05 酒井抱一の珍客

 しばらくして。

 酒井抱一さかいほういつはまた、次は何を描くかと筆をくるくるともてあそんでいると、弟子の鈴木其一すずききいちから来客の旨、告げられた。


「何だい、斉礼なりのりさまかい」


 徳川斉礼は、あれから屡々しばしば夢華庵まで駆けて来ては、画を観たり、句を詠んだりするようになっていた。

 それは、それまで無趣味と思われていた斉礼を知る者にとっては驚きの出来事だが、当の斉礼に言わせれば、やはり馬がいいとのことで、行き帰りに馬に乗る方が、生き生きとしていた。


「まあ、人それぞれさ」


 抱一は、河合寸翁かわいすんおうから送られた、玉椿という菓子をつまみながら言った。

 玉椿は、寸翁が命名した和菓子である。

 それは、将軍家斉いえなりの娘、喜代姫が姫路藩に嫁いできたことを記念して作られた。

 この降嫁にはむろん、斉礼がからんでいる。


「しかしまさか、本当に寸翁さんの策がうまくいくとは」


 寸翁は、喜代姫が降嫁してきたことをしおに、江戸へ姫路木綿を売り出す。

 従来、大坂商人を介していたため高価だったそれは、寸翁の根回しにより、姫路藩が直接江戸へと卸すことになり、安価で売れた。

 しかもその販売は専売であるため、姫路藩は相当の利益を上げた。

 ただ、そのやり方は、他藩の嫉視を買った。それだけならまだ良いが、他藩は専売に食い込ませろと要求。

 そこを寸翁は突っぱねる。


「この木綿専売は、喜代姫さまのである」


 いくら何でも、将軍の息女の化粧料と言われては黙るしかない。

 これが寸翁の策である。

 将軍の息女・喜代姫の降嫁を契機に、江戸への木綿専売の許しを得、利益を上げる。

 そしてその喜代姫を大義名分として、利益を守る。

 こうして寸翁は、宿願である債務完済を遂げた。


「ま、こうして画業に専念できるんだ。寸翁さまさまだ」


「その寸翁さまの紹介だそうで」


「何だ、勿体もったいぶって。で、誰なんでい?」


 抱一は煙管を取った。

 寸翁の紹介となれば、描きながら応じるわけにもいかぬ。

 煙草ならいいだろう。


「公方さまです」


「は?」


 其一はいっそ澄ました顔で、もう一度「公方さまです」と言った。


「お、おめえさん、何言ってやがるんでい。い、言うに事を欠いて、公方さまだあ?」


「事欠いてなど、おらぬぞよ」


 夢華庵の門から、大声が響く。


「ま、まさか」


 抱一は、座布団から腰を浮かせて、中腰になった。


斉礼が世話になったと聞いた。どれ、予にも何か珍奇な、面白い画を」


「じょっ、冗談じゃねェや」


 抱一は駆け出した。

 夢華庵の縁側から庭へ。野へ。


「待て待て。いや鬼ごっこか。これはこれで面白い趣向じゃ。それ行くぞ。待て待て」


 玄関からどたどたと走り込んで来る音がする。

 上様上様と、何人かの叫び声も。


「なっ、何だってんだ! 巫山戯ふざけるな! う、上様をかたる、不届き者め!」


 抱一は怒鳴った。

 ここは悪ふざけをされているとした方がよい。

 なまじ、徳川家斉征夷大将軍などという、偉い方とかかわりを持ってなるものか。


「この酒井抱一、好きに描き、好きに生きる! では、御免!」


「待て待て。予は本物じゃぞ。待て待て」


 抱一は駆ける。

 家斉いえなりも駆ける。

 夢華庵を背景に。

 それを見ていた其一は、これこそ画に描いてみたいものだ――そう、思った。



【了】

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返歌 ~酒井抱一(さかいほういつ)、その光芒~ 四谷軒 @gyro

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