エピローグ

 石油のような匂いが漂う美術室にて、広希はキャンバスを前に、ペインティングナイフで傷を付けていた。


 ペインティングナイフは、バターナイフに酷似した形の美術用品で、キャンバスへ絵の具を厚く乗せたり、面を描いたりする時に使う物だ。


 広希はペインティングナイフを道具箱の中にしまうと、下塗りを再開する。


 目の前には、赤い薔薇を生けた花瓶が置いてある。血のように赤い薔薇は、造花であり、デッサンの練習用に用意したものだ。


 ある程度塗りを行い、広希は筆をパレットの上に置く。この十号の筆は硬めで、タッチを活かしたいため、使っていた。


 絵は半分ほど出来上がっている。まだ油絵は初心者であるため、試行錯誤の段階だが、描き始めると案外上手く進み、自分は才能があるのではないかと思う。自惚れか。


 広希は、美術室を見渡す。まだ完全に見慣れてない美術室には、数名の美術部員が、真剣な面持ちでキャンバスを前に、筆を走らせている。他にも部員はいるが、風景画を描くためか、あるいはさぼりか、外出していた。


 江府高校の美術部員と比べると人数は若干少なく、男子の比率も多い。それだけでも、雰囲気が結構違ってくるから不思議だ。もっとも、は、美術部員ではなかったのだが。


 筆を走らせている美術部員達は、たまに水筒や、ペットボトルを傾けて、中身を飲んでいる。ペットボトルの中身は、トマトジュースのように、赤い。


 広希も、隣の椅子の上に置いてあるスタンレーの赤い水筒を手に取った。銀色の蓋を外し、コップ代わりにして中身を注ぐ。


 注がれている液体は、赤ワインのような茜色だ。


 広希は、それを一気に飲み干す。たちまち全身の毛穴が開き、細胞の隅々まで活性化する。下腹部から快感が湧き起こり、電気のように頭まで貫いた。至福の瞬間だ。


 水筒の中身は、フェイクの血ではない。純粋な血液飲料だ。


 広希は、息を一つ吐くと、蓋を閉め、スタンレーの水筒を椅子の上に戻す。


 そして、デッサンを再開する。


 真っ赤な薔薇をモチーフに描いていると、あの時の光景が頭をかすめた。あの地獄のような日々。


 あの後、事件は大きく報道された。非感染者を監禁した件のみならず、それが高校生によるもので、さらに大勢の死者が出たためだ。当然である。マスコミの絶好な好餌となり、連日センセーショナルな話題として流されていた。


 逮捕者も複数出ており、それに拍車を掛けた。『被害者』となった男子生徒の担任を始め、主犯格となった女子生徒の親や、その女子生徒が所属していた美術部の生徒達、それらが軒並み逮捕に至った。


 殺人までも犯した主犯格の生徒達は、事件の最中に全員が死亡したため、この件において、殺人容疑での逮捕者はいなかった。


 殺害された被害者達は、君津市の追原にある山奥へと遺棄されていた。これを直接行ったのは、担任教師であったため、彼女は死体遺棄の容疑でも追起訴されている。


 『被害者』となった男子生徒Kは、非感染者であったので、情報は徹底的に秘匿され、明るみに出ることはなかった。ただ、それまで通っていた高校を転校し、遠くの高校へ行ったという情報だけは流れていた。


 そしてほぼ同時期に、口蹄疫のアウトブレイクも収束を迎え、血液飲料不足も解消された。事件から一週間ほど経った頃だったと記憶している。


 そこまで思い出した広希は、ふと、あることに気付く。眼前の絵のことだ。物思いにふけながら描いていたため、心の動きが強く絵に表れていたのだ。


 赤い薔薇の背景は、黒と赤を基調にした禍々しいものに変貌していた。黒色は、まだあの時の出来事が心の隅にトラウマとなって残っている証なのだろう。そして、赤色は……。


 広希は、再びスタンレーの水筒に手を伸ばし、血液飲料を一杯飲む。


 そして筆を走らせる。


 広希は、黒と赤の背景をモスグリーン色に塗りつぶしながら、諸井早紀のことを考えた。


 彼女には、つくづく感謝しなければならない。彼女が殺されたことを契機に、脱出の機会が訪れたのだ。そして、彼女が持ってきた果物ナイフ。なぜ彼女がそれを用意するに至ったのかは、もう把握しようがないが、あれのお陰で脱出すら可能となった。


 もしも、彼女がいなかったら、あるいは加害者達と共犯になっていたら、自分は死んでいたのかもしれない。文字通り、早紀は、命を賭けて広希の身を救ったのだ。


 続いて広希は、大里千夏の姿を思い浮かべる。可憐で清楚な美少女。千夏の非感染者に対する血の渇望は凄まじかった。口蹄疫で血に飢えていたせいもあるが、血液飲料の不足が訪れていなくても、最終的にはああなっていたかもしれない。


 彼女を殺したのは自分だ。達夫と明日香も。しかし、罪悪感は微塵もなかった。警察側も、正当防衛という形で決着をつけてくれた。


 そして、あの時、広希が千夏の血を啜ったのも、死体損壊などの犯罪に抵触するはずだ。だが、それすら錯乱状態の末の行動で、お咎めなしだった。


 その結果、というわけではないだろう。自分が感染者に変貌したのは。


 あの後すぐ、自分は感染者になった。唐突に血への欲求が生じたのである。喉が渇いていないのに、非常に乾いている感覚。感染者はこの欲求を常日頃抱えているのかと、驚いた記憶がある。これなら、垂涎の対象である非感染者の血を求めるのも理解できると。


 後で調べてわかったのだが、好血病ウィルスは人から直接感染しない。つまり、千夏の血を飲んだせいで感染者になったのではないらしい。ようはタイミングが偶然一致しただけ――だと思われる。


 しかし、それならば疑問が一つ残る。は一体、何なのだろうと。


 殺された祖父母の顔が頭に走馬灯のように現れた。祖父母は今の自分を見てどう思うのだろう。非感染ではなくなり、。愛する祖父母は、歓迎してくれていただろうか。


 美術室に、部長の声が響き渡った。部員全員が手を止めて、そちらに目を向ける。広希も思案から解き放たれて、部長の方を見た。


 部長は眼鏡を掛けた長身の男子生徒だ。真面目さを体現したような容姿をしている。


 その隣に一人の女子生徒がいた。小鹿を思わせる華奢で小柄な少女。可愛いらしい外見だ。


 長身の部長と相反する身長のため、可愛らしさが浮き彫りになっている。


 部長が皆を呼び寄せ、二人の前に美術部員達が集まった。


 部長はその女子生徒を新入部員だと紹介した。一年生で、前から美術に興味があり、思い切って志願したのだと。


 可愛い女子部員が入ったため、男子部員は色めき立っていた。女子部員は醒めた表情だ。


 だが、広希は別の感情に支配されていた。


 広希の嗅覚が捉えていた。


 広希が感染者になった際、他の感染者とは違う症状が現れた。それを症状と呼んでいいのかわからないが、しかし、大きな『現象』が発生した。


 感染者、非感染者を区別できるようになったのだ。


 能力、と言っても過言ではないだろう。これは、おそらく自分にしか備わっていない特徴だ。


 女子生徒は、自己紹介を行い、恭しく頭を下げた。


 周囲から拍手が起こる。


 広希は、女子生徒を見ながら、涎が生じるのを自覚した。


 そうだ、と思い付く。今度人物画を描いてみよう。この女子生徒に頼み、モデルになって貰うのだ。出来た絵はこの子にプレゼントしよう。


 新入部員の女子生徒は顔を上げる。顔がはっきりと見えた。パッチリとした綺麗な二重。にこやかに笑っている。


 かつての広希のように非感染者だと発覚しないように、色々と工夫を凝らしているに違いない。おそらく、これまで発覚したことがないはずだ。


 今こうして、自分が非感染者だと広希に気付かれていることなど、想像だにしていないだろう。


 女子生徒と目が合う。


 広希は、優しく微笑み、歓迎の意をあらわにした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あなたの血を飲み干したなら 佐久間 譲司 @sakumajyoji

現在ギフトを贈ることはできません

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画