第二話 ティーンエイジャー・パッセンジャー

第10話 メンヘラとヤンデレのはざかい

 まっさらのスコアが三割くらい埋まったところで、傍らのスマホがうるさく鳴き出した。SEIN通話だ。

 子育てをするママはこんな感じなのかな、なんて皮肉を考えてみたけれど、相手が予想外の人物だったので、通話ボタンを押すころには忘れてしまっていた。


「どうも」


 細い金属線をぎゅっとまとめたみたいな、透き通っているのにいまいち引っかかるような声。


「どうも。忘れ物?」

「SEIN見てください」


 ぶつっ。いや、何。

 トーク画面を開いてみると何件か新規メッセージが。

『いま暇ですか?』四十分前。

『マンションの前にいます』十五分前。

『寝てます?』十分前。

『パパあけて』二分前。

 迷走し始めてる。

 僕は猫原さんにはたぶん通じないだろうフロッピーディスクのマークをクリックして、パソコンをシャットダウンした。


「なんだかなぁ」


 せっかく筆が乗っていたのに。

 とはいえどちらにせよ昼食どきだったので、時間管理用アラームさんが二十分早まったと思えば大差なかった。

 午後が潰れるのかどうかはまだわからないけど。

 少しだけ急ぎ足で玄関まで行くと、猫原さんが玄関前の軒先で降りゆく雨を見上げていた。

 いまの流行が何だったかは覚えていないけど、過去未来いつかの流行の雑誌に載っているだろう、ツートン幾何学のパーカーに、ショートデニムとニーソックス、なんだか強そうなスニーカーを履いて、やたら大きなリュックサックを背負っている。マスクまでしっかりおしゃれ仕様なのが時節を思わせられた。

 でも、膨らんだエコバッグはたぶん想定されたファッションではないのだと思う。


「似合ってるね」

「荷物はさっさと下ろしたいですけどね。こんにちは」

「こんにちは。忘れ物じゃないみたいだね」

「忘れ物ですよ、いちおう」

「何を忘れたのさ」

「哲学ですかね」

「そりゃ大問題だ」


 手を差し出してみる。


「スマホより重そうだから」

「ああ。そんなのもありましたっけ」


 ずっしりと右手に重みが加わった。

 いや、本当に、ちょっと普通に腕が震えるくらいに重い。世の中のお母さんはいつもこんなことしてるのか。道理でどいつもこいつも強いわけだ。

 エレベーターを待って乗って降りている間、僕は苦しさを顔面に出さないので精一杯で、いちいち会話を振ってあげる余力がなかった。


「それで、何なの? この荷物と、その荷物」


 ようやく玄関前まで来たところで、扉をスライドするのに若干苦心しながら訊いてみる。猫原さんが横から手を伸ばして扉を開けてくれた。ありがたい。


「その荷物は、主に食料品です。占めて五千二百二十円でした」


 彼女から見たその荷物は僕から見たこの荷物だ。ややこしい。そして逆もまた然りである。


「で、この荷物は、私の私物です」

「いちおう聞くけど。なんで?」

「置いておいたほうが便利じゃないですか。どっちも」

「……まあ、そうなんだろうね」

「嫌なら、てへぺろってして帰りますけど」

「嫌といえば嫌だけどね。君の青春を僕が浪費していくみたいで」

「じゃあ、お互い様です」


 冷蔵庫の前でエコバッグを下ろして洗面台に向かう。

 鏡の中には二人分の影。非日常に逆戻りだ。

 世界がなんだか、嘘っぽい。


「こっちの荷物、リビングに置いておいていいですか?」

「なんだかなぁ。君は一度襲われてしまったほうがいいんじゃないかと思えてきたよ」

「それならそれでいいですけど。ていうか、それで成沢さんのトラウマが払拭できるならウィンウィンですよね」

「トラウマじゃないし、君側のウィンどこだよ」

「そうですねえ。将来を担保してもらえる相手ができます」

「どうだろうな。そのときになったら、僕は普通にヤリ逃げするよ」

「最低ですね」


 言葉とは裏腹に機嫌よさそうに笑いながら、猫原さんはソファーの裏にリュックをどかっと立てかけて、中から肌触りのよさそうなベージュの財布を取り出した。


「もう、やっぱ君無敵でいいよ。プラスチック爆弾でも抱えて、小倉駅前で万歳三唱して死ねばいい」

「あ、ひどい。こんなかよわい女の子を捕まえて」

「思考回路がヤンデレ一歩手前なんだよ君は。財布持ってくる」

「そういえば」


 呼び止められて、振り返る。


「メンヘラとヤンデレって何が違うんでしたっけ?」


 振り返るほどの用事じゃなかった。死ぬほどどうでもいい。


「グーゴル先生にでも聞いて」


 たぶん範囲円の一部が重なっているだけだと思うけど。

 はたして、財布を持って僕が戻ってくると、猫原さんの瞳は上から下へせわしなく動いていた。


「あ、調べてみたんですけど。自分中心なのか好きな人中心なのかっていう区分けがメジャーみたいですよ」


 あー……?


「で、君はどっちなの?」

「メンヘラですかね? 成沢さんのことが好きなわけじゃないですからねえ。でも、ある程度できることはしてあげたいなあって、そんな感じなんですけど」

「涙が出るね。君の場合、できることが多すぎる。無敵だから」


 五千二百二十円ぴったり。

 樋口一葉さんで包むように渡してあげると、なぜかテーブルの上に用意されていた二千六百円と、僕が渡した十円玉がひとつ、僕の手の上に置かれる。


「えーと、これは?」

「半分くらいは私が食べるかなと思って」

「高校生の二千六百十円は安くないんじゃない? 二回はカラオケ行けるよ」

「休業中じゃないですか。五月いっぱい。もしかするとその先も」

「……確かに、そんなニュースを聞いたね、そういえば。じゃあまあ、電子書籍で漫画でも買えばいい。とにかく、女子高生に二千六百十円を支払わせるほど、僕の面の皮は厚くないよ」

「ふうん」


 なんともやりにくそうに、猫原さんは僕に突き返された二千と六百十円を財布にしまった。口の開いたリュックにぽいっとそれを放る。ホールインワン。


「それで、お昼ってもう食べました?」

「食べてないね。予定ではいま頃卵を焼いてるはずだったんだけど」

「朝食べたじゃないですか。そうですねえ。チャーハンにでもしますか?」

「ご飯炊いてない」


 肩をすくめてみる。今日の僕はただの黒シャツなので、肩をすくめても大して格好はつかない。


「卵とパンじゃ本当に朝食の焼き直しじゃないですか」

「じゃあ、どこか食べに行こうか」

「ある程度できることはしてあげたいなぁって、そんな感じなんですけど」

「メンヘラだね。僕も同じ気持ちだよ」


 適当を言ったけれど、別に嘘ではなかった。

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