第13話 猫の恩返し

 猫原さんは、昨日見たのとそっくり同じように、僕の家の台所で指揮を振るっている。じゃがいもをごろごろと四分して、にんじんを輪切りに、そして玉ねぎの皮を剥き始める。


「あの……何か?」


 僕はそれを彼女の背後に立って、ぼうっと見ていた。包丁を手に握ったまま、猫原さんがこちらを振り返る。


「別に。今日はカレーなんだ」

「シチューかもしれませんよ?」

「哲学的だよね」

「は?」


 最後に入れるルーが違うだけで、別物になる。

 猫原さんはしばらく困り顔を僕に向けてくれていたが、僕に補足を入れる気がないのがわかると、視線を正面に戻してしまった。隣のコンロの上の換気扇を回して、玉ねぎを切り始める。


「何で今日は絡んでくるんですか? 彼氏面するのも、せめて煮込み始めてからでしょ」

「いや、気になるから。あの後どうなったのか」

「あー……ですかね」

「ですでしょ」


 切り揃えた具材を鍋にざっと流し入れ、軽く炒める。油がじゃがいもの表面に絡み、うっすらと光沢の幕に巻かれていく。

 からからと、焦げ付かない程度に具材を混ぜながら、猫原さんはぼそりと呟く。


「どうなったのか……私にもよく、わかんないです。お父さんの話は……本当に、聞くに堪えませんでした。お母さんが死んだことの悲しさとか、それから私をひとりで育てていかなきゃならないことの、責任と不安とか。なんとか、かんとか」

「焚き付けておいてなんだけど、言語化できるだけすごいと思うよ」


 さすが、腐っても学者だ。視座を切り替えるのに慣れている。

 ざっと玉ねぎに火が通ったところで、猫原さんは流しの水切りかごから適当なコップを見繕って、4カップほど水道水を鍋に注いでから、ふと手を止める。


「牛乳買うの忘れました」

「そうなんだ。よかった。僕牛乳苦手だから」

「……いいけど、女の子みたいなこと言いますね」

「このご時世、男女の境なんてあやふやなものさ」


 僕の空言は猫原さんの右から左へ抜けていった。

 猫原さんはもうワンカップ水を鍋に入れ、火加減を調節してから、ひと息ついた。


「それで」

「うん」

「私は……とりあえず、ありがとうって言いました」

「この世で一番便利な言葉だものね」

「はい。でも、私、そこで言ってから気づいたんですけど。考えてみたら、お母さんが死んでから、お父さんにありがとうって言ってなかったんだな、って」


 ふつふつと鍋の底から気泡が立ち上ぼり、水面の膜を越えて換気扇に吸い込まれていく。吸い込まれていく様子は見えないけれど、吸い込まれていくことはわかる。


「それで思ったんです。私……お母さんが死んで。悲しくないふりをするために、悲しんでいるところを見せないように、お父さんを遠ざけていたのかも。お父さんが私から遠ざかる前から。でも……私も、ちゃんと。悲しかったんだ……。っ、て」


 嗚咽に少し届かない、しゃっくりのような声だった。ああ。頭が痛い。

 少女の悲哀は僕の脳にはよく刺さる。

 ぽっかり空いた穴に挿さる。

 僕は、それをひねってしまわないように、そっとその鍵を彼女の手に返してやった。

 しゅんしゅんとお湯が煮立っている。


「教訓だね。つらい時に泣かないとあとが面倒だ」

「そうですね。それで、泣き疲れてぐっすり眠れたら、それが一番いいんでしょうね」


 猫原さんは綺麗に綺麗に微笑むと、お玉を使って、水面に浮かんだ泡のようなものを取り始めた。

 なんだっけこれ。灰汁だ。

 灰汁取りとか、僕、人生で一度もやってないかも。


「こう、ざるみたいになってるお玉があるとベストなんですけど」

「ここにはないね。お察しの通り」

「今度買ってきます」


 さらりとのたまいながら、手元を細かく動かして灰汁をこそぎ取っていく。


「……。で、君。聞いた感じ、父君とは、まあ……お互いにある程度胸のつかえを取れたんじゃないの?」

「はい。たぶん。よくわかんないですけどね」


 猫原さんは灰汁をぺっと流しに捨て、軽くお玉を水で流す。あとはまた灰汁が浮いてくるのを待つ……のかな。お玉を握ったままなところを見ると。

 手が空いた猫原さんは僕と向き合う形になる。

 エプロン姿のそこそこ可愛い女の子を直視しないよう、僕はお玉の銀色の曲線を視線でなぞる。


「それは何より。僕の嘘が間違ってなくてよかった。正誤判定の機会なんてあんまりないからね、正直自信はなかったんだ」

「なのに、あんなすらすら話してたんですか?」


 呆れとも感心ともつかない風に眉を曲げる。


「嘘だもん。立て板に水だよ、嘘ばっかついてきた僕にかかればね」


 僕は本当にさらさらと、嘘をつくという嘘をついている。嘘だけど。

 さて──しかし、残念ながら、いつまでも嘘ばかりついてもいられないみたいだ。


「で、だ。君結局なんでまたここに来てるわけ? お父さんと食卓を囲みなさいよ」


 そう。僕はてっきり失敗したのかと思ってた。

 どう謝ろうか考えてたくらいだ。

 しかし、猫原さんはそんな僕の内心など知るよしもなく、簡単に答えた。


「いや、お父さん、今夜からまた出張なんで。向こうで晩餐会? あるみたいでしたし、二回晩御飯食べさせても」

「君も着いていけばよかったじゃん」


 はた、と猫原さんのまばたきが滞る。


「……思いついてませんでしたね。まあ思いついててもやってないですけど。だって、今日は成沢くんに用事があったので」

「用事?」


 ああ……この部屋に置きっぱなしの荷物を取りに来たってことか。それなら、まあ、納得というか、理解はできる。今日じゃなくても、本当に暇な日の昼間にでも来ればよかったのに、と思うけど。

 しかし、僕が脊髄トークでその辺りをうそぶく前に、猫原さんはあらかじめ行動していた。

 ばっ、と斜め三十度に頭を下げている。


「ありがとうございました。本当に、色々と」

「……メッセージでいいのに、そんなこと。大したことはしてないよ。だって、本当にしてないもんな」


 顔を上げるように促す。視線は戻ってきたが、声音は変わらないままだ。


「お礼といってはなんですけど。成沢くんには、不定期で女子高生が家に来てご飯を作ってくれるサービスを提供いたします」

「は?」


 そしてそのままあらぬ方向に未来を振りかぶった。

 いや、なんて?

 というか、なんで?


「まあ、一応、お父さんがいるときは、家で一緒に……食べられたらいいな、って思うので。ほんとに不定期だと思いますけど」

「いいって。いらないいらない。お父さん以外にも、友達とか、彼氏とか、一緒に食べるべき人間は色々いるだろ。ぽっと出の社会府適合者じゃなくてだよ」

「えー。嬉しくないんですか?」

「嬉しくないね」


 三点リーダーもつかない、完璧な嘘だ。

 しかし、何がいけなかったのか。猫原さんはにやりと笑う。夜に駆ける猫みたいに。


「成沢くんは嘘つきなんですもんね」

「……知るかよ、クソ。君、大学落ちても知らないぞ」

「そのときはそのときで。いまは、私がしたいことをしてしまわないと」

「僕、君のこと嫌いになりそう」

「そのときはそのときで」


 最悪だ。猫原さんが、ポジティブな無敵の人になってしまった。これでは本当に小倉駅を爆破しかねない。


「……。そっかぁ」


 本当に、嫌いになりそう。僕。

 そうなんです、と胸を張って笑った猫原さんは、くるりと鍋に向き直り、ちょっとその様子を眺めてから、鍋に蓋をして、その持ち手の上にお玉を寝かせた。

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