歩くような速さで

 玄関の靴箱の上にドラッグストアで適当に買ったマスクが置いてある。習慣と同じように、なんとなく定位置になったまま、外すことができていない。


「いる?」

「どうも」


 猫原さんは何の飾り気もない白の大人用不織布マスクを受け取って耳にかけた。やや小顔の女子高生には大きかったらしく、少しだけ端が浮いていた。

 外に出ると、若干和らいだとはいえ、空は変わらず雨模様だった。ただ、傘には予備があったので、相合傘をする必要はもうない。そしてふたつの傘は並んで歩くのには不便なので、自然と縦に並んで歩くことになる。

 僕の世界はいつもの風景と同じになった。彼女がどうかは知らないけれど。


「そういえば、気になってたんだけど」


 返事がなかったりしないかな、と思いながら訊いた。


「なんですか?」

「君は料理が趣味なの?」

「……微妙ですね。趣味というほど楽しんでいるわけではないですけど。どちらかといったら、特技ですかね。や、言うほど特別な技でもないですけど」

「じゃあ、ご両親がお忙しいのかな。いつも君が作ってるってことは」

「母は三年前、交通事故で逝きました。そこが一番の理由ですね」

「なるほどね」


 後ろめたくなってあげるのが筋だけど、僕は単に納得しただけだった。


「父は……まあ、忙しいと言えるんですかね。言語学者なんですけど、本当にイメージ通りの学者肌というか、研究一辺倒の人間ですよ。今日帰ってくるのかこないのかも判然としないし、数日家を空けていたと思ったら、カンボジアから連絡が来たこともあります。そういえば俺はしばらく家に帰らないって、もう既に四日いないんですけど、みたいな」


 今度こそ僕は「奇遇だね」と言いかけたが、ぎりぎりで踏みとどまった。言ったところで続く話ではないのだし。だから、そう。

 話を続ける。


「でも、毎日作ってあげてるんだ?」

「まあ、消費されてなかったなら、朝ごはんなりお弁当なりに回せばいいだけですからね。お刺身とかは出せませんけど」

「今日、お刺身にする?」

「いえ、別に好きじゃないんで」

「あ、そう」


 別に僕も好きじゃないので、刺身用コーナーは見なくてもよさそうだった。魚で唐揚げとかするなら別だけど、油の処理が面倒なので家ではやりたくない。というか、僕が自炊しない理由の大半はそれだった。めんどくさいよね、片付け。

 猫原さんに言ったらまた呆れられそうなので、心の中で呟いた。


「何か好きなものとか、食べたいものとかありますか?」

「んー。男の子が彼女に作ってもらいたい食べ物といえば、首位は肉じゃがだよね。次点はカレーとかシチューとかになるのかな」


 勝手な想像だけど、たぶんそのはずだ。


「イメージは分かりますけど、こうして聞いてみると見事に煮込み料理ばかりですね。あれですかね? 愛情がこもってると錯覚するんですかね」

「あたたかいから?」

「あたたかいから」

「それもあるだろうけど、ほら、煮込んでる間はわりといちゃいちゃできるでしょ。そこだよ、多分ね」


 勝手な想像だけど、以下略だ。料理を手早く終わらせていちゃいちゃするのと、料理をしているというステータスのついた彼女といちゃいちゃするのでは、たぶん少しだけニュアンスが違う。


「成沢さんとしてはどうなんですか?」

「僕は、火を扱ってるときはふざけないほうがいいと思う」

「いやそうじゃなくて」

「そうだなあ。ハンバーグとか?」

「ああ、いいですね。定番で」


 確かに、これも定番か。生姜焼きと言わなかっただけマシだろうと自分を慰める。

 クリームパスタとでもいえばよかったのか?

 よくわからない。よくわかっていない。


「まあ、最終的にはシェフの判断にお任せするよ。おまかせコースで」

「玉ねぎが一個二百円とかじゃなければ、ハンバーグにしますよ」

「二百円くらい出すよ」

「じゃあ二万円にします」

「無政府状態だね。それは確かにハンバーグ作ってる場合じゃない」


 そんな馬鹿なことを言っていたらスーパーに着いた。

 僕のマンションから一番近いスーパーで、外出の際にはこの前を通ることも少なくないけれど、中に入ったことは一度もなかった。おかげでうっかりカゴの積まれているのを見落として、肩をすくめる羽目になった。


「持つよ。そのうちスマホより重くなる」

「殊勝な心掛けですね」


 猫原さんからカゴを受け取って、ついでに傘も受け取った。

 この、傘にビニル袋をかけるやつを発明した人は賢いよな、と思いつつ、猫原さんの横について歩いた。

 入ってすぐのところに野菜が置いてあるのは、だいたいどこのスーパーも同じだ。

 少し理由を考えてみたが、あまりこれというものは思いつかなかった。スーパーのレイアウトには、その道の鉄人がどうたら、というニュースがおぼろげに記憶に残っているくらいしか知識がなかった。


「野菜って」

「なんか」


 出先が被って、お互いに躊躇。その時点で僕はもう野菜が世界のどこに鎮座していようがどうでもよくなっていたので、話を譲る。


「なんか。私の行くところより全体的に高いですね」

「そうなの?」


 七十四円の玉ねぎを受け取りつつ応じる。


「六十六円だった気がします、おととい」

「八円じゃん」


 僕が言うと、


「八円です」


 とため息をつかれた。

 そんなこんなで、続けてじゃがいもとブロッコリーをカゴに入れた。


「付け合わせって、人参もあるんじゃない?」

「食べたければ買いますけど」

「乗り気じゃないんだ」

「今年死ぬほど高いので。人参。抵抗感があります」


 死ぬほど高いらしかった。


「じゃあ、いいや。シェフのお言葉だし」

「まあ、財布は成沢さん持ちなんですけどね」

「料理する人間は君だから。ああ、これは高い人参だなあ、と思いながら、おずおず切って欲しくはないね」

「言っても、まな板の上に乗ったら全部素材ですけどね」

「料理バトル漫画みたいなセリフだね」

「読んだことないです」

「僕もない」


 それきり野菜コーナーを素通りして、少し身体が冷える冷蔵区画で歩調を緩める。


「そういえば、みそってあるんですか?」


 わかめを見ながら言う。

 ハンバーグに味噌汁がつくご家庭か。

 僕の実家はオニオンスープだったな……。よくよく考えるとハンバーグにも入ってるよな、オニオン。


「ないね」

「……じゃあ、味噌汁はいいか。や、ていうか、聞いてませんでしたけど、他の調味料は?」

「塩と醤油とオリーブオイルはあるよ」

「塩と醤油とオリーブオイルしかないんですか!?」


 わりと本気のツッコミだった。


「待って、他にもあった」

「あ、ああ。そうですよね、さすがに」

「オレガノ」

「なんでそこ!? 砂糖は、せめて砂糖は!?」

「だって使わないから」


 この世の終わりみたいな顔をされた。そこまでなる?


「……まあ、まあ、砂糖は……砂糖は、ハンバーグならなくても……いいか。酒……ケチャップは?」


 缶ビールならあるよ、とボケてみようと思ったけれど、いま言ったらマジもんの冷たい目線を向けられそうなので、やめた。冷蔵棚からの冷気だけでお腹いっぱいだ。


「ない。塩と醤油とオリーブオイル以外はマジでない。オレガノもあるけど」

「オレガノはどうでもいいけど。使い切りサイズのやつ買っていいですか?」

「普通に買ってもいいよ?」

「普段使わないんじゃないですか?」

「使わないね。でも使おうとすれば使うよ。ああ、そうだな、冷凍たこ焼きを買っていこう。それで消費できる」

「たこ焼きに……ケチャップ?」

「え? いや。使うよね?」

「使う……かなぁ?」

「お好み焼きにケチャップ、ソース、マヨネーズ。かけるでしょ」

「まあ」

「ならたこ焼きにもかけるじゃん?」

「うーん……」


 わからないね、女子高生。

 猫原さんはしばらく思索に耽っていたが、ふと思い出したように顔を上げる。


「一応聞きますけど、パン粉は?」

「あると思う?」


 結局ため息をつかれた。

 小袋のパン粉を取りに粉系の島に向かって、ついでにその向かいからソースとケチャップ、その他もろもろの調味料を取った。同時に猫原さんがにんにくチューブと胡椒を持ってくる。


「なんて言うんでしたっけ、こういうの。自分の理解が通じないみたいな」

「カルチャーショック。カルチュア・ショック」

「いや、なんで言い直した」


 元の順路に戻り、猫原さんは牛豚の合挽き肉を左右に傾けてみてから、カゴに入れる。なんで傾けたのかは知らない。


「失望したかい?」

「いや、別に、もとから大して希望もなかったですけど。ただ、ちょっと疲れました」

「なんかごめん」

「いいですよ。あとは、卵ですか。牛乳は冷蔵庫のもので足ります」

「卵、なかったっけ」

「期限切れの卵は嫌です。自分で焼いて食べて死んでください」


 ひどい言われようだった。別に死にはしない。しないよね?

 とにかく四個入りの卵を確保する。


「ハンバーグとしては以上ですけど、あとたこ焼きでしたっけ?」

「うん。あとは、デザートが欲しければ、お好きにどうぞ」

「じゃあ、小豆バー」

「好きなの?」

「けっこう」


 冷凍棚でたこ焼きと、六本組の小豆バーをカゴへ。

 レジは待つほど混雑していなかったので、そのまま流れるように勘定を済ませた。ビニール袋は二円だった。猫原さんは袋に品々を詰めながら、鞄も持たずに出歩かなきゃよかったと言っていた。

 ところどころ角ばった袋を手に持ってみると、重いような軽いような、多分どちらかといえば重いような。あいまいな重さだ。


「スマホ何個分の重さだろうね」


 傘を渡して、代わりに膨らんだレジ袋を受け取りながら、何となく言ってみた。


「そもそも、スマホってひとつ何グラム換算なんですかね」

「知らない。リンゴだってわからないのに」

「ですよね」


 スーパーの出入り口には、傘のビニールを捨てるためのゴミ箱が置かれている。

 ……傘につけたビニールを外す装置も、置いておいてくれないかな?

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