第14話 「傷口がきれいになる」

 成沢くんはうまいうまいとカレーを食べたあと、食器洗いを手伝ってくれると言い出した。それで私はいっとき流しを彼に譲ったわけだけど、ちょっと衛生面が不安になるくらい杜撰な仕事だったので、結局私がやることにした。

 成沢くんは過去イチで、たぶん今朝よりもだった、とても申し訳なさそうに私の後ろで立ち尽くしていたが、邪魔なだけなので追い払った。

 哀れ、ろくでもない男はソファーに寝転び、サメのぬいぐるみを抱き抱えながら、三流映画を見流している。

 成沢くんはそうしているほうが似合う。

 生まれもってのろくでなしだ。

 これ、女子高生とまでは言わないにしろ、家政婦くらい雇ったほうがいいと思うんだけど。これまでどうやって生きてきたんだろ?

 まあ、いいけど。

 誰かのためにやる家事は、少し楽しい。


 流しを片付けた私が、寝転んでいる成沢くんの傍に立つと、彼はのっそりと身体を起こして、肩を軽く揉みほぐす。


「今日はスカートじゃないからまだいいけど。それでも、男の枕元に立たないでよ」


 十分と少しの映画鑑賞は彼に心機一転をもたらしたようだ。心底迷惑そうにして、ため息までついている。


「気にしすぎでしょ。別に見られてどうってものでもないじゃないですか」

「そこの無敵は変わらないのかよ」


 まあ、半分冗談だけど。

 男なら黙って鼻の下伸ばしておけばいいのに。

 こういうところがお父さん臭いんだよな。

 どう考えても、近所のお兄さんから受ける注意じゃない。

 さておき。私は、成沢くんの隣に空いたスペースに、腰を下ろす。

 薄型テレビが描き出す映画は、既に佳境を迎え……いや佳境なのかこれ?

 サメとゴジラもどきがダンスバトルしてるんだけど。謎すぎ。

 あまり期待はしていないが、一応、成沢くんに訊ねてみる。


「どういう経緯でこうなったんですか?」

「さあ。見てたけど、わかんない」

「ですよね」


 これに関しては成沢くんじゃなくて映画が悪い。いや、悪いっていうのは違うけど、とにかく、最初から見たところで理解できない類いのものだろう。

 サメの尾ひれが人間の膝の動きで折れている。すごくシュールだ。

 あるいはチープだ。

 成沢くんが欠伸を噛み殺して、ついでに口を開く。


「ところで君、いちおう聞くけど、明日学校じゃないの?」

「そうですねえ。あ、漢字の小テストあるんだっけ……」


 去年までは週一だった漢字の小テストは、受験生となってからというもの、現代文の時間ごと、すなわち週三、四回に拡大している。

 面倒な。

 さらに、隔週で時間割が変わる都合、現代文がある週とない週がある月曜日は、特に面倒だ。忘れることもしばしばだが、いっそ忘れてしまったほうが楽な気もする。

 結果だけでいえば、直前にテキスト見れば、合格点は取れるし。

 しかし、思い出してしまったからには、勉強しなくてはならない。

 高校生というのも悲しい生き物だ、なんて言ったら、成沢くんは、何ぞまた皮肉めいた訓戒でも口にしてくれるのだろうか。

 ダンシングフィーバーシャークを捨て置き、ソファを離れる。

 そして私は、部屋の隅に置いてある私の荷物から、学校指定のスクールバッグ。ひいてはクリアファイルからプリントを探し当て、明日の漢字テストの詳細な範囲を確認した。


「ふむ……。あ、すみません。食卓って使ってもいいですか?」

「お好きなように。制服もそこに入ってるわけ?」

「そうですね」

「で、今日も不純な外泊と洒落こむわけだ」

「そうなりますね」

「なるなよ、普通に。はぁ。僕、シャワー浴びてくる。今日はよく働いたから、早く休もうかな」


 ため息を残して成沢くんが立ち上がり、ふと、何に思い至ったのか、苦々しい笑みを浮かべて肩をすくめる。自分の中で完結しないでほしい。他ならぬ貴方の言葉だ。

 まあ。

 他人じゃん、と返されたらそこまでなので、私も私を完結させておく。

 簡潔にね。


「消していいよね?」

「はい。勉強するので」


 映画をぶつんと切り、洗面台の戸を横にスライドする成沢くんを適当に見送って、私はダイニングテーブルの上に筆箱を置き、ノートを広げた。

 ところで、筆箱の中に筆は入っていないし、箱でもない。

 正しくはシャープペンポーチだろうか。なんてしっくりこない。

 シャープペンの頭をカチカチやってペン先を整える。

 そして、スマホのドキュメントから、クラスのとある男子が作成したデジタル漢字テキストを呼び出した。

 聞こえは立派だが、漢字テキスト計四百ページ弱を手作業で一ページごと写真に撮っていったという、手法のアナログさとか著作権とか、色々とアレな品だった。

 ただ、便利は便利なので、ありがたく使わせてもらっている。


「えーと、二百八十八ページからか……」


 そこで、ふと。

 テーブルの上に、成沢くんのスマホが置きっぱなしにされていることに気がついた。

 すごく、デジャヴ。

 成沢くん、ろくでなしにしても、こういう方面ではあんまり抜けてなさそうなのに。自分の部屋の中だから油断してるのかな。

 だとしたら押し掛けている私が悪いので、ちょっと申し訳ない。

 ……あ、傘も持ってなかったっけ。

 案外本当にポンコツなのか?


 とにかく。せめて昨日と同じ轍は踏むまいと、私は成沢くんのスマホを裏返しにして、万一にもメッセージやら何やらを目にしてしまわないようにした。

 漢字をノートに十回ずつ書き取りながら、ふと思う。

 そういえば、結局、あのメッセージの送り主って、誰なんだろう。誰というか……どういう関係?

 真性引きこもり少女二十三歳とか何とか、言ってたけど。

 正直なところ、成沢くんって、同じマンションだからだの、同じ引きこもりだからだの、そんな理由で友達を作れそうな人には思えない。相手が女性ならなおさらだ。

 うーん。気にはなるけど、聞いてみるほどじゃないなあ。喉に小骨が引っ掛かっているというのは、たぶんこういうことを言うんだろう。

 あ。

 気が散っていたせいか、茫漠の「茫」が途中から「氵芒」になっていた。こう見ると、茫漠って、異母兄弟みたいな熟語だ。

 どうでもいい気づきを得たところで、にわかに洗面台のほうで物音が聞こえてくる。


 早いのか遅いのか。たぶん普通だろう。成人男性がシャワーにかける時間の普通なんて知らないけど。

 いや、女子高生の普通すら知らないか。

 スマホをたぷたぷやって同年代諸氏がシャワーにかける時間を調べてみると、だいたい十分から十五分らしいと出た。まあそんなものか。感想は特にない。

 漢字用ノートはそのままに席を立ち、荷物からパジャマ一式を用意する。シンプルな半袖シャツとショーパンだ。サテン生地のさらりとした着心地が気に入っている。


 少しすると洗面台の扉はガラガラと音を立てて開き、着古した感じの黒シャツとチェック柄の半ズボンを履いた成沢くんが中から出てきた。普通にダサい。


「僕はもう歯磨いたから。ラッキースケベは気にしなくていいよ」

「お気遣いどうも」


 適当に返してから、ふと思い至る。

 やっぱ昨日見えてたか?

 まあ、だから何ということもない。

 私は最強。何度でも何度でも言うわ。


「あ、それと、昨日君が使った歯ブラシ、もう捨てちゃってたんだ。持ってる? 持ってないなら左の小さい引き出しに入ってる」

「……ありがとうございます」


 相変わらず、こういうとこだけしっかりし過ぎてる。

 ほんのわずかに胸の奥に点っていた粗熱が急速に消えていくのを感じる。

 何だかなあ。


 成沢くんと入れ替わりに洗面台に入って、後ろ手に扉を閉める。からから、とキャスターが鳴き、扉が枠に跳ね返って少し開いた感触がした。

 扉表面の凹凸をちょんとつついて扉を閉め直し、上から服を脱いでいく。

 三面鏡に映った斜め四十五度の裸婦像は、なんだか昨日見たときよりも肌艶がよくなった気がする。

 いや、そうでもないような。

 どうでもいいような。


 脱いだ服を適当に畳んで、洗面台の引き出しの上に空いていたスペースにまとめてから、浴室に足を踏み入れる。足元は少し濡れていて、ほんのり湯気とシトラスの香りが残っている。

 シャワーのハンドルをひねるとすぐに熱い湯が出てきて肌を打つ。

 あたたかい雨の音に心を預け、しばし瞑目。

 手探りでお湯を止めて、まつ毛の先の雫のぶん少しだけ重い目蓋を開く。

 頭上から膝までを映す大きな鏡の中、柔らかに上家した肌には、傷ひとつありはしない。その中には、私の中には、いったいどんなものが詰まっているのか。

 もしかするとそれは、他人の腹の内よりも読みがたいものなのかも。

 なんてね。

 鏡の中の自分がふっと笑む。

 私はシャンプーをワンプッシュ手のひらの上に取り出して、しっかりと泡立ててから、毛先から根元に向かうように髪をほぐしていった。

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幸せになれ、愚かな人類 郡冷蔵 @icestick

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