04 酒井抱一の返歌

「サアここから本番でござる」


 河合寸翁かわいすんおうは、根岸夢華庵まで屏風を運び、そう言った。

 抱一ほういつも同感である。

 彼は、寸翁が警備のため姫路藩士を夢華庵の周囲に配置している間にも、作画の準備を終えた。

 屏風の方にいる其一きいちが声をかけた。


「お師匠、本当にやるんですか?」


「あたりめえよ」


 抱一は煙草盆から煙管きせるを取り上げて口にする。

 其一は非難がましい目で見る。


「何でい」


「描く時には止めて下さいね。火がついたら、元も子もありませんよ、お師匠」


「ン、そうだな」


 だが一服しないと落ち着かないもんだ、と抱一はうそぶいた。

 何しろ、相手は天下の巨匠・尾形光琳。

 その光琳の畢生ひっせいの作にを挑むのだから。



 数日後。

 徳川斉礼とくがわなりのりは、夢華庵へ招待された。


「出来上がったので、ぜひ、か……」


 夢華庵は根岸にあり、根岸は当時、江戸の郊外という扱いである。


「行くか」


 せっかくだから、姫路藩の献上してくれた馬にでも乗って、駆けて行くか。

 斉礼は厩へ行き、自ら馬を出し、跨った。

 門番に門を開けさせ、出かける旨伝えると、すぐに馬を走らせる。


「ハイヤ!」


 何一つ趣味という者を持たない斉礼にとって、馬は唯一の、そして随一の娯楽である。

 広がる大地と自然の中。

 風を受けて駆ける。

 こんなに面白い、素晴らしいことが他にあろうか。

 今、江戸の街を出た。

 根岸まで、あと少しだ。

 風になぶられる野の葡萄や紅葉、あるいは昨夜の雨に濡れた草花。

 そういったものが目に映っては、後ろに消えていく。


「うつくしい……」


 思わず、そう呟いていた。

 無趣味な自分には、似つかわしくない台詞だなと思いながら。

 そうこうするうちに、夢華庵が見える。

 なぜ、夢華庵だと判るかというと。


「自ら出迎えとは、大儀……抱一どの、方々かたがた


「いえいえ」


 酒井抱一が夢華庵の前にて佇立して、斉礼を待ち受けていた。

 そして、抱一の周りには、寸翁や其一、そして姫路藩主・酒井忠実さかいただみつ(先日、忠道ただひろが隠居したため、後を継いだ)と藩主夫人の隆姫まで来ていたからである。



「斉礼さまにおかれましては、ご機嫌麗しゅう」


「うむ」


 抱一はさすがに徳川幕府の名門に生まれただけあって、ごく自然に斉礼を招じ入れ、そして藩主夫妻に重役も「さあさあ」と誘った。

 その間、其一は湯を沸かして、茶を用意する。


「こたびは拙画を見ていただくことがめあて。ゆえに、格式ばらずに、茶でも喫しながら、拙画をどうぞ、お目汚しに」


 其一が茶道具一式を持ってきて茶を注ぐと、隆姫が立ち上がって、茶を斉礼に運んだ。

 斉礼は一礼して茶を受け取る。

 忠実も其一から茶を受け取り、「失礼」と言って、茶を喫した。

 斉礼は「毒見、大儀」ともう一度礼をしてから、茶を飲んだ。


「はあ……」


 何となく、場が温まる。

 そこを見計らったように抱一が「では」と、隣室との間を隔てる襖を開けた。

 そこには。


「風神雷神図屏風……おや? これは元々、当家にあったもののようだが」


 斉礼が首をかしげる。絵心はないが、さすがにその程度の区別はつく。

 もしや、試しているのか。

 あるいは、担いでいるのか。


「さにあらず、さにあらず」


 抱一はぶんぶんと手を振った。

 どうやら、何やら座興というか、面白いことを企んでいるらしい。


「抱一どの。これは一体」


「斉礼さま。この夢華庵への道中、どんな景色でござったかな? いえ、江戸市中ではなく」


 江戸市中ではないということは、江戸郊外の様子ということか。

 斉礼は、見たままを答えた。

 抱一は、ほうほうとうなずいて、それで其一に目配せした。


「それではお目にかけましょう。この酒井抱一、一世一代の。風神雷神図屏風への、尾形光琳への、酒井抱一の。とくとご覧あれ」


 抱一と其一が屏風の左右に立ち、よいせっと二人で声をかけて屏風を持ち上げる。

 抱一が奥へ。

 其一が手前へ。

 つまり、屏風は回転して、表が裏に。

 裏が表にと裏返しになった。

 その裏に。


「何と」


 斉礼は、思わず立ち上がっていた。

 屏風の裏には。

 否、今となっては屏風のが。

 たった今、斉礼が駆けてきた、江戸郊外の野のように。


「草が。花が」


 右には、雨に打たれる夏の草花。画面の上に流れる水の流れが、雨天による川の増水を想起させる。

 左には、風に吹かれる秋の草花。画面の上に舞い飛ぶ野葡萄と紅葉が、吹き荒れる嵐を表現する。


「……ううむ」


 屏風はが銀色となっているため、草の葉の緑と、花の色の白や紅が、目に鮮やかだ。

 それにしても、銀色のとは。

 それはまるで。


の風神雷神の図と対になっ……」


 あ。

 斉礼は絶句した。

 足早に、屏風に近寄る。

 表を見、裏を見る。


「まさか」


「さよう」


 斉礼のうしろから、抱一の声が響く。


「右、神の裏には、に打たるる夏草を。左、神の裏には、に吹かるる秋草を」


 描いてござると、抱一は見得を切った。

 梨園の好きな、抱一らしい洒落っ気だった。


「……面白い!」


 斉礼は快哉を叫んだ。

 抱一は、馬を走らせることが好きな斉礼のために、野の風景を描いた。

 だけでなく、その風景は、一橋家にこれまで伝えられた風神雷神図屏風、これの裏に、対になるように、描いた。

 それ屏風はまるで……斉礼のために、あつらえた屏風であるかのように。


「見事だ。見事也」


 だんだんと、斉礼にも抱一の趣向が判って来た。

 抱一は抱一で、敬愛する先達の絵師・尾形光琳と対になるべく、その風神と雷神による、自然の光景の変化を描いた。

 否。


「そうか……返歌、か」


「さようにございます」


 抱一は、得たりかしこしと頷いた。

 酒井抱一は――尾形光琳の描いた風神と雷神の図を模倣し、より上手に描くのではなく、敢えて夏草と秋草を描いて、光琳に対する返歌としたのだ。


「なれば、予も抱一どのに対して、いや、姫路藩に対して返歌をせねばなるまい。何が望みだ」


「それは、こちらの寸翁にお聞きください。この抱一、この画を描けたこと、それを見た斉礼さまの様子を見られたこと、それだけで褒美でござる」


「さようか」


「…………」


 斉礼は、深い感銘を受けた。

 抱一の画に。

 抱一の生き様に。

 そしてその最高潮に、自分が居たことに。

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