幸せになれない、愚かなヒト

 次の日の朝は最悪の寝覚めだった。

 頭は痛むし気分は悪いし、何より女子高生を固く抱き締めている。ゆっくりと、抱擁というよりは拘束だった腕を外すと、猫原さんはもうとっくに起きていた。


「もういいんですか?」

「何が」

「何がって、一晩中ぎゅうぎゅう抱き着いてきたくせに」

「あー……ごめん」

「私は気にしてませんけど」

「気にしてくれ」

「気にしてないですよ」


 重ねて言った。僕は重ねなかった。

 軋む身体を起こして、代わりに反省を述べた。


「昨日の僕は、だいぶ、頭がおかしかった。本当に申し訳ないと思う。君とご飯を食べたところまではまだよかった。そこからは最悪だ。言い訳になるけど……ちょっと色々、本当に昨日は疲れてたんだと思う。寝たらだいぶマシになった」

「まずもって、おばあさんのお葬式ですからね。仕方ないですよ。私が気になっていた男の子との交際を反故にしたみたいなものじゃないですか」


 天使像、というより、聖母像みたいな笑顔だった。横倒しだけど。崩壊世界の聖母像だ。悪くない。


「……そうだね。そんなことないと思ってたけど、思ったより深刻だったみたいだ。まあ、うん。考えてみたら、ハンバーグが食べたいとか言ってたし」

「ハンバーグ?」


 猫原さんが九十度回転して仰向けになって、大きく伸びをする。


「そう。おばあちゃんのハンバーグ。まだおばあちゃんが元気だったころは、僕が何かで落ち込んでると、作ってくれた」

「まんまじゃないですか、もう。代わりになりました?」

「本当に美味しかったけどね。おばあちゃんには負けるかな」

「でしょうね」


 そして、猫原さんも身体を起こした。はだけた襟元がセクシーで、気持ち悪かった。まだ少し嫌な気分が残っているみたいだ。

 僕は視線をつうと逸らして、その勢いのままベッドから降りた。


「ていうか、そもそも、普段通りの僕なら、君を家に連れて来たりはしなかった。適当に駄弁って、それとなくケアして、それで終わりのはずだった。なのにいまはあまつさえ同衾までしてる」

「じゃあ、最初からダメダメだったんですね」

「そうなるね」


 背中で答える。


「成沢さんって、どうしようもない人ですね」

「え、何、急に」


 つい振り返ると、猫原さんはだぼだぼの袖を顎にやって、いかにも何か考えている風だった。

 けど、たぶん何も深いことは考えていない。


「どうしようもない人っていうか、人でなしだからだね」

「でしたね。本当、最低でした」


 朗らかな声音でくすくすと笑い、猫原さんはのそのそシーツの上を這って、ベッドの端から足をぶらんと垂らす。


「……朝ごはんは、パンですか?」

「パン以外なら、しゅうまいか、肉まんか、たこ焼き」

「絶対に朝食ではないですよ、それ」


 欠伸をしながら猫原さんが腰を上げて、ずり落ちかけたズボンを細い指が掴み上げる。


「あとは、賞味期限切れの卵と、賞味期限切れじゃない卵」

「成沢さんが食べるなら両方焼いてあげますけど」

「それは名案だね」


 実際、捨てるのでなければいつか加熱して食べるしかないわけで、どちらにせよ早いほうがいい。


「ところで、私は制服着てもいいんですか?」


 部屋を出ていく猫原さんは、扉の前で振り返って、よくわからないことを呟いた。僕がいまいち反応を返せないでいると、補足が飛んでくる。


「だって、トラウマを刺激するみたいじゃないですか」

「……いや、別に、全然。そんなことないけど」

「嘘が下手くそになってますけど」

「君が見抜くのだけは上手いだけ」


 言いはしたけれど、確かに、理想の僕なら、三点リーダーが必要そうな反応はしなかったはずだ。


「じゃあ、そうですね。とりあえずお友だちになってくれませんか? スマホ持ってきます」

「ああ、SEINのね」


 何で急にとは思ったけれど、考えてみたら別に急でもなかった。また会うかもしれないから、そして、もう別れるからだ。そして彼女は制服を着てこの雨の降る地獄を脱し、日曜日の朝を太陽が昇るようにして、天上の住処に帰るのだ。


「お待たせしました」

「全然。僕もいま来たところ」

「何回やる気ですかそれ」


 猫原さんが差し出したスマホの画面に表示されている二次元コードを、僕のほうのカメラで読み取る。

 何の捻りもない猫原優月さんが友だちリストに追加された。アカウント画像は三日月のイメージだった。月のほうなんだ。


「猫じゃないんだね」

「猫ほど愛らしくないので」


 言いながら猫原さんは手元で操作をして、おそらく僕を友だちに追加する。


「それじゃ、着替えてくるので。制服に」


 わざとらしく付け足して部屋を出て行く。

 覗いてやろうかなと思った。嘘だけど。

 僕にも自分の着替えという用事がある。パジャマを脱ぎながら、さっきSEINを開いたときにちらっと見えていたメッセージに返信をした。


『ゆうべはおたのしみでしたね』

『君も来れば良かったのに』


 送信してから、さすがにこれはないなと思って送信取消をしようとすると、既読がついてしまった。


『誘ってくれなかったし』


 なんだか馬鹿らしくなって、そこでSEINを閉じた。そもそも下ネタばっかり振ってこないでほしい。どれだけ返しづらいのか、あいつはわかってない。

 黒シャツとパンツとジーンズを着て、普段の僕の出来上がり。猫原さんの制服みたいなものだ。きっと。

 半ば義務的にゲームアプリのログインボーナスを回収しつつデイリーミッションをこなしていると、そのうちドアがノックされた。スマホをスリープ状態で机の上に、代わりに財布からカードキーを手に持った。


「目玉焼き作っておいたんで、どうぞ」

「どうも。手際がいいね」

「朝ですからね」


 ドアを開くと、女子高生がいた。

 ごくごくフツーで、でもちょっと可愛いめな、焦茶色の髪の制服少女。


「それじゃ、私はこれで。お世話になりました」

「うん。こちらこそ」


 ていうか、お世話されてたの本当に僕なんだけど。ご飯作ってもらってバブみを刺激されて。おかしいな。


「下まで送るよ」

「そうですか。なら、挨拶はちょっと早かったですね。目玉焼き食べ終わるまで待ってます」


 僕はちょっと悩んでから口を開いた。


「いや。君の朝食が遅れてもいけないし。逆に僕は三階降りて昇るだけだ」

「そうですか? じゃあ、お願いします」

「マスクはいる?」

「お言葉に甘えて」


 マスクをひとつ引き抜いて、女子高生に渡した。

 僕のぶんはいらないだろう。そのまま部屋を出る。

 エレベーターホールは無視して、その傍らにある階段を降りていく。

 とんかんとんかん、二人分の靴音が響いている。


「そういえば」


 二階の表示を流し目に見たあたりで、猫原さんが口を開いた。


「世界は嘘で、人類は愚か、でしたっけ? 成沢さんの、哲学」

「そう。僕の哲学」

「どういう意味か聞いてもいいですか?」

「……言葉通りの意味だよ。世界は嘘で出来ていて、人間は本質的に愚かな存在だ。それを卑下せずに、ただ納得して、愚かな世界を、嘘を重ねて生きて行こう。立派になんてならなくていい。そういう意味」

「なるほど。成沢さんらしい哲学ですね」

「僕も気に入ってる。頑張らなくていいあたりがいいよね」


 それだとなんか違う気がしますけど、と嘆息された。


「そういう君には、何かある?」

「さあ、なんとも。ただ、身内に不幸があったときには早めに寝よう、寝かせよう、と思いました」

「それは、哲学じゃなくて、教訓だね」

「ですね」


 くすくす葉が鳴くような小さな笑いが、エントランスホールに拡散していく。

 玄関の鍵を開けた。外にはぱらぱらと雨が降っている。

 ぺこりと一礼するのに会釈を返すと、女子高生は傘を差し、淀みない足取りで、濡れた道路を歩いていった。雨傘は淀みなく、真っすぐに進んでいって、やがて右折して見えなくなった。

 僕はひとつ溜め息を置いて部屋に戻った。

 カードキーを財布にしまって、テレビの前のテーブルに置いてあった目玉焼きにケチャップをかけて食べた。

 まだ温かかった。

 それから、デイリーミッションをあらかた終えた僕は、スマホを携えて書斎の鍵を開けた。


「……さ、仕事をしよう」


 いつも通りに。

 僕は椅子に半分腰かけて、パソコンに電源を入れた。

 歪んだ言葉が鍵盤を叩く。孤独な狼はダイヤモンドダストに涙を流し、最後の歌姫がボイジャーに乗って、二億光年離れた星のハコを沸かせた。

 Aメロは世界を描き、Bメロは心を映し、サビは大いなる理想を騙る。ピアノとギターはせめぎあって、大人しかったベースが突然和睦を台無しにする。ヴァイオリンが狂気を掻き立て、荒れ果てたヴォーカルを前に、ドラムスは悲しげにたたずむ。

 世界は嘘で、人類は愚かだ。

 それこそが、蓋を開けた人類に残された、最後の希望だ。

 そう。これは。

 幸せになれない、愚かな僕らに、届ける歌。

 その、たったひとつの祈りを込めて。

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