C.Cym

「それで、恋バナはするの?」

「恋バナっていうのは、部屋の電気が消えていないといけないんですよ」


 小豆バーをがりがりやっている猫原さんは、ドライヤーを片付けてくる前よりは、だいぶ自分を取り戻しているらしかった。さすが好物だ。


「既知の観念にとらわれすぎなくても。ライトアップ式恋バナ、いいじゃない」

「頭の悪い単語ですね。ていうか、恋人履歴ゼロなんでしょう?」

「ないけど。聞き手にはなれる」

「嫌ですよそんなの。話し合うから言えるものじゃないですか」

「じゃあ、言おうかな。むかし僕にも好きな子がいたんだけど」

「へえ」


 普通に喰いついてきた。


「僕はずっとその子に片思いをしていてね。ネタバレすると、ついぞその想いは伝えられなかったんだけど」

「どうしてですか? こんなおちゃらけてる人が」

「当時の僕はおちゃらけてなかったの。あと、彼氏いたからね。その子。ついでに言うとその彼氏は僕の友達だった」

「あー……。ザ・片思いですね。それで?」


 猫原さんが少しだけ僕のほうに身体を向ける。


「それで……」


 ぴりりと脳の奥が痙攣するような感覚。僕は頭を軽くひねってから、目頭を抑える。なんで……こんな話になってるんだっけ?

 いや、お前から振ったんだろ。

 浴室から声が聞こえる。聞こえるわけない。ため息をつく。


「それだけ。僕は普通に卒業して、恋はおしまい」

「いやいやいや! え? そこで切ります?」

「切るも何も、話せることがないからね。で、現役女子高生は?」

「んぅー、あー、すみません。恋愛経験ゼロです。ほんとにゼロです。片思いくらいしていればよかったんですけど」


 最後のひとかけらを引き抜くように口に含んで、残った棒をぷらぷら咥えだす。


「ともすると僕よりも寂しい青春を送ってる人間がいただなんて、最高だね」

「それはよかったですね」

「でも、モテるんじゃないの?」

「は?」


 猫原さんの口元から、アイスの棒がぽろりと落ちた。


「だって普通にかわいいじゃん。超絶美少女ではないけど、名誉美少女じゃん。むしろ超絶美少女よりモテそうじゃん」

「めちゃくちゃ言いますね。セクハラですよ」

「で、どうなの実際。告白されるのは珍しくないんじゃないの」

「いや珍しいですって。ないわけじゃないですけど」

「あるんじゃん。その時には、食指はそそられなかったの?」

「食指……いや。なんていうか、ちゃんと恋できそうな気がしなかったので。全部断ってきましたねえ」

「ちゃんと恋できる人って、どういう人?」

「……さあ。わかんないです。私の全部を理解してくれる人とか?」

「それはもう静かな泉を覗くしかないね」


 ビバ、ナルキッソス。


「強いて言えば。成沢さんは……居心地悪くはないですけど、やっぱり恋じゃないですよね。なんていうか……こう……」

「悲しいね。フラれちゃったよ」

「あ。や、ごめんなさい。変なこと言いました。ちょっと眠いのかも」


 眠いと思考は緩慢になるし、発言は無責任になる。


「そりゃ、会ってからずっと君は変なことばかり言ってるからね。気にしないよ」

「すごいブーメランですけど」


 猫原さんはゴミ箱まで歩いていって、アイスの棒を捨てた。そこで大きな欠伸をひとつ。


「ふぁ。でも……だから、ほら。お父さんみたいな? そういうのとしては悪くないと思います」

「せめてお兄さんにしてくれない?」

「覚えてます? 私、最初はパパ探してたんですよ?」

「いかにも眠そうな伏線回収だね。惚れ惚れするよ」

「……いま、何時でしたっけ?」

「十時ちょうどくらい。嘘だった。十時十五分」


 スマホを点けてすぐ消した。通知はたぶんなかった。


「おかしいな。普段は十二時なんですけど」

「慣れないことしたら疲れるってことでしょ。僕も眠い。今日は一か月分くらい人と話したから」

「寝ます?」

「さて、どうしようかな」


 正直に言えばちょっと疲れたのは本当で、眠いのも本当だ。とはいえ薄汚れた大人はただ眠いだけでは眠りに就かない。

 変な大人像は猫原さんのぼそっとした声で霧散する。


「……あ。歯ブラシ忘れてた」

「あー。たぶんあった気がするけどねえ」


 洗面台に並んでいって、流しの下を開ける。百均の収納用の缶の中に、未開封の歯ブラシがいくつかあった。


「あった、ほら──」


 腰をひねりながら立ち上がろうとして転びかけた。

 何でって、まあ、うん。


「大丈夫ですか?」

「あぁ、うん。はい。歯磨き粉はないかな」

「私は気にしませんよ、って、今日何度目のセリフでしたっけ」

「さあ、七回目くらい?」

「そんな言ったっけ?」


 たぶん言ってない。


「少しは気にしようね。本当に」


 コップで口をゆすいで、歯磨き粉の蓋を閉めた。


「はあ」


 猫原さんが歯磨き粉の蓋を開けた。

 しゃこしゃこ、としばし音のある静寂。

 やがて僕が口をすすいでコップが空くと、猫原さんはやっぱりそれを手に取った。なんだかなあだ。

 百歩譲って間接うんたらはいいとして、最後の要害だけは身に着けておいてほしかった。とても口には出せないけども。

 洗面台の灯りを消すと、猫原さんが呟いた。


「あ、分かった」

「何が?」

「なんでも」


 にっこり笑って、なぜか身体を半歩寄せてくる。

 率直に言ってやめてほしい。

 ので、早めに別れることにした。

 眠いだけでは寝ないとはいえ、起きているのが不都合だったら、当然寝る。


「それじゃ、僕はベッドだっけ?」

「そうですね」

「ドア開いてるから、何かあったら起こしていいよ」


 早めに別れることにした。


「そういえば、ベッドってどんな感じなんですか?」

「成人男性の汗と抜け毛を吸い込んだ感じのベッドだよ」

「うわあ」


 別れることは、えっと。

 なんで僕は寝室に入ったのにまだ猫原さんがいるんだろう。本気で謎だ。

 いつの間にかリビングの電気は消えていて、カチャリとドアノブが動く音。明かりといえば灯りのスイッチの場所を示す緑色のランプだけの、真っ暗な密室のできあがり。映画のフィルムはこういう部屋で焼くんだっけ。


「えっと……まだ恋バナするの?」

「はい。ひとつだけ思い出したので」

「ふうん」


 猫原さんが手探りで部屋を進んで、探し当てたベッドに腰かける。


「それで……思い出したってことは、けっこう前の話?」


 僕はベッドランプをONにした。ぼうっと橙色の灯りが点る。影が揺らめく。なんだか頭が痛い。


「経過時間としては、そこまで。ただ、当時の私はめちゃくちゃ忙しかったんです」

「っていうと……三年前とか?」


 お母さんが亡くなったのは。


「はい。母が死んだ次の日でした。私、当時気になっていた男の子に告られたんです。好きって確信できるほどじゃなかったですけど、付き合ってもいいのかなあ、くらいに気になっていた」

「お母さんの事、男の子は知ってたの?」

「いえ。だから、巡りが悪かっただけです。だけですけど、当時の私はブチキレました。だいぶヒステリックですね。当然、二人がそこから何かになることはありませんでした。中学校を卒業して、それきりです。私、本当に忘れてたんですよ、このこと。ついさっきまで」

「嫌な記憶を呼び起こしたようですまないね」


 欠伸を噛み殺しながら言った。


「私は気にしませんよ、って、言うと思いました?」

「ここでは気にしないで欲しかったけどね。お詫びになるかわからないけど、僕の恋バナに補足をしようか?」


 ──やめろ。そこで止めろ。

 理性が心の奥で警鐘を鳴らしている。でも止まらない。


「いいですね、それ。許します」

「さらっと流したから覚えてないかもしれないけど、僕が高校二年生のころ、姦淫の罪に溺れた同級生たちがいてね」


 それ以上はお前のためだけの話だ。

 彼女を巻き込むな。そうやって俺が遠くから叫んでる。

 なに、それ?


「いや覚えてますよ。今日の衝撃シーン五本指に入りますよ。……でも、それ、ここで出てきてほしくない話ですね」

「首謀者にして最大の被害者?のSちゃんの親友が、僕の好きだった子。Sちゃんを心配して行ってみたら、参加者だと間違えられたのか流されたのか、まあ悲惨なことになってね。僕は普通に卒業したけど、彼女はそうはならなかったよ」


 僕は全てを受け入れて、乗り越えたんだ。

 だから話せる。なんでもないことだから。それを、確かめるように口に出してみて、違う。世界は嘘で人類は愚かだ。

 愚かな世界に花束を。それでどこが綺麗になるのか。


「……うわあ。うわあ。ごめんなさい。本当にごめんなさい」

「いや、気持ちを入れてくれるのはありがたいけど、そこまで深刻にならなくても」

「だって、その……死んじゃったんですよね?」

「え? あ、ごめん、それは言いかたが悪かった。その子は退学しただけ。自殺はしてない」

「良かっ……いや、それでも……ひどいです」

「そうだね。まだあとひとつ闇があるけど、どうする?」


 いったいお前はどうしたいんだ?

 どうって。教えてあげないと。

 人類は愚かだという納得。嘘の世界の必要性。

 それがないと誰も幸せにはなれない。

 歪んだ言葉を語り継ぐんだ。

 それは、そんな約束じゃない。


「絶対聞きたくないです。ごめんなさい」

「男の方の参加者のひとり、僕の友人だったんだよね。まあ要するに僕の好きだった子の彼氏だけど」


 ああ。


「なんで言っちゃったんですか……」

「収まりが悪くて。でも、僕の片思い編は本当にこれで終わりだね。だからここからは余談。関係者全員二ヶ月停学になって、半分はその間に自主退学したわけだけど、復学した何人かは──」


 最低だ。最低だよ僕は、最低だお前は。

 ここは地獄だ。


「やめて。ください。おねがいします」

「はは。いや、そこまで怖がってくれると、ちょっと楽しいね」

「……なんで、楽しめるんですか?」

「僕の中では、ちゃんと終わらせた話だから。色々やって、納得したんだ。全部にね。だからこれは、ただの怖い話。怪談だよ」


 制服があった。雨があった。形のない涙があった。

 ハンバーグはなかった、おばあちゃんは死んだ。

 染みついた線香の香りに嗤って泣いた。

 ちぐはぐのつぎはぎ。


「非人間ですね」

「いまさら気づいたの?」


 ああ。納得した。僕はやっぱり疲れている。

 だからこんな無意味で無価値な話をした。


「……一緒に寝てくださいよ。それで、夜中起こしたら黙ってついてきてください」


 猫原優月はゆっくりと身体を倒し、薄手の布団を引き上げた。枕はちょうど半分空いている。


「俺のほうが怖いよ」

「かもしれませんね」


 天使像みたいな指が、つるりと頬を撫で上げた。

 そこで初めて自分が泣いていることに気がついて、それ以上何かが起きないように、灯りを消した。

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