たっぷりと、余裕をもって

 帰りにコンビニで猫原さんの下着とコスメセットなるものを買って帰った。僕は外で買い物袋を手にぼうっと待っていただけなので詳細は知らないが、とりあえず、それらには千円で少しのお釣りがくるらしかった。

 マスクを捨てて、手を洗ってうがいをすると、猫原さんは早速台所に立っていた。


「何か手伝おうか?」

「いえ、特にないです」

「あ、そう」


 ジャガイモを洗ったり、肉とパン粉と卵と牛乳の混合体をぐちょぐちょ混ぜたりする女子高生を見ていてもよかったけれど、どうせ追い出されそうなので、大人しくリビングに引っ込んだ。

 そのうち、ごうごう換気扇の回る音と、しゅんしゅん湯が沸き立つ音と、じゅうぱちと油が弾ける音と、それから窓に振りつく雨のしとしとという音が、奇妙な音楽を奏で始める。何のとりとめもない生活音。ショパンがいたら何か曲ができそうだけど、残念ながら僕はショパンではないので、曲にしてみようとは思わなかった。

 ただソファーに深く身体を沈みこませて、ぼうっとSEINのトーク画面を眺めている。

 という具合に実況をしてみると、暇人はいかにも暇そうな反応を返してくれた。


『やたら私的できもい』


 詩的の誤字なのか、そのままそんなの知らねーよという意味でいいのか。

 測りかねて、結局スルーした。


『そっちはもうご飯食べた?』

『食べた』

『何食べた?』

『名前忘れた。サプリ』


 それはもう食べたという領域の話ではない。


『女の子お手製のハンバーグと天秤にかけたら、第三宇宙速度で飛び上がりそうな感じだね』

『うるせーよ。引きこもりなめんなよ。料理に使える材料なんてポテチぐらいしかねー』

『ポテチ?』

『知らない? 現代料理はハンバーグにポテチを入れるらしい』

『歯茎に刺さりそう』

『今度作ってやろうか? 女の子お手製、ポテチ&サプリ入りハンバーグ』

『女の子?』

『ぶっ殺すぞ』


 大胆な殺害予告を受けたところで、我が家の生活交響楽団に変化があったので、スマホを消灯して軽く伸びをする。


「お待たせしました」

「ううん、僕もいま来たとこ」

「わけわかんないんですけど」


 苦笑いされた。

 ハンバーグとジャガイモとブロッコリーがお行儀よく並んだ白いお皿が二つ、それぞれ箸置きの奥に置かれる。


「お茶飲む?」

「あ、お願いします」


 僕がお茶をコップに淹れて、猫原さんがご飯をお茶碗によそって、席に着く。そういえばお茶碗にお茶を汲む機会はほとんどないな、なんて、名前だけが残ったお茶碗という概念の空しさに涙を流す。流してないけど。


「なんていうか」

「はい」

「普通に嬉しいね」


 ここに来て言語化が下手くそだった。

 そもそも僕、なんでハンバーグが食べたいなんて言っちゃったんだろう。本当に生姜焼きよりマシだったのか? 違う気がしてきた。


「それはどうも。でも、食べてから言ってくださいよ」

「確かに。じゃあ、いただきます」

「いただきます」


 ハンバーグを箸で切り分けると、中から溢れてきた肉汁がソースの上を滑っていく。ゆっくりと箸を口に運んで、久しぶりに、ちゃんと味わいながらの咀嚼をした。


「美味しい」

「それならよかったです」


 猫原さんも自分のハンバーグを口にして、うん、と小さく頷いてから、ブロッコリーに箸の先を向ける。

 僕は二口目もハンバーグをいただいた。

 ハンバーグはやっぱりとても美味しかった。これまで食べたハンバーグの中で、二番目に美味しかった。

 ただ、一番美味しかったハンバーグはもう口にする機会がないだろうから、実質的には、この世で一番のハンバーグと呼んでもいいのかもしれなかった。


「ごちそうさまでした」

「おそまつさまです」

「手伝おうか。片付け」

「いえ、大丈夫ですよ。それよりも、あと何時間か話せるネタか、それに準ずる何かを考えておいてください」


 スマホで時計を確認すると七時十二分だった。


「確かに、一日を終えるには、まだ早過ぎる時間だ」


 さて、どうしたものか。

 ソファーに満腹感を横たえて考えてみる。

 本来時間を無為に使い潰すことといえば僕の最も得意とすることのひとつだが、それは独りでの過ごしかたに限られていた。誰かと同じ時間を長く共有することなんてなかったし、したくもなかった。考えてこなかったことはわからない。

 僕の手の小指側の筋肉が発達していて、足が棒のように退化しているみたいに。

 瞼を閉じると、頭の中で汚い言葉が鍵盤を叩いた。

 余命宣告を受けた詩人が干からびたカエルを貯水槽に投げて、北極のペンギンの大統領選挙は二十三度右翼に傾いている。

 温かかった日々は死んでゆっくりと灰になって、ハンバーグの味は覚えているのに思い出せない。

 女子高生の制服は血と汗と愛に濡れて泣いていて、僕の世界はいちばんはじめの嘘をついた。


『それで、お前はどうしたいわけ?』


 疑問はぐるぐる矢印を垂直に射出して、俺もあいつもそれに応えられなくて、ただ雨の音がお互いの間に響いている。愚かな俺たちは嘘の世界でしか生きられない。


「ねえ。起きてくださいってば」


 目を開けると、肌色の腕から、猫原さんが生えていた。いや、猫原さんに揺すられている。


「ん、ああ……寝てたのか、俺」

「おれ?」

「何でもない」


 頭の中に残っていた眠気を欠伸で追い出して、身体を起こす。ほとんど習慣でスマホの電源ボタンを押下すると、ちょうど七時半だった。思ったほど時間は経っていない。


「お疲れなんですかね」

「そりゃあね。一日に二回も外出したのは久しぶりだから」


 もう一度欠伸をした。


「そういえば、スーツでどこ行ってたんですか? 打ち合わせとか?」

「いや、葬式。おばあちゃんが亡くなってね」

「……そうですか」

「いや、そんなシリアスにならなくていいけど。君こそ、なんで制服だったの? 土曜授業とか?」


 それにしては荷物が傘だけしかなかった。


「女子高生とわかったほうが拾われやすいかと思って」

「まあ、確かにね」


 大きく背を伸ばして、それから改めて男服を着た女子高生を見た。個人的には、制服よりもいまの格好のほうが好きだった。どっちもどっちだけど。


「それで、あー、何時間か話せるネタのことだけど、いくつか考えてみた」

「どんなのですか?」

「まず、地球誕生にまつわる幾重もの奇跡」

「教養番組で年に何回かやってるネタですね」


 ちなみに、これは本当に何時間も話せる。そもそもの元ネタが膨大すぎるので、当然といえば当然だ。


「それから、現役女子高生に聞く甘酸っぱい恋のおはなし」

「お泊り会の定番といえばそうですけども」

「あとは、お風呂にするのかシャワーにするのか、お風呂にするとしたらどっちが先に入るのが希望なのか、あるいは僕だけシャワーにしようかだとか、

。来客用の布団なんてないんだけど、君は男性宅のベッドで寝るのか、はたまた若干寝苦しいかもだけどソファに寝るのかだとか。そういう、僕らに差し迫った現実の話」

「ソファも男性が寝てたみたいですけど?」

「そうじゃん。どうする?」


 おそらく帰って自分のベッドで寝るのが模範解答だけど、というのは、もういちいち口に出さなかった。

 個人の哲学は個人のものだ。剛田少年でもそれにだけは手を出せないし、出さないのだ。


「私が決めるんですか? ホストが決めてくださいよ」

「君の貞操の問題だから、僕には判断しかねる」

「私、最初全部台無しにする気だったからこそ、ここまでみすみす連れてこられたわけなんですけど」

「それじゃあ全部おじさんと一緒で、ぐふふ」

「いいですよ」

「よかねーよ。……はぁ。じゃあ、僕シャワーとソファーにするから、あとは好きにやって」

「家主をソファーに追いやるのは気が引けますね」

「じゃあ僕がベッドね、オーライ。話題がひとつ片付いたけど、次はどうしよう。やっぱり恋バナでもする?」

「それはパジャマでやるものでしょう。地球の誕生秘話以外にはもう何もないんですか?」

「うーん」

「ミュージシャンなんですから、音楽の話題のひとつやふたつあるんじゃないんですか」

「人に音楽のこと話すの、あんまり好きじゃないんだよね。なんか気持ち悪いし、作るほうは独学だから信ぴょう性に欠けるし。それか、学術的歴史的な話ならできるけど、興味ある?」

「地球誕生くらいどうでもよくなってきましたね」

「だろうね。……じゃあ、映画でも見る?」

「何があるんですか?」

「テレビの下の棚に色々」


 猫原さんが本当に猫みたいに四つん這いになって棚を開けるのは、ちょっと面白かった。


「知らないのばっかりです。おすすめは?」

「えーと、さあ? ちゃんと観たことないから。中古屋のワゴンセールでがさっと買って、そこで満足しちゃったんだよね」


 ひとつを抜き取ってくるっとパッケージを裏返す。


「あ、本当だ。百円。……内容大丈夫なんですか?」

「保証はしない」


 はぁ、とため息をついて、猫原さんは手に持ったままのパッケージを割り開き、ディスクをプレイヤーに装填した。

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