第二章 これを飲んで

 翌朝、千葉の空は、鉛色をした雲に覆われていた。昨日、祖母が宣言したように、今日は雨のようである。今はまだ降り出してはいないが、いつ大雨が来てもおかしくはない空模様だ。


 広希は、起床直後に見上げていた窓際から、離れ、部屋を出た。


 一階の洗面所で顔を洗い、居間に入る。


 毎朝の如く、食卓には朝食が並んでいた。今日は卵焼きに、納豆の付け合わせである。


 広希は、二人に声を掛け、自身の椅子へと座った。克己はすでに、自分の椅子に着いていた。


 広希は、台所にいる梅子へ先に食べる旨を告げた後、克己と共に朝食に手を付け始める。


 点けたままのテレビから、ニュース番組の音声が居間へと流れていた。広希は、時折、そちらに目を向けながら、卵焼きを口に運ぶ。


 ニュース番組は、芸能界の話題を取り上げていた。例の非感染者であると疑いがかかっている、お笑い芸人と、美人女優の結婚の話題だ。


 そのお笑い芸人が非感染者なのか否かは、直接触れられてはいなかった。マスメディアが詮索するのは禁忌だからだ。だが、遠まわしに探られているかもしれない。


 視聴者やテレビ局の関係者のほとんどが、感染者なのだ。非感染者に対する興味は凄まじく強い。表層は結婚に対し、祝福しているようだが、非感染者との疑惑が持ち上がった以上、皆の関心は、そちらにも向けられるだろう。おそらく、この傾向は、しばらく続くに違いない。


 やがて、ニュース番組は、次の話題へと移り変わった。それまでの華やかな雰囲気が一変して、神妙な空気が流れる。それなりにセンセーショナルな内容らしい。仰々しいテロップが画面に表れた。


 何の感慨もなく、目を向けていた広希は、そのテロップを読んで、食事の手を止めた。胸中に、ドロリとした、黒いものが圧し掛かったのを自覚する。


 テロップには、こう書かれてあった。


 『非感染者を監禁! 男を逮捕!』


 動きを止めたまま、広希はテレビ画面を注視する。隣に座っている克己が、気に掛けるように、こちらを伺ったのを目の隅で捉えた。


 ニュース番組の司会者は大げさな表情を作り、事件のあらましをこう解説していた。


 事件が発覚したのは、一昨日の午後らしい。場所は大阪の泉佐野市。保護された被害者は二十代の女性で、命に別状はないという。ただ、衰弱が激しく、入院の措置が取られたようだ。容疑者は三十代の男。現在は取り調べの最中らしい。


 画面に容疑者の顔写真が映し出された。スキンヘッドの厳つい容貌をした男だ。街ですれ違った場合、避けて歩きたくなるような威圧感を放っている。そんな男に監禁されたのだから、その恐怖心たるや、相当なものだっただろう。


 司会者は、動機の説明に入った。


 被害者の女性は、岸和田にある建築会社の事務員だった。加害者の男とは同僚の間柄であり、ある時、偶然にも被害者の女性が非感染者だという事実に気が付き、拉致を行うことを決めたようだ。


 さらに、詳細な解説が続く。


 男は就業が終わると、被害女性を尾行し、一人住まいのアパートを突き止めた。そして、その後で、被害女性を拉致するために、様々な準備に取り掛かった。


 男は一人暮らしだった。両親は数年前に他界しており、両親が残した一軒家に、一人で生活をしていた。男は、その一軒家の一部を、自身の手で改装し、監禁に適した造りへと変えていったのだ。


 被害女性を『お迎え』する準備が整った後、男は、被害女性の生活を徹底的に調べ上げ、行動パターンを把握した。


 そして決行の日。


 休日で街に出ていた被害女性の帰宅途中に、偶然を装って声を掛け、送って行くからと、自身の車に乗せる事に成功する。用意してあった刃物を見せて脅迫し、粘着テープで拘束した後、泉佐野市にある自宅へと監禁したのだ。


 これが、彼女の地獄の始まりだった。


 ほぼ四六時中ベッドに拘束され、血を採取され続けた。採取には、インターネットを通じて、海外から購入した採血ホルダーが使用されたようだ。健康診断の採血時と同様に、静脈に針を刺され、血を抜かれていた。抜かれたその血は、その場で全て男が飲み干していたという。


 拘束と、強制的な採血により、被害女性は、大変な苦痛を味わい続けた。しかし、何よりも嫌だったのは、排泄関係だったようだ。被害女性はオムツを履かされ、そこで排泄を行わなければならかった。それは、死んでしまいたいと思うほどの、強い屈辱だったと語っている。


 男の家は隣家との距離が、かなり離れている上に、監禁部屋が防音加工されており、助けを求める声は誰にも届かなかった。また、一人暮らしである以外に、交友関係も乏しかったため、第三者に見咎められる可能性が極めて低い環境となっていた。


 二週間ほど地獄の同居生活が続き、やがて、終わりを迎える。


 救助のきっかけは、男に拉致された被害女性が持つスマートフォンだった。拉致された際、女性が所持していたスマートフォンは監禁場所まで一緒に運ばれている。しかし、男は拉致後、被害女性のスマートフォンを取り上げ、電源を落としていた。スマートフォンを元に追跡される事を見越していたからだ。


 だが、そのタイミングが遅かった。スマートフォンは、電源が入っていた直前まで、その所在を辿ることが出来る。近くの基地局へ、定期的に電波を自動発信しているからだ。


 被害女性の無断欠勤が続き、心配した同僚が自宅のアパートへ訪ねた。しかし、いくらチャイムを鳴らしても不在であり、またスマートフォンも繋がらない事から、会社から被害女性の両親に連絡が行った。やがて両親の手で、警察に捜索願が提出されたのだ。


 捜索願が出されれば、警察は電波事業者に情報の開示請求が出来る。そして、その最後に発したマートフォンの電波から、警察は、基地局を割り出した。


 男が被害女性のスマートフォンの電源を落としたのが、男の自宅がある泉佐野市内に入ってからだった。それが致命的だった。警察お得意の聞き込みにより、男の家まで嗅ぎ付けたのだ。


 男は、職場では、行方不明となった同僚を本気で心配する素振りを見せ、決して疑わしい言動など取っていなかったという。


 だが、警察官が自宅というテリトリーに足を踏み入れたのでは、そうは行かなかったようだ。突如、玄関先に現れた警察官に対し、強い挙動不審を以って、出迎えてしまったのだ。


 そこからの展開は早く、聞き込みによる目撃車種の証言、基地局の該当範囲、行方不明女性の同僚という偶然の一致、挙動不審というフォーカードが揃い、裁判所から捜査令状が下り、監禁された女性を発見、現行犯逮捕に相成ったのだ。


 事件の解説が一通り終わり、ニュース番組は、コメンテーターの意見に移った。広希は食事を再開する。


 「大丈夫か? 広」


 克己が心配した表情で、広希の顔を覗き込む。


 「うん。大丈夫。気にしていないよ」


 広希は、努めて、明るく言った。本当は少し動揺があったが、祖父に心配をさせたくないとう気持ちがあった。


 それに、このようなニュースは、特別珍しくない。


 広希は、続けて言う。


 「時々あることだし、いちいち気にしていられないよ」


 ニュース番組は、広希の言葉に呼応するように、テロップが変化した。


 『今月二人目! 非感染者の被害』


 感染者による、非感染者の加害事件は、決して珍しいことではなかった。拉致監禁こそは滅多にあるものではないが、衝動的な暴行や傷害、猥褻行為なども時折起こっている。それらは、通常の、人同士の軋轢や欲望によるものとは事情が違い、感染者の『血を飲む』という目的が伴ったものだった。


 感染者の数が増えるに従い、被害件数は軒並み増加していった。ピークは、感染者と非感染者の数が、およそ半々になった時期だった。まるでムーブメントであるかのように、『吸血事件』のニュースを目にしない日はなかった。


 やがて、次第に非感染者の数が減るに従い、当然だが、被害件数も減少していった。非感染者の数が少数となった現在では、全盛期に比べると、随分と鳴りを潜めていた。だが、それでも、思い出したかのように、定期的に発生している事象である。


 それはまだ、非感染者がこの日本に潜在している証でもあり、そして、同時に、非感染者だと発覚した場合、確実に感染者に狙われるという危険の表れでもあった。


 「学校の方は問題ないか? その、周りは皆感染者なんだろう?」


 食事を再開した克己が訊く。あまり大げさに感じさせないよう、配慮した口調だった。


 「うん。問題ないよ。バレてない」


 「達夫君も感染者なんだろ? いつも一緒にいるけど、バレる心配はないのか?」


 「大丈夫だって。ちゃんと偽物の血は飲んでるし、それにバレても達夫なら何もしないと思うよ」


 広希は本心を言った。実際、非感染者という事実が周りに発覚した場合、先程のニュースのように、真っ先に血を狙うのが同僚や知人だという。言い換えれば、身近な人間達だから、発覚し易く、即被害に合うのだ。


 しかし、達夫は違うような気がする。幼馴染であり、良く行動を共にする仲だ。広希の事も良く気遣ってくれる。カミングアウトする気はないが、仮に達夫に発覚したとしても、血を狙わず、むしろ、自分の身を案じてくれるのではないかと広希は思っている。


 「広ちゃんの言う通り、達夫君は優しくてしっかりしているけど、油断しちゃ駄目よ。非感染者が被害に遭う事件は、いつもそんな事から始まるらしいから」


 キッチンから出てきた梅子が、いつものように、カウンターへ弁当箱と二本の水筒を置きながら、警告する。ニュースの内容や、二人の会話をしっかりと聞いていたようだ。


 「一人でもバレたら、それが皆に広がって広ちゃんが被害者になっちゃうわ」


 梅子は、広希の周り全てが敵であるかのような物言いをした。今も続いている非感染者の被害事件を鑑みれば、無理のない話だとは思う。ましてや、唯一の孫の事なので、ひどく心配なのだろう。


 広希自身、その気持ちはひしひしと感じているため、強く反発するつもりはなかった。


 「わかってるよ。絶対にバレないようにするから、心配しないで」


 広希は宥めるように言った。


 梅子はそれ以上は言及せず、自分の椅子に座り、朝食を摂り始めた。


 テレビは、コマーシャルに入り、血をメインに使った、シチューを紹介する映像が流れ出していた。




 朝食を済ませ、登校の準備を行う。フェイクの血が入った水筒は、今日も忘れずにしっかりと通学鞄に入れる。


 広希は、玄関先まで見送ってくれた祖母に挨拶をし、傘を持って家を出た。


 空は、不気味なほどの暗い雲に覆われていた。湿度もあるようで、生温い空気が体に纏わり付く。


 見慣れた通学路を、歩いて高校へ向かう。広希以外に道を歩いている人間も、皆傘を手に持っていた。


 広希が清見台を抜け、請西区に入っても達夫は姿を見せなかった。早朝練習が行えていないと言っていたので、先に登校しているのではなく、単純に、出遅れているのかもしれない。


 広希は一人で江府高校の校門を通り、教室へと入った。


 教室には、すでに半数ほどのクラスメイトが登校していた。達夫や茂はまだいないようだった。


 クラスメイト達は皆、例の監禁事件の話題を口にしていた。


 広希は、自身の席に歩いて行き、座る。近くの席で、会話を行っていた女子生徒達の会話が、耳へと入ってくる。その内の一人は明日香だった。


 「非感染者が監禁されていたニュース観た?」


 「うん、観た観た。たまにあるよね」


 「そうだね。でも被害者の女の人、可哀想」


 「加害者の人、被害者が非感染者だと知って、我慢出来なかったみたい」


 「でもどうやって非感染者だって知ったんだろ? 普通わからないのに」


 「二人でいる時に、非感染者の女の人が、間違えて、家畜の血を飲んだらしいよ。それで、吐き出して、知られちゃったんだって」


 「あーそうなんだ。そう言えば、非感染者は血が飲めないんだったね。その感覚忘れちゃってた」


 「でも羨ましいなー。非感染者の血って凄く美味しいんでしょ? 一度でいいから飲んでみたいな」


 「じゃあ監禁する?」


 「非感染者が誰なのかわからないから、無理でしょ。数も減っているし。もうこの学校にはいないと思うよ」


 「残念ー」


 広希は、自然に入ってくる明日香達の会話を遮断するように、机に突っ伏した。朝の悲惨なニュースのせいか、あるいは湿度のせいなのか、体が少しだるい。


 近くにいる女子生徒達は、まだ非感染者の血について、会話を続けていた。それを意識しないように、目を閉じた所で、肩を叩かれた。


 「よう。どうした? 具合でも悪いのか?」


 達夫の声が掛かる。広希は顔を上げた。達夫の精悍な顔と目が合う。


 「何でもないよ。ちょっと眠かっただけ」


 「少し顔色が悪いぞ」


 「うーん雨のせいかな」


 広希は、自分の頬を手で触れた。朝、鏡を見た時は何ともなかったが、今はなぜか、やつれているような気がする。人から言われると、さらに体調が悪く感じるのは、良くあることだ。


 「ちゃんと血を飲んでいるか?」


 達夫が忠告する。


 広希は頷いた。


 「うん。飲んでるよ。朝もちゃんと飲んできた」


 「だったら、風邪かもな」


 達夫が納得したように言う。


 「おはよー」


 茂も登校してきたようだ。眠そうな表情で挨拶をする。


 「おはよう」


 広希は、達夫と共に挨拶を返す。


 茂は二人の目の前に来るなり、他のクラスメイトと同じように、大阪であった監禁事件の話題を持ち出した。


 「監禁事件のニュース知ってる?」


 「ああ、知ってるよ。被害者には悪いけど、非感染者相手だと、少し羨ましいよな」


 達夫は食い付く。事件そのものよりも、やはり、非感染者が被害者であることが、心の琴線に触れているようだ。


 少し離れた所にいる早紀も、似たような話を友人と行っていることが、耳に入った。


 広希は、立ち上がる。急に居心地の悪さを覚えたからだ。突然、見知らぬ人間ばかりの土地に放り出されたような、不安な気分が胸中を覆っている。


 広希は、二人に、トイレだと伝え、その場を離れた。教室から出ようとした時、付近に集まっていた女子の集団の会話が、耳に届く。その中には、千夏もいた。


 千夏達は、別の話題を口にしていた。女子高生に人気の男性アイドルグループの話のようだ。


 広希が教室を出る瞬間、千夏と偶然目が合う。だが、千夏は、道端の石ころを見た時のような、興味のない顔で、目線をすぐに逸らした。


 トイレを済ませた広希が、教室に戻った時だった。砂嵐のような音と共に、大雨が降り出した。




 午前中、降り続けた大雨は、広希の心をひどく鬱屈させた。雨で泥水が増えるように、ヘドロに似た澱が、心の中へと堆積している感覚がある。強くなった湿気が、そのナイーブな気分をさらに落ち込ませるのに一役買っていた。


 広希は、勉強に身が入らない気分のまま、午前の授業を過ごした。表情に出ていたのだろう、早紀が途中、心配そうに声を掛けてくる。


 「広ちん、大丈夫? 何だか体調が悪そうな顔をしているよ」


 大きな目を細くし、早紀は訊く。手には、血が入ったペットボトルを持っている。有名メーカーの血液飲料だ。


 「ちょっと具合が悪いかな。気分的なものだけど」


 広希は溜息混じりに言う。


 「何か嫌なことでもあったの?」


 早紀の質問に、広希は、首を振った。


 「そんなことはなかったけど」


 「そう」


 早紀は頷くと、手に持ったペットボトルをこちらに差し出した。ペットボトルが揺れ、中のどす黒い血が、水音を立てる。


 「血を飲む量が足りないんじゃない? 今日、見てたけど、ほとんど血を飲んでいないっぽいから。これを飲みなさい。元気が出るよ」


 早紀は、そう言うと、手に持ったペットボトルを広希に手渡そうとする。


 広希は、手を振って、拒否をした。


 「いらないよ。ちゃんと飲んでるから」


 そう言ったものの、確かに今日は、フェイクの血を飲む行動は少なかったような気がする。気分があまり良くなく、つい怠ってしまっていたのだ。


 しかし、それを逐一、見ている者がいるとは思わなかった。少しくらい飲まない時間があっても、誰も気付かないだろうという考えが自身の奥底にあったが、甘かったか。これからは気を付けよう。


 「本当? 飲んでなかったように見えて、心配してたんだけど」


 早紀は、納得いかない顔をする。広希は、スタンレーの水筒を取り出し、銀色の蓋に注ぐと、それを飲む。


 「大丈夫だよ。こうやって飲んでるし」


 広希は、蓋を閉めながら早紀にそう言った。


 「そう。ならいいけど」


 浮かない顔のまま、早紀はそれ以上話しかけてこなかった。授業が始まる寸前なので、準備に取り掛かっている。


 早紀が目ざとく自身を見ているのは意外だったが、これから頻繁に飲むようにすれば、おかしな疑問も持たれないだろう。


 そのために、しばらくの間は、水筒を机の上に出したままにしたほうがいいかもしれない。少し邪魔だが、そうしていれば、飲み忘れは避けられる。授業中も血液飲料は、机の上に置くことは禁止されていないのだ。だから、ずっと、出しっ放しの生徒もいた。


 今までは、無理に飲まざるを得ない飲料水をわざわざ机の上に置いておくことに、拒否感があった。そのため、いちいち鞄へ収めていたのだ。


 これからは、ずっと置いておこう。広希はそう決めた。



 

 午前が終わると、雨はあがった。晴れ間こそは現れないが、幾分か、陰鬱な気分はマシになっていた。


 昼食の時間になり、広希は、達夫達と共に弁当を食べる。


 場所は、いつものように、広希の席だ。広希の席は、窓際なので、他生徒の通行の妨げにならず、集まるのに適していた。


 達夫と茂は血液飲料を飲みつつ、食事を続けている。広希も、弁当を食べる合間に、フェイクの血を口に入れていた。だが、如何せん、この液体は、トマトジュースをベースにした、お世辞にも美味しいと言えるようなシロモノではなかった。そのため、弁当とはすこぶる相性が悪い。


 せめて食事中だけでも飲むことを避けたい気持ちがあったが、早紀の件がある。感染者は、思った以上に、他者の血の摂取に敏感のようだ。ここは我慢して、フェイクの血を飲み続ける他ないだろう。


 広希は、達夫達と時折、色々な話題を挟みながら、昼食を続けた。そして、三人共食べ終わり、達夫が血を飲みながらある提案を行った。


 「ちょっと購買に付き合ってくれよ」


 なぜかと訊くと、達夫は、参考書を買うらしい。それを二人に見繕って欲しいと言うのだ。


 用事があるわけではないが、教室から出たい欲求があった。せっかく雨もあがっている。


 広希は、茂と共に同意し、教室を出た。



 

 友達と食事を終えた早紀は、自身の席へと戻り、空になった弁当箱を愛用のチャムスのリュックの中へと入れた。


 代わりに、リサ・ラーソンの水筒を取り出す。デフォルメされた動物の絵が描かれた、可愛らしい水筒だ。早紀のお気に入りである。


 早紀は、リサ・ラーソンの水筒を傾け、内蓋に血を注ぐ。そして、それを飲んだ。


 芳醇で濃厚な味が口の中に広がる。乾いた土に、水を撒いたかのように、たちまち全身の細胞がみずみずしく活性化する。それと同時に、下腹部から快感が波のように広がった。慣れ親しんだ、幸福の瞬間だ。


 内蓋の血を飲み干した早紀の目に、教室から友達と連れ立って出て行く、広希の後姿が映る。


 これから、購買か自販機の所にでも行くのだろう。


 早紀は、再度、リサ・ラーソンの水筒を傾け、内蓋に血を注ぐ。だが、締りの悪い水道のような勢いで、注ぎ口からは、少量ずつしか流れ出ない。やがては、完全に止まる。


 早紀は、心の中で、あちゃーという声を上げた。水筒の中の血が尽きたのだ。調子に乗って、午前中、飲み過ぎたことが祟ってしまったようだ。


 朝、来る時に買った血液飲料のペットボトルも、すでに空だった。つまり、もう手元に飲める血がなかった。


 これからどうしようかと悩む。血液飲料を買いに行こうか。まだ血は飲み足りないし、午後も必要だ。それに部活もある。さすがにもたないはずだ。


 わざわざ売店まで行かなくても、自販機で充分だ。すぐに買ってこよう。


 早紀は、リサ・ラーソンの水筒を机の上に置いたまま、席を一歩離れた。


 誰かが、自身を呼び止める。


 「やっほー。血ちょーだい」


 明日香が、無邪気な笑顔で、机の上の水筒を奪った。そして、蓋を開け、飲もうとする。


 「残念でした。もう入ってないよ」


 早紀は薄笑いを浮かべ、からかうように言う。


 明日香はそれでも、諦めず、中をチェックする。相変わらずだなと思う。


 「ホントに空っぽだ。ちぇ。飲みたかったのに」


 明日香は、叱られた子供のような悲しそうな顔をした後、水筒を早紀へと返す。


 そして、明日香は次に、ある一点へ目を向けた。つられて早紀も目を向ける。


 明日香は、隣の広希の机を見ていた。正確には、その上に置いてあるものに対してだった。


 広希が血を飲むために使っている、スタンレーの赤い水筒。


 「これ、広希のだよね。貰おうっと」


 明日香は、勝手に広希の水筒に手を伸ばした。


 「こら、駄目だって。広ちん、今いないんだから」


 早紀は、嗜める。だが、明日香は聞く耳を持っていなかった。広希の水筒を掴み、蓋を開ける。


 そして、銀色の蓋に中の血を注いだ。


 「あーあ、怒られるぞ」


 早紀は溜息混じりに呟いた。毎度のことだが、明日香の奔放さには、舌を巻く。


 「えへへ」


 明日香は、笑いながら、銀色の蓋を傾け、広希の水筒の血を一口飲む。


 直後、明日香は、咽ながらその血を吐き出した。


 「ど、どうしたの!?」


 早紀は驚いて、明日香に尋ねた。周りの生徒達も、何事かこちらを見ている。


 明日香は、口元を押さえつつ、手に持った蓋の中身をまじまじと見つめた後、言った。


 「これ、血じゃない」


 「どういうこと?」


 早紀の質問には答えず、明日香は、再度、まだ中身が残っている蓋から血を僅かばかり口に含む。そして、腐った物を食べたかのようなしかめっ面をし、首を振る。その後、それをティッシュに吐き出した。


 「トマトジュースみたいな変な飲み物だよ」


 「ええ? 本当に血じゃないの?」


 「うん」


 明日香は、銀色の蓋をこちらに差し出した。中の液体は、血の色そのもので、とても違うものとは思えない。


 試しに、少しだけ舐めてみる。酸っぱい。トマトジュースを薄めて、甘くしたような妙な味だ。断じて、家畜の血ではない。


 「本当だ」


 「でもどういうこと? 広希っていつもこれ飲んでいるんだよね?」


 明日香は、自身が汚してしまった床を、ティッシュで拭いながら、疑問を口にする。


 早紀は頷いた。


 「そのはずだよ」


 「でも、これが血じゃないってことは、どうやって、広希は血を摂取しているの?」


 明日香は、怪訝な表情で、こちらに訊いてくる。早紀は、首を傾げた。だが、一つの答えが、頭の隅に、起こり火のように生まれていた。


 床を綺麗にした明日香は、広希の通学鞄を漁り始めた。おそらく、早紀と同じ答えに至ったのだろう。


 「……」


 教師の持ち物検査のように、広希の鞄を探る明日香を、早紀は黙って見つめた、本来なら止めるべきなのかもしれない。だが、早紀も『事実』を知りたくなった。だから、体が制止へと動かなかったのだ。


 「あった」


 明日香は、広希の通学鞄から、もう一本の銀色のタイガー製の水筒を取り出した。


 明日香は、その水筒の蓋を躊躇いなく開け、中身をチェックする。


 「これはお茶だ。血じゃない」


 明日香は、断言した。そして、さらに通学鞄の中を探り、机の中まで手を掛ける。

 それら全てを調べ終わった明日香は、早紀に向かって言った。


 「広希、血液飲料を持っていないみたい。どういうことかな?」


 早紀は首を振った。


 「わからないよ」


 言いつつも、示唆される一つの事実が頭を占めていた。明日香の表情も、同じ結論であることを伺わせている。


 いつの間にか、教室中のクラスメイト達も、こちらに注目していた。隅の席で、『取り巻き』の女子生徒達と談笑していたはずの千夏も、その取り巻きと共に、こちらの動向を見守っていた。


 その時、入り口に問題の広希が、達夫達と姿を現した。


 皆、一斉にそちらに目を向けた。



 

 教室に入った途端、クラスメイト皆の視線を受けて、広希は面食らった。思わず硬直する。


 一体なんだろう。


 視線は自分に向いている。広希はそれを悟る。達夫達が後ろにいるが、視線はそちらではない。達夫達も集まった視線に硬直しているようだが、あくまで視線の矛先は、自分なのだ。


 面食らった状態で、広希は、しばらく固まったままだった。だが、ハッと我に返り、教室の中へと入っていく。このままここにいても、仕方がなかった。


 広希は、戸惑ったまま、自身の席に向かう。それに合わせて、皆の目が自分を追っていることがわかった。なぜだが知らないが、やはりクラスメイト達は自分に注目しているようだ。


 まるで犯罪者になった気分だ。驚くことに、あの千夏でさえも、こちらを見つめていた。


 広希が、自身の席に近付いた時、そこに早紀と明日香がいることに気が付く。早紀は隣の席だが、自分の席ではなく、広希の席にたむろっているようだ。


 二人共、神妙な顔をしていた。


 「どうしたの?」


 広希は、二人に問いかける。何か、嫌な予感がした。背後に付いてきている達夫達は、無言だった。


 答えたのは、明日香だった。


 「ねえ、広希、血液飲料ってどうしているの?」


 「え?」


 明日香の思いがけない質問に、広希の目が点になる。どういうことだろう。


 「どうしているって、普通に飲んでるよ」


 「これに入っているやつ?」


 明日香は、広希の机の上にある、スタンレーの赤い水筒を指で指した。


 「う、うん」


 次第に、鼓動が早くなっていくのを、広希は自覚した。確か、水筒は机の上に出したままだった。そう心掛けたからだ。もしかして……。


 そして、明日香は、衝撃的な言葉を口にした。


 「嘘でしょ。これ、血じゃなかったよ」


 広希は、自身の顔から、血の気が引くのがわかった。足が震える。


 すぐに理解した。明日香は、勝手に飲んだのだ。梅子が作ったフェイクの血を。


 「どういうこと?」


 後ろにいる達夫が、状況を把握出来ず、困惑した声を上げた。


 「さっき、広希の水筒の血を飲んだら、血じゃなかったの」


 「それが?」


 「つまり、広希は血液飲料を飲んでいないってこと」


 「あ……」


 明日香の説明を受け、達夫と茂は理解を示したようだ。つまりは、『非感染者』である可能性を広希に見出したのだろう。


 二人は、様々な感情が入り混じった表情で、こちらを見る。


 広希は唾を飲み込んだ。何か言わなければ。そう思うものの、何も思い浮かばない。


 明日香は、なおも追及の手を緩めなかった。


 「ねえ、広希、血をどうしているの? まさか、飲んでいないの?」


 広希は、慌てて首を振った。


 「そ、そんなわけないよ。飲んでいるよ。もちろん」


 広希はようやく声を出したものの、掠れていた。ますます疑惑を深めるかもしれない。


 「じゃあその血はどこにあるの?」


 「もう一本水筒があるから、そこに……」


 「それはお茶でしょ? どうして嘘をつくの?」


 明日香は、広希に詰め寄った。明日香は小柄であるため、自然に視線を下げなければならない。


 上目遣いの明日香の瞳と目が合う。それは、肉食獣のように、光を放っているように見えた。獲物を狙う、鋭い視線。


 思わず、広希は、目を逸らした。そして、教室中の生徒が、固唾を飲んでこちらの展開を見つめていることに気が付く。皆、興味津々の様子だ。それは、達夫達も、早紀も同様だった。


 広希は、混乱しそうになる頭を必死に働かせ、上手い言い訳を模索する。


 しかし、先に明日香が、死刑宣告のように、決定的な言葉を言い放った。


 「広希、あなた非感染者でしょ?」


 息が詰まる。心臓が跳ね上がり、バクバクと音を立て始めた。


 落ち着け。ここで、混乱しては、認めているのも同然だ。あくまでも、冷静に。


 広希は、小さく息を吐いて、言った。


 「違うよ。何でそうなるんだよ」


 「だって、そうとしか……」


 「誤解だよ。その水筒のやつは、健康のためにお婆ちゃんが持たせてくれたやつ。漢方のお茶。今日だけ入れてきたんだ」


 「さっき、嘘ついたのは?」


 「嘘じゃなくて、間違えただけ」


 「じゃあ血はどうしているの?」


 「普段は、その水筒に入れてたけど、今日はペットボトルを買って飲んでたんだよ。それが、もうなくなって、買わなきゃって思ってた所」


 「……」


 苦しい言い訳だと自分でも思う。明日香も、とても微妙な顔をしている。信じていないぞと、その顔は物語っていた。その上、早紀も問題だ。午前中のやりとりを覚えているのならば、今の言葉が嘘だとわかるはずだ。幸い、早紀は、忘れているのか、口を挟む気配はなかったが。


 何はともあれ、押し通すしかない。


 「まあ、だから、全て誤解だってこと。ちゃんと僕は血液飲料を飲んでいるんだよ。考えすぎ。第一、人の物を勝手に飲むのは失礼だよ」


 広希の批判に、明日香は頷いた。ツインテールの髪が揺れる。そして、こちらに、微笑んだ。


 「そう。ごめんね」


 納得してくれたのだろうか。意外にもすんなりと信じて貰い、広希は、面食らう。心の中で、胸を撫で下ろす。


 明日香は、言った。


 「なら、感染者だと証明するために、これを飲んで」


 明日香は、家畜の血が入ったペットボトルをこちらに差し出した。


 一瞬、頭の中が真っ白になる。眩暈を覚えた。まずいぞと、心の中で、声がする。


 広希は、手を明日香の目の前で、ひらひらさせた。


 「悪いけど、今は飲みたくないんだ。いらないよ」


 「そんなこと言うから、疑われるのよ。一口でいいから飲みなさい」


 明日香は、強引にこちらにペットボトルを押し付けた。広希は、仕方なしに受け取る。


 ペットボトルは、未開封だった。おそらく、明日香自身のものだろう。こうして自分のものを持っているくせに、人の血液飲料を飲もうとするのだ。明日香は。


 広希は、ペットボトルを持ったまま、硬直していた。皆が見ている。広希の額に、汗が滲み始めていた。


 「どうしたの? 早く飲みなさい。感染者なんでしょ?」


 明日香が、鋭い目を向け、責め立てる。


 広希は、腹を括った。もう飲むしかない。我慢して、一口飲むのだ。


 以前、血を飲んだのは、随分前だった。その時は、あまりの不味さに思わず吐き出してしまった。だが、今なら大丈夫かもしれない。あの時の味を覚えているのだ。覚悟して飲めば、耐えられるはずだ。いや、耐えなければならない。耐えなければ、非感染者だという事実が、判明してしまう。そうなれば、学校生活は終わりだ。


 「わかったよ」


 広希は、そう言い、ペットボトルのキャップを開ける。手が震えていることを悟られないように、注意した。


 これはただ、飲めば良いというものではない。無理して飲んでいるのを悟られては、元も子もないのだ。あくまで自然に、出来れば美味しそうに飲む。それこそ、感染者がいつも血を摂取しているように。


 出来るはずだ。所詮は血だ。我慢して飲むことなど容易いはず。


 広希は、意を決して、ペットボトル内の血を口の中に流し入れた。


 口の中に海水のような塩辛い味と、魚の内臓のような生臭い味が広がった。鉄錆に似た、むせる臭いも、鼻を貫く。あの時の、味だ。


 広希は堪らず、血を吐き出した。そして、床に手を付き、大きく咽る。まるで吐血したかのように、目の前の床に、血が広がった。


 飲む所の話ではない。口に含むことすら不可能だった。血液というものは、それほど、非感染者にとって、体が拒否をする物質なのだ。


 「やっぱり……」


 うな垂れたままの頭上から、明日香の呆然とした声が聞こえる。首筋に、教室中の、熱を帯びた視線が集中しているのがわかった。


 広希は、顔を上げることが出来なかった。

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