……ウィスタ」
「ほんの短い時間でしたが、外の世界、他の国の人たちと交わりました。その言葉も聞きました。全部が本当かはわからない。でも、わたしはその人たちを、好きになりました。だから、信じたい。信じます」
「……」
「その人たちは、こう言いました。わたしの国が、聖ルオ国が、巫女のちからをすべて……」
「もう、良い、ウィスタ」
主教が手をあげた。が、ウィスタはなかば叫ぶように、声をあげた。
「すべて封じて、どんな願いも聞き入れなかった。何回、使いを送っても一度も返答しなかった。その使いも誰一人、帰らない。何年にも渡って、わずかでいい、少しでいいから巫女を、国を、開放してほしい。開国してほしい。そう訴えたと聞いています」
「……」
「主教さま。わたしにはなんのちからもありません。一度は神殿に上げていただいたのにちからは弱く、縁があった夫すら救うことができず、国のことも、政治のことも、なんにも知りません。ただの田舎の、
ウィスタはそこで、オリアスの方に振りむいた。
オリアスは、わずかに微笑み、頷いた。
「……それでも、わずかの時間に、たくさんのことを知りました。たくさんの想いを学びました。もう、見なかったことにはできない。主教さま。国で……神殿で、なにが起こっているのですか。ルオは、巫女のちからを、封じたのですか。国は、神殿は、なにを行おうとしているのですか」
早口で言い切る。返答をするものはない。しばらく、波が船側を叩く音だけが響いていた。
「……ウィスタ」
ややあって、主教がくちを開いた。
「シアの者たちに、感化されてしまったのだな……そのようなことがあるわけがなかろう。いくつかの港ではいつでも、他の国の船を受け入れておる。神殿の巫女も、必要に応じて派遣している。すべては、陰謀だ。開国を強要しようとする諸外国が……」
「本当にそうでしょうか?」
ふいに、リリアが後ろから声を出した。主教がゆっくりと振り向く。
「……なんと?」
「書類は山のようにある。毎日のように、神殿が指定した港で、各国の船の
「……」
「わたしの手のものを現地に送ることもある。抜き打ちでね。だが不思議と、そういうときだけ、嵐が起こって取引は中止だ。あるいは他国の事情で、寄港が取り止めになる。まあ、たまには実際に霊珠の祝福が行われていることもありました。だが……」
リリアは憂鬱そうにため息をついて、言葉を継いだ。
「ある時、わたし自身が港に行ったことがありましてね。どうしたわけか、他国の船の乗員に、わたしが知っている顔がある。かつて神殿の地下港の連絡船を管理していた、船乗りだ」
「……見間違いでは」
「残念ながら、違います。わたしと同じ郷里の男です。ご存じでしょう、わたしも田舎の港町の出です」
「……」
「彼が国籍を移したという話は聞いていない。まあ、わたしが嫌われ者だから、郷里の噂話が耳に入らなかっただけかもしれませんが」
主教は、沈黙した。
ウィスタとオリアスもなにも言わず、リリアの顔を見つめている。
「偽装です。他国との取引があるように、装われています。それも、数年に渡って。巫女のちからは、他国への霊珠への祝福は、ここ何年か、まったく行われていない。複数の証拠からそのように判断しました」
「……そのような、ことが……」
「主教。外交と経済は、教政院の管轄です。が、巫女の祝福はすべて神殿が管理している。実際に巫女を動かしているのは、神殿です。その長がこうした事実を知らないというのは、あり得ることでしょうか」
遠くを見るように、主教は顔をあげた。白髪が多く混じる長髪が金の髪留めで束ねられている。ああ、と声をだして、彼はかくんと、こうべを垂れた。
「……そう、か……。わたしの足元で、そのような不正が……誰が、なんのために……」
「調べねばなりませんな。詳細に、そして、苛烈に」
リリアは目を細め、主教へ強い視線を投げかけた。
主教はややおいて、頷いた。
「……そうだな。調べねばならんな」
その手をわずかに上げる。
艀船の後方で、神殿の巫女たちが
周囲の水がにわかにざわめく。
リリアが反応した。
両手を左右に広げる。
その手がわずかに発光する。
「ウィスタ! 護れ!」
リリアが叫んだ瞬間、背丈の数倍の波浪が立った。
ウィスタが乗る艀船はそれに呑まれ、瞬時にして転覆した。
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