ゆがんだことば
部屋の中身は、仕事用のものを詰め込んである書斎を除けば、ここに入居したその日から、ほとんどいじっていない。せいぜいゲーム機と音響機器を入れたくらいだ。とはいえ、これは僕が怠慢なのではなくて、なまじ元の出来が良いものだから、下手に触っても悪化するだけだと思われたためだ。
そういうわけで、僕らしさだとかは欠片もない、モダンでシックな色を抑えた内装になっている。シックの意味もよくわからないのに。
「座ってもいいですか?」
「お好きにどうぞ。それじゃあ、僕はペットボトルのお茶を淹れてこよう。そういう話だったからね」
彼女が座るソファーも僕が開く冷蔵庫も選んでいない。そこにあったものだ。そういう意味では、もしかしたら本質的な部分では、意外と僕らしいのかもしれなかった。
「粗茶ですが」とコップを差し出すと、「二リットル百八十円ですしね」と、何のためらいもなく受け取って、普通に飲んだ。さすが無敵だ。
僕もひとくちだけお茶を口に含んでから寝室に引っ込む。僕だって無敵だ。
いやはや何に対抗しているんだか。
スーツとネクタイをクローゼットに吊るし、タンスの一番上にあったジーンズを代わりに履いた。ついでにワイシャツの襟をボタンひとつ緩める。
そのままリビングに戻ろうと踵を返したところで忘れ物に気がつき、スーツのポケットからスマホと財布を回収する。そして財布を机に放る片手間に、スマホの機内モードを解除した。
そのままスマホも財布の横に置こうとすると、バイブレーションと共に通知ランプが点灯したので、もう一度画面を点ける。
広告メールとガチャ更新の通知を横にスワイプして、
『暇』
だからなんだよとしか言えない。けどそれは普段の僕の話だ。いまの僕には、お手軽に提供できる話題がひとつだけある。
『いま可愛い女の子が僕の家に来てるんだけど』
すると秒で既読がついた。本当に暇だったらしい。
『安価スレ?』
『何年前だよ』
『とりあえずスペックおなしゃす』
『ほぼ引きこもりの社会不適合者二十三歳、顔は中の下から中の中くらい』
『お前のじゃねーよ』
無難にオチがついたところで、アメリカンな笑いをする侍のスタンプを置いてスマホを切る。
リビングに戻ると、猫原さんは僕が行く前とまったく同じ姿勢でソファーに座っていた。コップが空っぽになっていなければ、五分前の世界にタイムスリップしたと思ったかもしれない。
「おまたせしたね。お茶のおかわりはいる?」
「いえ、十分です」
「……ところで、突然だけど、安価って分かる?」
「安価って……廉価の類語ですよね? 対義語は高価」
「だよね。ごめん、なんでもない」
やっぱりひと昔前だった。いや、まあ、それ以前に、安価なんて知ってるやつは僕らみたいなろくでなしばかりだろう、という点もあるけれども。
「いや、結局何だったんですか」
「アンカーの略だよ」
「は? アンカー? 錨?」
「そう」
女子高生はそこで理解を放棄した。賢明な判断だ。
僕はちょっと迷ってから、猫原さんと人ひとりぶんくらい空けて腰を下ろした。
ゆっくりと僕の分のお茶を傾ける。
すると猫原さんは何故か曖昧な表情になった。
まるでふと手に持っていたはずの風船がないことに気がついた子供みたいな、六割の困惑と三割の悲哀、そして一割の絶望だ。
それでも知らないフリを決め込んでお茶を飲んでいると、しびれを切らしたのか、猫原さんから口を開いてきた。
「結局、成沢さんは、なんで私を部屋に招いたんですか?」
「まあ、そう結論を急がなくてもいいんじゃないかな」
「私、無敵なので。何をされてもいいですけど、何もされないのが、一番困るんです。だって、何をすればいいのか、わからないじゃないですか」
「わかるよ。わからないことがよくわかる」
適当に相槌を打った。
ただ、目に見えて不満そうだったので、もう少し深く適当なことを言うことにした。
「君はただ、そこにいてくれればいいんだよ」
「嘘」
けんもほろろ。
「世界は嘘だよ。どこを探したって真実なんてない。なら、嘘を嘘のままにしておけるのが、誰かを信じるってことじゃないかな?」
「……それっぽいことを言って、誤魔化そうとしてるでしょう?」
それでも、猫原さんは頑固だった。当然だ。この程度で騙されるくらいなら、彼女は誰かに傘を差してやしないだろう。
「誤魔化されておけば、幸せになれるのに。だから君は駄目なんだよ。いちいち真実を拾い集めたって、重くて潰れるだけじゃない」
ああ、無茶なことを言う。
でも言葉は歯を擦って、空気を渡って、耳に届いて頭が理解するまでに、どうしようもなく擦り減ってしまう。
世界は嘘で人間は愚かだ。
信用以外で人を動かすなら、極論しかない。
そうして音楽は、歪んだ言葉を
「そんなこと言ったって、どうしようもないじゃないですか……」
「自分に嘘をつくだけだよ」
「それじゃ、所詮嘘のしあわせですよ」
「うん。嘘でも幸せならいいんじゃない?」
一線を越えた感触があった。駄目押しににっこり微笑んでみる。
「そんな……そんなの、空しすぎるじゃないですか!」
言葉の勢いのままに立ち上がった猫原優月はなおも収まらず、そのまま僕に詰め寄った。ぐんと縮まる彼我の距離。うさんくさい表情の僕を映すこげ茶色の瞳の隣に、涙が溜まっているのが見えた。
「そんなのじゃ、ないんですよ……」
くしゃっと顔が歪むのと同時に、猫原さんの腰がソファに戻る。
「じゃあ、どんなの?」
「それがわかっていれば苦労しないです」
「だろうね。でも、君ならきっとできるよ」
「はあ?」
「ちゃんと怒れるうちは、まだ終わってない。君はまだ、ちゃんと愚かで脆弱な人間だよ。嘘では幸せになれないのに、不幸にはなるんだね」
「……嘘って、大方そういうものですからね」
彼女は姿勢を正して、ひとくちお茶を濁す。
「そうかな。そうなんだろうね。さて、それじゃ、こんな地獄で油を売ってないで、現世に戻ったらどうだい。僕が君にしてほしいことは、もうなくなってる。どうも君は、僕の曲のネタにはならないみたいだ」
「どうしてですか?」
「君みたいなまともな感性の人間と一緒だと、僕の感覚まで陳腐になるだろ」
「なんですか、それ」
猫原さんはソファーの上で膝を抱えてしまう。
スカートを全然気にしないものだから、ハーフパンツの先が少し見えている。
「どこ見てるんですか」
「ああ、女子高生のハーフパンツって懐かしいなあ、と」
「変態ですね」
「座るならちゃんと畳んで座りなさいってこと。いや、ていうか、なんでここで座ってるの。もうすぐ五時の鐘が鳴るんだよ」
猫原さんは一瞬僕を睨んだあとに、膝を抱えたまま身体を横に倒した。残念ながら僕とは反対側に、ソファーの肘掛けを枕に寝転ぶ感じだ。スカートの収納から取り出したスマホをたぷたぷ叩く。
「なに、やめてね。通報とか。いま呼ばれたら、僕、普通に捕まるんだけど」
無敵とはいえ、少しは怖いものだってある。
不死者への明確な対抗策は拘束だ。その点、警察はその筋のプロである。
「もう呼んじゃいました」
うそぶいて、スマホをソファーの目前にあるガラステーブルの上に滑らせる。
「なんてことだ」
画面が消灯されていなかったので、僕は何となくその内容を目で追った。SEINのトーク画面だ。まるで公式アカウントを相手にしているみたいに、こちらからの文章にスタンプ反応だけが返され続けている。それで、その一番下には、『今日友達の家に泊まるから、ご飯買って食べて』と書いてあった。もちろん吹き出しの先は右側、要するに、猫原さんの発言だ。
「……あー……そうなんだ?」
「そうなんです」
「それじゃあ尚更はやく行かないと。約束は何時なんだい?」
一応聞いてみた。にっこり笑われる。
「さあ。話の流れでたまたまそうなっただけなので」
「そんな文脈、あったっけ?」
スマホの画面が自動で消灯する。
「世界は嘘ですから」
「それならしょうがない」
僕は言った。やっぱりすべてが嘘だった。
そもそも、僕の側にはメリットしかないわけだから。
納得できる。納得しよう。
人類は愚かだ、と舌が動く。
息を入れる暇はなかった。
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