幸せになれ、愚かな人類
郡冷蔵
第一話 君は幽かに明日を祈る
暮れなずむ雨の町
今年の梅雨はいつにもまして早く興り、平家物語の余韻みたいな北九州の街をさめざめと泣かせている。
少子高齢化という緩やかな死毒に侵された町並みは、若者を引き留めようと必死に輝いているけれど、作り物めいたその光は、いまいち愚か者たちには好かれていない。この街で本当に輝いている、古き良きものは、ただ忘れ去られていく。
なんだかんだ人口九十万人で、寂れた街だ、というのには語弊があるけれど。
ここはきっと、寂れた街よりも寂しい街だ。
駅から離れていくほど人通りはどんどん少なくなって、もう少し、あと一歩だけ人気がなくなれば裏世界に行けそうになったとき、僕の足音は目的地にたどり着いた。
黒い服に身を包んだ両親の傍らで、祖父が軽く手を上げる。その虚実はともかく、祖父はわりに元気そうに見えた。
「おう。元気しとったか」
「まあ、それなりに」
「おう。……さ、行くか。はよう終わらせちゃろう」
喪章をかけられた黒い額に収まっている祖母の笑顔は、昔日の記憶そのままだった。
それから。
それから、何をしたんだっけ?
ふと気がついたときには、僕は家から徒歩五分の駅のホームに降り立ったところだった。一分前の自分を思い出そうとしても、記憶はマシュマロのようにあいまいだ。ただ袖口から香る煙だけが正確だった。
思ったよりもこたえているのだろうか。
わからない。白濁する煙だけが明確で、清浄な空気は澄み過ぎているがゆえに情報量に欠けている。
わかるものか。
世界は嘘で、人類は愚かだ。
僕は決まりきった外付けのポリシーを整備して、ホームの階段をかつかつ昇った。
「……ああ。傘忘れた」
で、外に出ようとしたところでそれに気づいた。ぼけっとしているうちに、電車の中に置き忘れてきたのだろう。あるいはもっと前かもしれないが、どうあれ、いま僕の手元に傘がない事実は変わらない。
コンビニで透明なビニル傘を買う、というありきたりな結論に至るのが無性に気怠くて、けれど代案も浮かばず、僕はただ立ち尽くす。
ざあざあ割るような雨は、生物のように蠢いている。
「良ければお送りしましょうか」
そこに、見知らぬ女──というよりは、少女の声がする。僕の世界に生まれる言葉は、年齢が低ければ低いほど幻想だ。
それがきっと僕とは違う世界の住人か、あるいは白昼夢の続きであろうと思いつつ、霧なずむ世界を憂い続ける。
「良ければ、お送りしましょうか」
次いで肩を叩かれた。
ここまでされれば、陰気な青年でも振り返る。
というよりは陰気な青年だから振り返るのかもしれない。とにかく僕の視界は、雨霧からすぐ隣に移り変わった。
そこには女子高生がいた。
なぜ女子高生と分かったのかといえば、それは彼女の身体を包むものが、僕が五年ばかり前に卒業した母校の制服だったからだ。
普通にかわいい女の子だ。
モデルやらアイドルやらには届かないだろうけど、普通に彼氏を作って、普通にセックスをして、普通に若きを楽しんで、やがて普通に家庭を築けるくらいの。
ある意味で言えば、手の届く場所に咲いている綺麗な花みたいな。
ちょっと茶髪気味の、女の子だった。
とはいえだ。普通の女子高生は、冴えない青年に話しかけたりはしない。
というわけで、これはやはり僕の狂った頭が見せる夢か、でなければ僕並みに頭の中身がおかしい女子高生が登場してきたということになるだろう。
どちらにせよ遠慮する理由がなかった。
なので、遠慮せずに言った。
「えっと、妖怪か何か?」
「妖怪って」
僕はひとつ咳払いをして、頭の中に偉大な怪談家を思い描く。
「これはね、僕の友達から聞いた話なんです。その友達はある雨の日、こう、ざあざあとね、目の前に線が降っているみたいな、そりゃもうひどい雨の日ですよ。それなのに、彼はついうっかり、傘を電車に置き忘れてきちゃったんです。それで、ああどうしたものかなあ、と降り注ぐ雨粒の群れを眺めているとね、不意にとんと肩を叩かれる。振り向くと、まだ高校生くらいだろう女の子が、濡れた髪で顔を隠した、真っ白な肌をした女の子がさ、声をかけてきます。良ければ、お送りしましょうか……。ほら、やっぱり怪談の興りだろ」
「途中でちょっと誇張入りませんでしたか? 私、髪めっちゃ乾いてますけど」
「そこはほら、怪談だからね」
「なるほど」
誇張のない事実は、ただの事実だ。
歪んで汚れたレンズで世界を覗かなければ、お話は生まれない。
そういう意味では、まるで賞味期限切れのボーイミーツガールみたいな雰囲気を醸し出す僕たちは、同じ方向に歪んでいる。かもしれない。
「それで、どうします?」
女子高生は傘の持ち手を弄ぶようにして、傘を持つ右手と左手を入れ替えた。右肩から左肩のぶんだけ傘が僕に近づいて、先のほうからわずかに水滴が滴り、僕の革靴の隣に落ちる。
「どうとは?」
杖を突くように尋ねた。
「だから、送りましょうか。私って、一本の傘と奉仕の心を持ってるんです」
真っすぐな視線だった。瞳孔も呼吸もいたって平静。こんなにクサい台詞を吐いておいて、冗談の色のひとつも浮かべていない。
真っ黒な瞳だ。
いや、厳密に色を語るなら、焦茶色だけど。
彼女は何も見ていない。だからそう、真っ暗だ。
その目を見て、なんとなく、彼女が分かった。
さて、どうしよう。
ちょっと迷ってから、僕は嘘をついた。世界は嘘だ。事実が幻想になるように、虚構が現実をつくるのだ。
「自分で奉仕の心って言っちゃったら、嘘っぽくない?」
「まあ、嘘ですからね」
悪びれもせずに言う。
嘘でも真実でもどうでもいいのだろう。
気持ちはわかる。嘘だけど。
「ああ、分かった。あれだろう、美人局」
「つつもたせ」
「そう、美人局」
「びじんきょくじゃないですよ、みたいな漢字問題でしかお目にかかる機会のない。正直意味が通じるかもだいぶ怪しいという、あの美人局ですか」
わりとノリは良かった。少し楽しくなってくる。
「その美人局だね。いざ僕が送られてみると、無理やり連行されたというていで、怖い彼氏と一緒に僕を訴えるんだよ。恐ろしい」
「経験あるんですか?」
「ないけど。僕の友達の六乗は経験したって聞くよ」
「はあ、そうですか」
「友達の友達の、って六回繰り返すと──」
「そこは通じましたけど」
「あ、そう」
世界中の誰にでもたどり着ける。らしい。
背広で肩をすくめると少しは格好がつく。けれど、初期値が相当に格好悪いのでどうしようもなかった。
まるで僕のほうが読めない人みたいになってしまったので、話にちゃんと筋を入れることにする。
「しかし、妖怪でも美人局でもないとなると、第三の選択肢は、援交狙いのビッ……おませな女の子になるんだけど」
「その三つの中だったらビッチが一番予想なんじゃないですかね」
せっかく濁したのに。
「それで、結局君はおませな女の子で合ってるの?」
「まあ、半分くらいは?」
「半分違ったらだいぶ違うと思うけど。正解は?」
「もう全部がどうでもよくなった女の子、です。いまなら何でもできますよ。全能感溢れますね。これが社会のくびきから解放されるということなのかと」
まあ、そんなところだろう。そこに痛ましさとか憐れみだとかを覚えてあげられるのが健常な反応なのだろうけれど、あいにく僕は健常には程遠い人間だった。
ただ納得か、あるいは納得に似た諦めがあるだけだ。
個人の哲学にぽっと出の僕が何を言ったところで、変わるものなんてあるわけない。人間は愚かだ。
僕は適当に頷いた。
「無敵だね」
「さて、私の本性も暴かれたところで、当初の質問に立ち返りましょう」
傘の先がその名の通りにかつんと石畳を叩いた。
「そうだね。じゃあ、せっかくだからお願いしようかな」
「得体のしれない少女の言葉をずいぶん信用するんですね」
「美人局かもしれない?」
「かもしれない」
「まあ、うん。散々駄弁ってみたけどさ。結局のところ僕も全知全能の新人類なんだよ。すごいだろう?」
失うことなんて、怖くない。
だって、失うものがないから。
あらゆる全てを否定して、僕たちは僕たちの世界で、唯一無二の神になる。最強無敵の机上論。
「無敵ですね」
「最高だね。ところで、君の素性を暴き切っても構わないかな。ちなみに僕は、成沢裕也っていうんだけど」
「なんかイケメンっぽい名前ですね、別にイケメンじゃないのに」
「まあね。そういう君は?」
「猫原優月です、よろしくどうぞ」
猫。猫は……好きでも嫌いでもない。普通だ。
普通が一番困る。何のネタにもならないから。
仕方がないので『むかし同じ苗字の人間に会ったことあるよ』といういかにもどうでもいい話と天秤にかけた結果、僕は心にもないことを言うことにした。
「いや、本当に、美少女みたいな名前だね、名誉美少女なのに」
「いまあなたの被傘下面積が二割減になったことを痛嘆するといいですよ」
「なんてことだ。大変じゃないか」
「どうも。……ああ、意外と楽しいですね、こんな馬鹿みたいな話をするのも。無敵も悪くはありません」
「そうだね。そうかもしれない」
空を見上げる。都合よく雨は降りやまない。
涙を止める術を知らずに、ただただ泣きじゃくっている。
「世界は嘘で、人類は愚かだから」
「どういう意味ですか?」
「僕の哲学だよ。世界の根源討論バトルで、火と、数と、四大元素と、あと何だっけ? 忘れたけど。とにかく僕がそこにいたら、嘘を推す。ただそれだけの話」
「異端認定受けるんじゃないですかね、それ。キリスト教的世界観だと」
ばっと傘が羽を広げて、頭上に昇る。
「そうかもね」
僕は四割くらい空いている隙間に肩を入れて、傘の持ち手を受け取った。一瞬触れ合った指先は、まるで天使像みたいにつるりとしていた。
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