第10話 涙は海に落とさない


 「……は? 嘘ですよね?」


 リッキンが問うと、オリアスは腰に手を当て、上を向いた。月を見ている。風流ではあるが、おそらく彼は話題を逸らしたい時にはそうするのだろうと、ウィスタにも見て取れた。


 「主教に会えなかったんすか? もうシア航国母艦隊こうこくぼかんたいがすぐそこですよ? 航帝こうてい陛下いらっしゃるんですよ? 俺ら全力で止めたのに単騎突入して主教説得するって言い出して、なのに遭難して神殿つれてかれて船護ふなもりひとり連れて帰って、それで終わりですか? え、まじで?」

 「それで終わりってわけじゃ」

 「こっちだって大迷惑ですが」


 リッキンに、耳までの紺の髪の男と、夜目にも鮮やかに紅い長髪の女が、抗議した。いずれも髪も服も、水がしたたったままである。が、そういう状況になれているふたりは、まず名誉回復に注力した。

 先にくちを開いたのはオリアスである。


 「いや、この人……ええと、ウィストアギネスさん? 星の巫女かどうかはわからんが、すごいちから持ってる。航帝の前に連れてって、星の巫女を聖ルオ国から連れてきたから攻撃はしばし待てと俺が言えば」


 ウィスタが言葉を被せた。


 「え、ちょっと、なんでわたし一緒に行くことになってます? 落ち着いたらもちろん送ってもらえるんですよね、港に。明日も仕事、あるので」

 「はあ? 仕事?」


 オリアスは横に立つウィスタを見下ろし、くちを歪めた。


 「国の存亡がかかってんだぞ。仕事どころじゃないだろ」

 「……自分の国がけんか売っといて、殴られたくなきゃちからを貸せってことですか? なにそれ。だから海人は荒くれだって言われるの」

 「あのな、さっきも言ったけどな、もとはといえば君の国が、巫女を」

 「だ、か、ら! 神殿は、他の国の霊珠への祝福はちゃんと、やってます! あなたこそなんか勘違いしてるんじゃないの?」

 「ちゃんとしてねえから、俺の国が動く羽目になってんじゃねえか! 巫女だったら自分の国の海の様子くらい、把握しておけ!」

 「知りません! 神殿づとめじゃ、ありませんから」

 「だいたい、紛らわしいんだよ! なんで神殿の巫女でもなんでもないのに、あんなちから使えるんだよ。それに、その、胸の……」


 言ったところで、ウィスタは目をおおきく開いて胸元を抑え、横を向いた。

 オリアスは三呼吸ぶんほど黙り、ああ! と叫んで、同じように横を向いた。ただし、ウィスタとは逆方向である。


 「……あの……なんか知らねえけど、母艦隊、迫ってるからさ。痴話喧嘩は」


 オリアスとウィスタが同時に目を剥いてリッキンに向き直ったから、彼はくちを結んで、両手のひらを前に差し出した。


 「……喧嘩は、まあ、あととして……だけどほんとに、もう止める方法、ないですぜ。あと四刻もあれば母艦隊が着いちまう。どうすんですか」


 オリアスはしばし考え、ふうと息を吐いて、腕を組んだ。


 「……さっき言ったのは、なかば、本気だ」

 「え、どういうこってす?」

 「この巫女さん……ウィストアギネスさんを、星の巫女だって連れてって、ひと芝居うつしかねえだろうな」

 

 ふたたびウィスタがなにかを言おうと大きく息を吸い込んだところで、オリアスは彼女に向けて手をあげ、一方で頭を、前傾させた。


 「……星の紋章、あるんだろ。波に包まれた、星の」

 「……あります、けど……?」

 「俺がガキの時分からずっと見てた夢、不本意ながら、有名でな。第七皇嗣の星巫女かぶれ、って。あんまり囃し立てられて、悔しくなって、胸の星、刻んだんだ」

 「……」

 「だから、な。そんな俺が、星の巫女を連れて帰ったってなったら……運命だって、みんな思うに違いない。聖ルオ国を護る意思が、動いたんだって。いや、もちろん、航帝は笑うだろう。でもな、重臣たちさえ、説得できれば……」


 と、ウィスタがぱんぱんと腿のあたりの水気をはたいて、ふいと後ろを向いて舷側のほうへ歩いて行ってしまったので、オリアスは追いかけざるを得なくなった。


 「お、おい……」

 「お断りします」


 手すりに手をかけ、ウィスタはどこかを見遣りながら、簡単に言い切った。


 「な」

 「わたしがなぜ、あなたを助けたか、地下港まで人質になったか、わかりますか」

 「……い、や」

 

 ウィスタは胸元をこぶしで抑え、わずかに震えたが、それはオリアスの方からは見えてはない。


 「……この紋章は、呪いでした。だれからも期待され、幼い頃からわたしを縛り、どんな勉強より、どんな楽しみより、どんな友人より、巫女としてのつとめを優先させた、呪いでした」

 「……」

 「わたしには、意思などなかった。みんなが喜ぶから、神殿にあがって。みんなが悲しむから、秘儀に叶わなかったことを悲しんで。紋章に意味がないなら結婚しろって、みながいうから、結婚して。これは、紋章なんかじゃない。呪いの刻印」

 「……そんな、ことは」

 「でも! あなたが、この紋章を知っていて、星の傷を、紋章を、胸に持っていて。わたしには、なにがなんだか、わからない、わからないけど……このひとを助けられれば、帰してあげられれば、なにか……報われるって、思った。この波と星に、ほんの少しでも、意味を持たせられるんじゃないか、って」

 「……」

 「だけど……見せ物じゃ、ない。わたしは」


 ウィスタは、暗い海を覗き込んでいた。

 オリアスは声をかけられない。

 沈黙を破ったのは、リッキンだった。


 「ウィストアギネスちゃん。送るよ。快走艇も積んでるからさ。どこの港、いけばいい?」

 「……え」


 ウィスタが振り返ると、リッキンは横のオリアスの腕を小突いて、眉を逆立てた。


 「いい子じゃないすか。なんで巻き込んだんだか知らねえけど、我が誇り高き第七艦隊は常に、涙を海に落とさないために動く。いつも言ってるじゃないっすか、親方。帰してやりましょうよ。おかへ」

 「……艦長、だ」


 オリアスは言い返したが、下を向いている。


 「……リッキン。快走艇下ろして、若いの二人、つけてやってくれ」

 「よう、そろ」


 リッキンは手近の何人かに声をかけ、艦橋の向こうに歩いて行った。

 残ったオリアスは、しばらくもじもじと何かを言いたげにしていたが、やがて思い切ったようにくちを開いた。


 「……あの、な。ほんとうに君は、星の巫女ではないのか……あのちからは」

 

 ウィスタは少し眉をひそめたが、ちいさく首を振り、哀しげに笑った。


 「星の巫女というのは、わたしの国には伝わってません。でも、ちがいます。わたしは、ただの漁船の船護り、船護りのウィスタ。あれはきっと、水霊すいれいのご加護、気まぐれでしょう」

 「……ウィスタ……」


 オリアスはくちのなかでなんどか彼女の名を呟いて、上を向き、おおきく息を吸い込んで、吐き出した。


 「……いろいろ、面倒ごとに巻き込んでしまって、すまなかった。陸に戻ったら、どうか近くの住民を誘導してやってほしい。山の方へ。できるだけおおきな岩陰や建物の陰に、身を潜めるようにと」

 「……本当に、攻撃、されるんですか」

 「……我が国は……そして、海上国家連合は、本気だ。滅ぼすことはないだろう。だが、たくさんの血が流れる。もう、止める方法はない。君の国が、主教が、開国を宣言する以外にはな」


 ウィスタがなにかを言おうとくちをひらいたときに、遠くから声がかけられた。リッキンの手のものが、船の用意ができたから船尾に来いと、呼ばわっている。


 「……じゃあ、な。ウィスタ、さん。命を救けてくれて、本当にありがとう。もし、いろいろ騒動が落ち着いて、君の国に行けるようになったら……」


 ウィスタは言葉を返さず、オリアスの紺色の瞳を見返した。


 「……いつか、訪ねるから。紋章の話、聞かせてくれないか」

 「いやです」

 「え」


 ウィスタは、横を向いた。


 「それって、砲撃されて、灼かれて、罪もないたくさんの人が苦しんで、無理やり開国させられて、行き来ができるようになって、ってことでしょ。いやです。絶対に」

 「……や、それは……」

 「止めてみせてください。明日の夜、なんにも起きていない静かな海で、わたしの話を聞いてください」

 「……」

 「……なんにも、できません。すごいちからなんて、ない。でも、できることがあるなら、連れてって」


 ウィスタの髪は、あるいは簡素な一枚服は、さきほど海水に濡れて、いかにもみすぼらしく身体にまとわりついているのである。

 だが、いま、オリアスの目に映っているものは、明るい月明かりのもとで、みずからが艦長をつとめる船の甲板で、まっすぐたっているものは。


 その艶やかな印象を、現在のオリアスが適切に形容することは困難であった。



 

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