第一章 いつもの朝の光景

 割れた鐘のような音が、辺りに響き渡っている。目覚まし時計が鳴っているのだ。


 広希がそう気付いた時には、脈絡のない夢から現実に引き戻された後だった。


 広希は布団に潜り込んだまま、手だけを伸ばして、ベッドサイドに置かれた目覚まし時計を止めた。直前まで見ていた夢は、その時点で消滅し、残滓すら残っていなかった。嫌な夢だった気がするが、もう思い出せない。


 広希は、布団の中で、身じろぎを行う。


 時計盤を見なくても、今の時刻はわかっていた。タイムリミットより、少しだけ早めの時刻だ。もうちょっとだけ、眠ることが出来る。この時間こそが、一日の中で最も尊いものではないかと思う。


 広希は毛布を掛け直し、再び目を閉じた。途端に、暗幕のようなまどろみが覆い被さってくる。


 だが、すぐに目を開けた。階下から、自分の名を呼ぶ、祖母の梅子うめこの声が聞こえたからだ。


 広希は生返事をし、布団の中で、大きく伸びを行った。このまま寝続けていれば、やがて梅子は、この部屋まで突入して来るだろう。見られて不味いものが部屋にあるわけではないが、大切な聖域なのだ。可能な限り、家族に部屋の中を侵されるのは遠慮したい。


 ここは、素直に起きるしかなかった。


 広希は、億劫な気持ちを振り払い、何とかベッドから降りる。そして、ゾンビのように緩慢な動きで、窓際へと行き、カーテンを開けた。


 目に飛び込んできた強い光に、広希は思わず目を細める。十月の秋口の、少し強めの朝日だ。まだ暑さの残るその太陽光が、広希の全身を包む。


 今日も残暑は強いようだ。


 広希は、窓際を離れ、部屋を出た。


 階下へ降り、トイレを済ませてから、居間へと入る。居間のテーブルには、すでに朝食が並んでいた。ベーコンエッグに、焼き鮭。そして、ご飯と味噌汁。オーソドックスなメニューである。


 これらは全て、梅子が作ったものだ。


 「おはよう、おじいちゃん」


 広希は、大柄な体を椅子に沈めるようにして、先にテーブルに着いていた祖父の克己かつみに、挨拶を行った。


 「おはよう。広希」


 克己は観ていたテレビから顔をそらし、広希の方を向いた。克己の顔には、熊の人形のような、柔らかな笑みが浮かんでいる。


 広希は、克己のこの笑顔が好きだった。大柄な体とは正反対のイメージである、温厚な性格が作り出す優しい表情だ。目にするだけで、他者は、その人柄の良さを感じ取ることが出来るだろう。


 広希は自分の椅子に座る前に、キッチンにいる梅子にも声をかけた。


 「おばあちゃん、おはよう」


 対面型のキッチンの死角から、梅子が、ひょっこりと顔を出し「おはよう広ちゃん」と微笑んだ。大柄な夫とは対照的に、梅子は小柄だった。身長が足りずに、吊り戸棚の中の物をいつも克己に取って貰っているほどだ。


 梅子の手元は、カウンターがあるため、完全には見えない。だが、箸を持つ手がちらりと見えたので、弁当を詰めているのだとわかる。


 「先に座って、食べててね」


 「うん」


 梅子の言葉に従い、広希は椅子に座った。


いただきます、と声に出して、朝食を食べ始める。克己も同じようにいただきますの言葉を口にし、朝食を口に運ぶ。


 しばらく食事を続けていると、梅子がキッチンから出て来た。手には、広希愛用の弁当箱が入ったランチパックと、水筒を持っている。


 水筒は二本あった。銀色のタイガー製の水筒と、取っ手が付いた、赤い色のスタンレーの水筒。


 「お弁当と水筒、ここに置くね」


 梅子は、広希にそう声を掛け、カウンターに弁当箱を置いた。そして、梅子は、さらにキッチンから、自身が普段使っている湯飲み茶碗を持って来て、テーブルの隅に置く。それから、梅子はテーブルへと着いた。


 少し時間が経ち、そろそろ、広希が朝食を食べ終わる頃だった。


 「ごめんね、広希ちゃん」


 申し訳なさそうに梅子は呟くと、先ほどテーブルの隅に置いた湯飲み茶碗の中身を、一気に飲み干した。


 「おい、広希の前だぞ」


 克己が、咎める口調で声を上げた。


 「ごめんなさい、広希ちゃんが出かけてからって思ったけど、我慢できなくて」


 そう言った梅子の、皺だらけの唇は、トマトジュースを飲んだ時のように、赤く染まっていた。


 広希はすぐに悟る。家畜の血を飲んだのだ。


 広希の視線の先に気付いた梅子は、さっとティッシュペーパーでそれを拭い去った。


 居間に、若干の気まずい空気が流れる。テレビの音声のみが、響き渡っていた。


 広希はその空気をかき消すように、穏やかな声で言う。


 「気にしなくていいよ。おじいちゃんも遠慮せずに飲んで」


 克己は笑って答えた。


 「心配するな。広希が来る前に飲んだからな。しっかりと」


 湯上りの牛乳を飲むように、克己は腰に手を当てて、あおる仕草をした。それがひょうきんだったため、広希は小さく笑った。梅子もつられて笑う。


 少し、場が和んだ。


 今年で二人共に七十歳を超える祖父母は、、好血病の感染者であった。


 克己はかつて、県庁勤めの公務員だったが、今は定年退職している。梅子は、ずっと専業主婦だ。


 広希の両親が事故に遭い、亡くなったのが、広希が十歳の時だった。六年前になる。その時に、祖父母に引き取られた。以来、本当の親のように、広希を育ててくれている。二人共に感染者だが、決して広希の血には興味を示さず、周囲に発覚することのないよう、常に取り計らってくれていた。


 広希は、そんな二人に、心から感謝の念を抱いている。感染者から守って貰っていることのみではなく、両親が亡くなり、一人となった自分に、深い愛情をもって、ここまで育ててくれたのだ。親として、人として、とても尊敬出来る人達だった。


 広希は顔をテレビの方へと向けた。画面には朝のニュース番組が映っている。日本のどこかにあるコンビニエンスストアに、強盗が入ったらしい。女優上がりの綺麗なニュースキャスターが、神妙な面持ちで事件の解説を行っていた。


 やがて、画面はコマーシャルに切り替わった。


 新発売の、飲料水らしきコマーシャルが流れる。売り出し中のティーンアイドルが、媚びるような笑顔で、ペットボトルを持ったまま、ヒップホップダンスを踊っていた。その後、美味しそうに中身を飲む。ペットボトルの中身は、熟れた苺のように赤い。


 それは、家畜の血であった。こういった商品は、一般的に『血液飲料』と呼ばれている。


 その新発売の血液飲料は、牛や豚など、メジャーな家畜の血ではなく、馬の血を使った新しいものらしい。また、それを密閉するペットボトルの構造も、従来とは違い、工夫しているので、これまで以上に、高い鮮度を維持したまま飲めるという商品のようだ。


 好血病の感染者が、世界中に溢れるようになってから、このように、血を宣伝するコマーシャルが増えた。車や食品、アルコール飲料といった「普通」のコマーシャルも当然ある。その中で、ウィルスが正常な細胞を侵食するように、徐々にその数が増していったのだ。


 血液飲料は、感染者にとっては、必須の製品だ。今や、需要は非常に高く、市場経済の一つとなっている。そのため、それに纏わるコマーシャルも豊富に打たれており、今では、血液飲料のコマーシャルを観ない日はなかった。テレビのみではなく、電車の吊り広告や、雑誌の通販ページなどにも、多岐に渡り、宣伝されている。


 広希自身は、感染者ではないため、必要のない情報だった。当初は嫌悪感があり、血などという生々しいものを頻繁に目にしたくはなかった。ましてや、それを人間が摂取するのだ。恐怖感すらあった。


 だが、祖父母を始め、回りの人間のほとんどが、感染者になったことで、目にする機会が増大し、今では随分と恐怖心は薄れていた。


 コマーシャルも同様に、頻繁に目にすることで、日常化し、気にならなくなった。感覚が慣れた、といってもいいかもしれない。


 現在では、コマーシャルに限らず、先ほどの祖母のように、近くにいる人間が血を飲もうとも、動揺せずに、眺めることが出来ている。また『合わせる』ことも容易に行えるようになり、私生活での不安やストレスは、随分と減っていた。


 「ごちそうさま」


 朝食を終え、広希は手を合わせてそう言った後、席を立つ。空になった茶碗類をシンクに置き、先ほど梅子がカウンターに置いた弁当箱と水筒を共に持ち、二階の自室へと戻った。


 登校の準備を終え、玄関に向かう。通学靴を履いていると、背後から、梅子の声が掛かった。


 「広ちゃん、水筒忘れずに持って行ってる?」


 「うん。大丈夫。しっかり鞄に入れたよ」


 広希は、鞄をポンポンと叩きながら、明るく答えた。


 忘れるわけがない。特に赤い水筒は、自分の身を守るために必要な道具だ。そのために、以前、克己が一緒に買ってくれたのだ。


 靴を履き終え、広希は立ち上がる。


 「行ってきます」


 広希は、梅子にそう言い、扉を開ける。梅子の行ってらっしゃいの声を背中で受けながら、広希は玄関を後にした。



 

 秋に入ったとはいえ、まだまだ日差しは強かった。制服も、まだ半袖姿が続きそうだ。


 家を出た広希は、住宅街の中を通学路に沿って、ゆったりとしたペースで歩いていた。余裕を持って出てきたので、急ぐ必要はない。同じく登校途中の小学生の一団が、はしゃぎながら真横を通過して行く。


 広希が住んでいる祖父母の家は、千葉県木更津にある祇園地区の住宅街に建っていた。バブル崩壊からの一連の流れで、値崩れを起こしたところを買ったのだと、以前克己は自慢げに語っていた。


 その頃から存在する古参の住宅街なので、やや古めかしさが感じられるのだが、広希は素晴らしい街だと思っている。コンビニやスーパーマーケットも近場にあり、綺麗に整備された公園もある。広希が祖父母の家に引き取られた当初は、よくその公園に行き、遊んでいた。それで友達を作ることも出来た。


 広希は、歩きながら、この土地に引き取られた時の事を思い出していた。世界的に好血病が蔓延し始めたのも同時期だった。感染源及び原因は不明。感染者との接触の有無に関わらず、ある日突然、何かに取り憑かれたかのように、好血病に感染してしまうのだ。


 昨日まで何でもなかった知り合いが、翌日には感染者となり、血を飲むようになる――。


 それが頻発していき、やがて、感染者であることが当たり前になってしまった。最初の感染者が現れてから、そうなるまで、三年はかからなかったと広希は記憶している。そして、それからは、法整備や、市場経済の調整などが行われて行き、感染者が生活できるよう社会が変化したのだ。パラダイムシフトが起きたような形である。


 多くの医者や科学者が研究を行ったが、ワクチン開発には至らなかった。原因は、好血病のウィルスが、容易に変異するためであるらしい。その点は、HIVウィルスに非常に酷似しているようだ。そして、いくら変異しようとも、症状に変化はなく、依然変わらず、血を求める欲求は存続していた。


 摩訶不思議なウィルスに、医者や科学者達は、頭を抱えた。先の見えない暗闇の中を歩いているようだという。しかし、それでも諦めず、今でも研究を続けている。自らも感染し、血を飲みながら。


 広希は祇園小学校の横を抜け、木更津高専がある通りに出る。私服姿の専門生徒に混ざりながら歩く。


 広希は、手持ち無沙汰にズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。ロックを解除し、SNSのメッセージや、メールの確認をする。それらが終わってから、スマートフォンをポケットに戻した時だった。


 「よお、おはよう」


 すぐ後ろから力強い声が掛かった。振り向くと、部活用の黒いショルダーバッグを肩に掛けた長身の男が背後に接近していた。


 クラスメイトの木橋達夫きばし たつおだった。いつの間にか肉薄していたようだ。


 「おはよう」


 広希は、笑顔で返す。


 達夫は広希の隣に並び、一緒に歩き出す。こうして達夫と並ぶと、達夫の長身が浮き彫りになる。


 達夫は広希が通う高校のクラスメイトだ。家も近所であり、広希が千葉に越してきてから、初めて仲良くなった友人だった。腐れ縁と言うのか、中学高校と、一緒であり、また同じクラスになることも多く、交流は深い。


 達夫は色白で、整った綺麗な顔立ちである。その上、長身なことも相まって、女子に人気があった。また、その長身を生かして、センターのポジションを任せられている。二年でありながら、主力のようだ。


 「今日は朝練なかったの?」


 最近はほぼ毎日、早朝練習に出ているのだと、前に達夫が語っていた事を思い出し、広希は訊く。


 達夫は、ショルダーバッグを掛け直しながら、首を振った。


 「今日はバスケ部とバトミントン部が使う予定でさ。次に回されたよ。その二つ、試合が近いからさ」


 達夫は、整った顔を残念そうに歪め、そう言った。


 「そうなんだ」


 「まあ、俺らも試合が近いっちゃ近いけど」


 「試合あるんだ。頑張ってね」


 広希の言葉に、達夫は小さく笑った。


 「そういうお前も何か部活に入れよ。楽しいぞ」


 達夫は部活動の催促を行う。現在、広希は部活に入っていなかった。興味がある部活動はあるのだが、入れない理由があった。


 広希は、別の言い訳を伝える。


 「おばあちゃん達の手伝いで忙しから無理だよ」


 「ああ、そうだったな」


 達夫はバツが悪そうに頭を掻く。


 「大変だな。そりゃ部活動どころじゃないもんな」


 達夫は気遣うように言う。達夫は、祖父母とも面識があり、広希の親がもう他界していることも知っている。気遣いも見せ掛けではないのだろう。


 「うん」


 広希は頷く。実際は、別に理由があるので、嘘をついていることになる。少しだけ、悪い気がした。それでも、本当のことを教えるわけにはいかないので、目を瞑るしかなかった。


 その後、二人は、人通りが増え始めた中、他愛もない話をしながら、学校へと向かった。



 

 広希の通う私立江府高校は、木更津駅に程近い、文京区の小高い丘の上にあった。小高いとは言っても、自転車を漕ぎながらでも楽に登れるほど坂は緩く、標高も、造成された坂道の入り口から高校まで、五分も登れば、辿り着ける程度には低かった。もっとも、真夏となると、充分、地獄になる条件は揃っているのだが。


 十月である現在は、そのデッドゾーンを抜けているので、問題はなかった。しかし、それでも、日差しと残暑のコンボで、少し汗ばんでしまう。


 広希と達夫は、坂を登り切り、他の生徒に混ざりながら、校門を通過した。


 広希達が自分達のクラスである二年三組の教室に辿り着いた時には、広希は、汗を随分とかいてしまっていた。達夫を見ると、飄然としている。日頃から、体育会系として汗を流しているお陰だろうか。


 教室に入り、広希は、汗をハンカチで拭きながら自分の席に座る。広希の席は、教室の前方、窓際に位置しているため、朝日に照らされた校庭が良く見えた。


 通学鞄の中の物を机の中に入れていると、隣の席の諸井早紀もろい さきが登校してきた。チャムスのカラフルなリュックを背負っている。


 「やっほー広ちん、まだまだ暑いねー」


 リスを思わせる大きな目をクリクリさせながら、早紀は明るく挨拶を行う。


 「おはよう、諸井さん。まだ暑いよね。汗かいちゃった」


 「汗までかくとは広ちんは精進が足りないね。帰宅部なんてやらずに我が運動部に来なさい。鍛えてあげよう」


 早紀は広希の肩をポンポンと叩き、殊勝な物言いをする。健康的なショートカットの髪が、少し揺れていた。


 早紀の天真爛漫な言動に微笑みつつ、広希は答えた。


 「達夫にもさっき勧められたよ。家の事情があるから部活はちょっと無理かな。それに、走るのは苦手だし」


 「そうかー。家の事情なら仕方がないね。まあ部活をやれるようになったら、何時でも来なさい。運動部は来る者拒まずだよ」


 早紀は、リュック類を机のフックに掛けると、そう言い残し、自分の仲良しグループの元へ駆け寄って行く。


 その背中を見送った後、広希は再び、通学鞄の中身を机の中に移す作業に戻った。


 それが終わり、スマートフォンで検索サイトのニュース欄を流し読みしていると、達夫が広希の席にやって来た。面白い漫画を見つけたような表情をしている。


 「さっき、聞いたけど、隣のクラスの男子が、千夏ちかに告ったみたいだぞ」


 千夏、という名前を聞き、広希の脳裏に、可憐な女子生徒の姿がよぎった。


 「また? 本当に大里おおさとさん、モテるんだね」


 広希は、感嘆の溜息をついた。これは本音である。


 達夫が名前を口にした大里千夏は、広希と同じクラスの女子生徒であり、全校で一位、二位を争うほどの美少女だ。白薔薇のような、可憐で清楚な雰囲気を纏っている。成績も常に学年上位に入っており、また、親が医者であり資産家らしく、非の打ち所のない、才色兼備の『お嬢様』といったイメージの女子だ。


 広希は、教室の中を見渡した。始業時間が迫っているのに、まだ千夏は登校してきていないようだ。千夏は、いつも早めの登校なので、今日は休みなのかもしれない。


 「それで、結果は?」


 広希は、先を促す。達夫は、聞かなくてもわかっているだろう、という顔をした。


 「やっぱり断ったみたいだぜ」


 「まあ、いつものことだね」


 千夏はこれまでに、上級生も含め、何人もの男子生徒から、告白を受けている。しかし、その全てをことごとく断っていた。その中には、女子生徒から、絶大な人気を誇る男子生徒もいた。イケメンで成績もよく、バスケ部のエースであるという、今時、少女マンガでも使わないステレオタイプのような男子である。およその男子生徒は、この男なら、千夏を取られても仕方がないと諦めることが出来るほど魅力があった。そして、何より、二人はお似合いだと思われた。


 だが、千夏はあっさりと、その男を振った。話によると、その男子生徒は食い下がったようだが、全く取り付く島もなかったらしい。  


 千夏は、上級生に限らず、下級生からも告白を受け、一部では、教師からも口説かれたことがあるとの噂もあった。しかし、その全てを跳ね除けていることから、恋愛そのものか、あるいは男に興味がないのでは、との話も出ていた。


 いずれにせよ、千夏の心を射抜く人間は今だ現れず、どんな人物がその隣を共に歩くようになるのか、大勢の生徒は興味が尽きなかった。


 「おはよー。何の話してんの?」


 ふいに二人へ声が掛かる。声の方を見ると、桑宮茂くわみや しげるが歩み寄ってきていた。


 広希は、チラリと教室内の時計に目を走らせる。もう始業時刻ギリギリだ。


 「おはよう。遅かったね」


 広希の言葉に、茂は、垂れ目気味の柔和な顔を歪め、悲痛な表情を作った。


 「それがさー、昨日から家庭教師が付いちゃって、遅くまでやってたよ」


 「また家庭教師、増えたのか」


 達夫は呆れた声を出す。


 「うん。親に増やされた」


 茂は溜息混じりに呟く。


 茂の両親は、茂の勉学に熱心であり、塾や家庭教師による学習の機会を数多く設けていた。特に、二年になってからは、数が増え、このまま三年になると、自由が全くなくなるのではないかと、茂は嘆いている。


 しかし、その甲斐あってか、茂の成績は、相当高く、学年で、首位をキープしていた。


 「それで、何の話してたの?」


 茂は、悲痛な顔から一変して、好奇心を露わにした表情に変わった。ある程度、内容は予測しているようだった。


 「千夏の話だよ」


 達夫が答える。


 「ああ、二年一組の男子が告ったやつ?」


 「そう。よく知っているな」


 「昨日、隣のクラスのやつが、LINEで教えてくれたんだ。だけど、千夏さん、相変わらず、モテモテだね」


 茂が感心したように、そう言った時だった。


 教室の入り口で、ざわめきが起こった。


 広希は反射的にそちらの方を向く。そこに、教室へと入って来る、一人の女子生徒の姿があった。


 今まで、三人の話題に上がっていた、千夏だった。


 「おはよーギリギリだったねー」


 「休みかと思って心配したんだよー」


 「間に合ってよかったね」


 取り巻きの女子達の声が、千夏へ次々に掛かる。皆、不安な感情に包まれた声だった。


 「少し事情があって、遅れたの。心配掛けてごめんなさい」


 千夏は、凛とした、清流のような声で言った。透き通った、美しい声質である。


 千夏は、他にも声を掛けて来るクラスメイト達に、笑顔を振り撒きながら、自分の席に向かう。シルクの如き綺麗な長い髪をなびかせ、日本人形のように整った清楚な顔と、魅惑的なスタイルをもって歩く千夏を見ると、まるでアイドルのファッションショーを見学しているかのような気分になる。


 「可愛いよなー。うっとりするよ」


 広希と同じように、千夏へ視線を向けていた達夫は、心酔したような吐息を漏らした。


 「うん」


 茂も同意する。


 千夏が、優雅な雰囲気を纏いながら、教室後方にある自分の席へ着いた頃に、始業のチャイムが鳴った。



 

 午前中の授業が終わり、昼休みが始まった。広希は、達夫や茂と共に、広希の席に集まり、弁当を広げていた。


 広希が食べているものは、梅子が作った弁当である。冷凍食品と手作りが半々であるが、広希の嗜好を熟知しているようで、祖母の弁当を不味いと思ったことがなかった。


 達夫も同じように、家から持ってきた弁当を口に運んでいた。スポーツジャグを側に置き、中の麦茶らしきものを時々飲んでいる。茂の方は、両親が共働きのため、弁当はなしで、購買で買ったパンを昼食として摂っていた。飲み物も、購買で買った紙パックの飲料水である。


 広希達三人は、いつものように、ゲームやテレビの話をしながら、食事を続けていた。時折、冗談やからかいを交えながら、笑い合う。空っぽだが、とても楽しい、日常の風景だ。


 やがて、食事を終えた達夫は、空になった弁当箱を片付け始めた。そばに置いた通学鞄の中に、その弁当箱を突っ込む。そして、入れ替えるように、そこから、水筒を新たに一本取り出す。今まで使っていたスポーツジャグとは違い、ストレートの黒い水筒だ。


 達夫は、その水筒をスポーツジャグの横に置き、蓋を開けた、


 蓋がコップになるタイプの水筒であるため、達夫は、蓋に水筒の中身を注ぐ。広希がいる位置から見ても、注がれている液体が赤色だということがわかった。


 である。教室の蛍光灯の光を受けて、ワインのように煌いていた。


 達夫は、その血を美味しそうに飲んだ。


 飲み干した達夫の顔は、非常に満たされたものになっていた。


 広希もそれに合わせ、自身の通学鞄から、スタンレーの赤い水筒を取り出した。達夫の水筒と同じように、蓋がコップになるタイプである。


 広希は、水筒に付いている取っ手を持ち、傾けて、中の液体を注ぐ。赤い色の液体が、蓋に満ちていく。蓋自体の色は、銀色であるため、周りから見ても、赤色の液体を飲もうとしていることは、はっきりと判別が付くはずだ。


 広希は、その赤色の液体を一気にあおって、飲み干した。黒酢を薄めたような、甘酸っぱい味が口の中に広がる。


 これは、もちろん血ではなかった。梅子お手製の血のフェイクだ。トマトジュースと、砂糖を混ぜ合わせたものらしいが、正直、あまり美味しくはなかった。トマト特有の、酢が効いたような酸味があり、それと知らずに飲んだら、必ずむせてしまうだろう。


 これらは、広希が非感染者だと発覚しないためのカモフラージュだった。感染者と同じように生命線である血を摂取している。そう周囲に思わせる必要があった。


 感染者になると、定期的に血を摂取しなければならない。しかし、非感染者である広希はその必要がないため、集団の中で生活していると、自ずと発覚の恐れがあった。それを避けるためのアクションであった。


 それ自体は思ったより簡単で、感染者と同じスパンで、フェイクである血を飲めばいいだけなのだ。


 お陰で、これまで発覚したことはなかった。


 血を飲み終わった達夫が、ストレートの水筒を鞄にしまいながら、口を開いた。


 「そう言えば、新製品の血液飲料が発売されるみたいだぜ。馬の血らしいけど、美味しいのかな?」


 「ああ、今、CMでやっているやつ? どうなんだろうね」


 広希は、水筒の蓋を閉めながら、答えた。


 「明日香あすかが買って飲んでたらしいけど、あまり美味しくないみたいだよ。クセがあるらしい」


 茂もパンを食べ終え、血を飲んでいる。茂が飲んでいる血は、紙パック製のものだ。購買で買ったのだろう。


 その紙パックは、中身が血であることが想像出来ないほどの、ジュースのようなカラフルなデザインだ。


 「そうなのか。確か、前にも不味い商品売り出してたよな。あの会社、すぐに消える新商品ばっかり作っている気がする」



 達夫は、以前は日本の大手ビールメーカだったが、パンデミック後に、血液事業に参入した会社の名前を上げた。


 広希は同意する。


 「奇をてらえばいいってわけじゃないのにね。前に発売されていたやつも、野生動物の血を混ぜたものだったよね。臭みが強くて、口に合わなかったよ」


 広希は、インターネットやテレビで得た情報を元に、話を合わせていく。発覚を避けるため、血液商品の名前や外観、味の特徴も調べ上げ、知識として蓄えているのだ。


 「俺はクセがある血は好きだよ」


 茂はそう言う。口の端に、血が付着しており、喀血したような様相を見せていた。


 広希は、そこから目を逸らし、残った弁当を平らげる。そして、もう一本用意してあった銀色の水筒から、ウーロン茶を一口飲む。


 「まあ、好みは人それぞれだからな」


 達夫が言う。


 一言に感染者と言っても、それぞれ、血に対する好みが存在した。その辺りは、通常の飲食物と同じ感覚だろうと思う。


 「広希はどんな血が好きだっけ」


 茂が血液飲料を飲みつつ、さりげない調子で質問をしてくる。


 広希は、ほんの少し心の中で身構えながら答える。


 「あまりクセがない奴が好きかな。いつも飲んでいるやつもそうだし」


 無難な回答。これがベストだと学んでいた。あまりマイナーな商品名をあげたり、具体的に説明すると、話題が進展し、ぼろが出る恐れがあった。薮蛇は避けなければならない。


 「あー広希らしい」


 茂は、納得したように頷いた。


 そして、達夫が別の話題を持ち出し、血液飲料の話は終わる。


 広希は、会話をしながら、若干ホッとする。


 慣れているとは言え、それでも血液飲料や感染者の話題が出るたびに、緊張があった。会話からも発覚のおそれがあるからだ。


 とは言え、過度に警戒する必要もなかった。そもそも、周囲の者は、完全に広希を感染者だと思い込んでいる。ちょっとしたことでは、疑惑をもたれないはずだ。第一、非感染者の数自体も、減少の一途となっている。まさか、こんな近くに、非感染者がいるとは想像すらしていないだろう。


 そういった先入観と、日頃の努力のお陰で、随分と、発覚のリスクは下がっているはずだ。


 広希は達夫達と笑い合いながら、再度、スタンレーの水筒から、フェイクの血を飲んだ。




 昼休みが終わり、午後の授業が始まった。


 午後一発目の授業は非常に気だるく、眠気を誘うものだ。おまけに、数学であるため、思考停止に拍車をかける。


 広希は、眠気を紛らわせようと、教師の目に注意しながら、そっと教室を見渡した。自身の席は、前方であるため、後ろに首を回すだけで、全体をよく把握出来るのだ。


 他のクラスメイト達も、広希と同じような気分らしく、徹夜明けのような眠たそうな目で、授業を受けていた。中には、うつらうつらと船を漕いでいる者もいる。


 視線を前方へ戻そうとした瞬間、隣の席に座っている早紀と目が合う。早紀は、水筒の中身を飲んでいた。


 授業中の飲食は禁止されているが、血は別だった。感染者にとって、必須の行為だからだ。そのため、早紀が飲んでいるものは、血液飲料ということになる。先ほど教室中を見渡した時も、同じように、血液飲料を飲んでいる者が、何人かいた。


 早紀は、血液飲料を飲み終わると、水筒をしまいながら、こちらに軽く目で問いかける。そこには「眠いね」との意味が込められていることに気が付く。広希は、小さく笑みを浮かべつつ、頷いた。 


 早紀とのアイコンタクトが済んだ後、広希も、スタンレーの水筒を取り出し、中身を飲んだ。血を飲むアピールは、忘れがちになるため、こういったことをきっかけに、行わなければならない。


 フェイクである血を飲み終わった広希は、再び授業へ意識を向ける。やがて、五時間目の授業が終わり、休み時間に入った。


 六時間目が始まるまでの短い休み時間、広希は、自身の席で、達夫達と談笑を行っていた。今回は、近くの席にいる早紀も混ざっている。


 話題は、今人気のアイドルの話だ。どこぞのお笑い芸人との熱愛報道が、つい先日報道されたばかりだった。


 そのお笑い芸人は、お世辞にも恵まれた容姿とは言えず、また、特に売れっ子というわけでもなかった。一方、アイドルの方は、テレビや雑誌に引っ張りだこである、大人気の美女なのだ。


 そのような不釣合いのカップルがなぜ誕生したのか、皆は不思議がった。


 広希も同じだった。もっとも、人の好みなので、他人にはわからない魅力でもあるのだろうと、想像はしていたが。


 しかし、その答えを、達夫は知っているようだった。


 「その芸人、実は非感染者だって噂があるぞ」


 達夫が口にした思いがけない単語に、広希はつい達夫の顔を見つめた。


 「えーそうなんだ。知らなかった」


 早紀は口に手を当て、目を丸くする。その目には、キラキラとした輝きが入り混じっていた。


 好血病の感染者は、本能的に非感染者の血に魅力を覚えるらしいのだ。


 「なるほど。だったら、わかる気がするな」


 茂も理解したように、頷く。温厚そうな垂れ目の奥に、早紀と同様の、獣のような輝きが生じているのを、広希は見逃さなかった。


 「いいなー。それが本当だったら、毎日、非感染者の血を飲めるんだよね」


 早紀は、うっとりとした表情をした。大きな目が潤んでいる。


 「そうなんだよな。羨ましいよ。こっちは、非感染者なんて、もう一人も見当たらないのに」


 達夫も、アイドルを射止めた芸人ではなく、どちらかと言うと、非感染者のお笑い芸人のほうに興味の矛先が向いているようだ。生じた気分を紛らわすかのように、手に持っていた黒の水筒から、血を飲む。


 「私の五歳の甥っ子が、去年までは非感染者だったけど、もう感染者になっちゃったもんね。もう非感染者は、私の周りには、ほとんどいないみたい」


 「そうか。惜しいことしたな。血を貰えば良かったのに」


 「甥っ子だよ。そんなことしないよ」


 早紀はそう言いながら膨れっ面をした。だが、まんざらでもなさそうな顔である。そして、達夫同様、水筒の血を飲んだ。


 「広希どうした? 急に黙って」


 達夫が不意に、声を掛けてくる。広希の心臓が少し高鳴った。非感染者の話になったため、思わず黙り込んでしまっていたのだ。


 「いや、何でもないよ。僕も羨ましいなーって思って」


 広希は首を振って、弁明する。おかしな疑惑を抱かれないか不安が生まれた。


 「広ちんの近くに非感染者はいないの?」


 早紀は、何気なく聞いてくる。


 「うーん、いないかな。親戚の子も、皆感染者として生まれてきているし」


 感染者の子供は、確実に感染者として生まれてくる。先程の早紀の甥っ子は、生まれた時は、両親が非感染者であったため、子供も非感染者として生まれてきたのだろう。その後、両親、子供という順で、感染者に変貌していったに違いない。


 達夫達が言及しているように、非感染者の数は、常に、その数を減らし続けていた。今では極少数と言われている。


 とは言え、非感染者を狙った事件は、まだ時折報道されるので、非感染者は僅かなながらとも潜在しているはずである。外観から感染者、非感染者の区別が付かないため、把握が難しく、詳しく判明していないのが現状である。


 「そう言えば、広ちんって、何の血を飲んでいるの?」


 早紀が、なぜか脈絡のない質問を行う。昼休みの時、茂にされた質問と同じではあったが、なぜ急に気になったのか、訝ってしまう。


 「クセのないやつだよ。おいしくもないし、不味くもない」


 「商品名は?」


 早紀は続けて訊いた。嫌な方向に話が進んでいる気がした。


 広希は商品名を伝える。それは、このような時のために返答できるよう記憶していた商品名だ。血液飲料の中では、メジャーな部類で、誰が飲んでいてもおかしくはない。


 早紀は、頷きながら、さらに口を開いた。それは、困るお願いだった。


 「それ知ってる。私も大好き。一口ちょーだい」


 早紀は、悪戯っぽく笑い、自身のコップをこちらに差し出す。


 広希は、表情に出ないよう気を付けつつ、小さく息を漏らす。


 広希の水筒に入っている血はフェイクであるため、このまま飲ませると、偽物だと即座に判明してしまう。それは発覚の危険を大きく伴った。


 しかし、こういった時の対処も想定済みだ。今までも、何度か、持っている血液飲料を催促されたことがあるのだ。


 「ごめん。もう血がなくなったんだ。もう残ってないんだよ」


 広希は、申し訳なさそうに伝える。これで引き下がるだろうと考えた。今まではそれで問題なかった。しかし、早紀は、そうはしなかった。


 「嘘ばっかり。さっき、飲んでたじゃん」


 「その後、全部飲んじゃったんだよ」


 「嘘つきなさい。ケチな男は嫌われるぞ。ほら、さっさと飲ませて」


 早紀はしつこく食下がった。さすがに困惑した。早紀にとっては、コミュニケーションの一貫なのかもしれないが、この展開は困る。ここは何とか早紀の要求をかわすべきだった。


 広希は、頭の中で、対処法を模索した。いくつか、思い浮かんだところで、突然、早紀のそばで、声が上がる。


 「いただき!」


 早紀が手にしていた水筒とコップを、横から、誰かが奪い取った。早紀は、とっさにそちらへ顔を向ける。


 鰐口明日香わにぐち あすかだった。明日香は、ツインテールの小柄な女子生徒だ。妹のような無邪気さと、幼さを持っている。


 早紀本人の水筒を奪取した明日香は、早紀の反応などお構いなしに、中身を勝手に飲んだ。


 「あーっ」


 早紀は、抗議の声を発する。


 水筒の中身を飲み終わった明日香は、薄い唇を血で塗らしたまま、子供のような悪戯っぽい笑みを早紀に向けた。


 「もう、また勝手に飲んだな」


 早紀は拗ねたように、頬を膨らませた。もちろん、本気の非難ではなく、冗談に近い訴えだ。明日香は、よく人の血液飲料を勝手に飲む行為をする。もうお馴染みの光景だ。


 「隙がある方が悪いのよ」


 明日香は、口元の血をハンカチで拭い去り、小さな舌を出して早紀をからかった。達夫や茂が笑い、広希もつられて笑う。


 それと同時にチャイムが鳴った。達夫達は、軽く挨拶を行い、広希の席を離れていく。明日香の方は、早紀に侘びもせず、自分の席へ戻って行った。


 早紀は、ため息混じりに、自分の水筒をチャムスのリュックの中へと収めていた。広希に血液飲料を催促していたことは、すでに忘却しているようだった。


 図らずとも危険は回避出来たようだ。とりあえず安心していいだろう。


 広希がホッとしたところで、現国の若い女教師が教室へと入ってくる。


 そして授業が始まった。



 

 学級委員長の号令が木霊し、クラス全員が礼をする。午後の最後の授業が終わり、残りはSHRショートホームルームのみだった。


 広希はSHRまでの少ない時間でトイレを済ませ、教室へと戻る。席に着くと、早紀が話しかけてきた。


 「広ちん、食べる?」


 早紀は、持っていたお菓子の小袋をこちらに差し出す。一口サイズのクッキーだ。購買で予め買っていたのだろう。


 「ありがとう」


 広希は礼を言い、クッキーを一枚摘み、口に入れる。柔らかな甘みが口の中に広がった。


 「うん、おいしい」


 広希は素直に感想を伝える。


 「だよねー。今の時間、お腹が空くから、これがないと持たないよ」


 早紀は、明るく笑いながら、クッキーを口に運ぶ。そして水筒の血を飲んだ。


 広希は、それを見ながら、先ほど食べたクッキーの甘みを思い出した。同時に、かつて一度だけ飲んだ事のある、家畜の血の味も体感として思い出す。


 魚を丸ごとミキサーにかけた後、濃い海水に混ぜ込んだような、塩辛さと生臭さが入り混じった味だった。鉄錆に似た臭いも鼻につき、それを初めて口に含んだ時は、体が受け付けず、思わず吐き出してしまった。


 今、早紀はその味と、クッキーの甘い味をミックスさせながら、こうして飲んでいるのだ。豪胆な味覚に、尊敬の念さえ覚える。しかも、早紀のみならず、感染者は皆、平気でそのような飲食を行うのだ。感染者になると、味覚の造りが根本的に変わってしまうのだろうか。


 広希が頭の中で、首を捻っている内に、SHRが始まった。


 二年三組の担当教師である神谷早苗かみや さなえが、明日の行事の確認や、配り物を行う。


 神谷は、今年で二十九歳になる女性教師だ。来年で三十路を迎えるため「行き遅れ」にリーチを掛けていると生徒達から冷やかされていた。神谷自身、化粧っ気がない上、髪型も後ろに纏めただけの地味な女性だった。しかし、顔立ちは整っており、女性にしては高めの身長であるため、スタイルも良く見える。その気になったら、一人や二人、男を引っ掛ける事など容易いような魅力は持ってるように思えた。


 「最近、交通事故が多いから、気を付けて下校するように。自分達は関係がないと思わないこと」


 神谷のハスキーボイスが、教室に響き渡る。神谷は、淡々とした、冷たい印象を与える喋り方をするが、教師としてはとても真面目で、生徒の相談にも真剣に乗ってくれる親しみやすい教師だ。


 神谷の連絡事項の伝達が終わり、他に報告がないかの確認の後で、SHRが終了した。そして、神谷の掛け声による、帰りの挨拶が行われた。


 下校時間になった。


 大半の生徒は、これから部活動に勤しむのだが、広希は、帰宅部なので、帰り支度に取り掛かった。


 帰り支度を整え、広希は部活に向かう達夫や早紀に挨拶を行う。それが済んだ後、広希は、教室を出て、階段へと向かって歩く。


 途中、千夏が友達と連れ立って、廊下を歩く後ろ姿が視線の先にあった。


 千夏は、美術部に所属している。おそらくこれから、美術室へと赴くのだろうと広希は予測した。


 千夏は、清楚な笑顔を友達に投げ掛けながら、楽しそうに雑談を行っている。可憐な花を連想してしまうほどの、素敵な風貌だ。


 廊下を歩く他の生徒も、千夏に気付くと、あからさまに視線を投げ掛けていた。千夏はそんな視線には慣れっこのようで、気にすることなく、友達と談笑を続けている。アイドルのような貫禄があった。


 他のクラスメイト達も口々に言っているが、千夏は将来、アイドルを目指せそうなほどの美貌の持ち主だ。しかし、家は、医者の家系である。聞く所によると、千夏は一人娘で、他に兄弟姉妹はいないらしい。


 経営している病院を継ぐとなると、そちらの道に進むのかもしれない。千夏の成績なら、医者になるのも難しくはないだろう。


 医者か、アイドルか。その贅沢な二択を選択できる千夏のスペックに、凡人の自分には到底及びも付かない。同じクラスなのに、非常に大きな差である。もっとも、千夏と会話すらロクにしたことがないので、そもそも比べること自体、おごまがしいのだが。


 広希が、階段に差し掛かった頃に、ちょうど、視線の先の千夏達が、廊下の曲がり角に消えた。


 広希は、階段を降り、まだ人影がまばらな下駄箱で靴を履き替えると、学校を後にした。




 帰路に着いた広希は、通学路の途中にある大田区のマックスバリュに立ち寄った。飲み物を買うためである。


 江府高校は、生徒の登下校中の買い食いを禁止している。そのため、教師の目が何処かで光っていないか、注意しなければならなかった。もっとも、買い食いは全生徒、当然のように行っており、目の前で堂々と食べない限りは、教師も黙認しているのが現状である。


 それでも、一応、広希は周囲に気を払いつつ、店内へと足を踏み入れた。


 店内はクーラーが効いており、傾きかけた残暑の太陽で暖められた体を、冷気が優しく冷やしてくれる。


 広希は、間取りを把握している店内を歩き、飲料コーナーの冷蔵庫の前に立つ。多くの銘柄の中から目当ての物を取り出した。


 ふと、目に付いた隣の冷蔵庫を見る。そこには、赤色の液体で満たされたペットボトルがズラリと並んでいた。所々に、POPが飾られ『新発売』や『キャンペーン実施中』といった販促メッセージが添えられている。


 もしも、パンデミック前の、何も知らない人間がこれを見たら、最初はトマトジュースを陳列している一角だと思うだろう。だがすぐに、その数の多さに唖然とするはずだ。上下段の棚を埋めるように赤い壁が延びているのだ。他の商品よりも遥かに超えるその量に、眩暈を覚えるかもしれない。


 これらは全て血液飲料だ。感染者にとって、必需品であるため、スーパーで常に大量に販売されている。


 無論、非感染者である広希は、手に取ることはない。


 直斗は、レジに向かい、飲み物を購入した。


 入る時と同様に、周囲を警戒しながら、マックスバリュを後にする。県道二十三号線に出て、祖父母の家がある祇園の住宅街を目指す。


 下校時間直後の早い時間帯なので、歩道は、小学生や買い物袋を下げた主婦が多かった。前方を歩いている主婦が、提げている半透明のビニール袋が目に入る。そこから、赤色のペットボトルが透けて見えていた。すれ違った赤いランドセルを背負った女子小学生は、そのランドセルと同じ色をしたペットボトルを口に付け、傾けている。


 日常の風景からも、感染者は血を手放せないのだと、はっきりとわかる。手放すことは、正気を手放すことと同義らしいのだ。


 それは自分にはわからない感覚である。


 中学生の時に、保健の授業で、感染者が血を摂取しなかったら、どうなるかの映像を見せられたことがあった。ちょうど感染者の数が、非感染者の数を上回った頃だった。感染者が急激に増加しつつあり、世の中に対し、血を摂取する事の重要性を啓蒙する必要があったためだ。


 内容はホラーめいた不気味なものだった。


血を摂取しなかった感染者が、徐々に精神の均衡を失っていく様が描かれていた。まるで薬物中毒の患者のように。


 確か、その悪趣味な映像を作成したのは、農林水産省だったと思う。日本において、血液飲料及び、血液供給の家畜の管理は、農林水産省の管轄であったためだ。


 実際、感染者が、血を摂取が出来なくなる可能性は極めて低い。血液は感染者にとって、必要不可欠なため、常に過剰に近い供給がなされているからだ。


 血液に対する政府の管理は徹底しており、万一不足しても、備蓄米のように、蓄えていた血液を国民へ流通させることが可能だった。


 世界中から血液の供給が途絶えない限り、手元に届く血液飲料が消失することはないのである。


 広希は、県道から住宅街に入り、清見台へと続く坂道を登る。清見台の丘を越え、祇園地区へと入った。広希が住む、祖父母の家がある地区だ。後五分もあれば到着するだろう。


 広希は、見慣れた風景の中を歩きながら、自身の部活動のことについて考えた。


 自身が帰宅部なのには理由があった。友人達には、家の用事があると説明していたが、それはブラフだ。


 真の理由は、己が非感染者であることにあった。非感染者である広希は、感染者との接触が多ければ多いほど、発覚の危険性が高まる。それを避けるために、部活動に参加せず、帰宅部を選択しているのだ。


 祖母のたってのお願いだった。広希自身は、皆と一緒に部活動を行いたい気持ちが強かった。入りたい部活動もある。だが、これまで、広希が知りうる、非感染者が被った『被害』を考えると、祖母の心配も杞憂とは決して言えない。なにより、自分の身を案じているのだ。無下にはできなかった。


 やがて広希は、家へと到着した。


 祖父母の家は、築四十年程になる瓦葺の木造住宅だった。古めかしさが随所に表れているが、広希は、この家が気に入っていた。ポーチに建っている黒く変色している玄関柱や、色褪せた大棟など、老人の手のように、長い年月を生きてきた『証』のような物が刻み込まれているからだ。


 広希は『加柴』と書かれた表札が掲げてある門扉を通り、玄関を開けて中へと入った。


 土間に靴を揃えて脱ぎ、居間を覗く。綺麗に整えられた部屋の中で、克己がテレビを観ながら、ソファーに座って寛いでいた。時代劇の安っぽい音声が聞こえる。


 克己は広希に気が付くと、柔らかい笑みで


おかえり、と言った。寝惚け眼気味なので、うつらうつらしていたのだろう。


 「ただいま。おばあちゃんは?」


 「裏に野菜を取りに行ってるよ」


 梅子は裏庭に造ってある、小さい家庭菜園に行っているようだ。


 「おばあちゃん、今日買い物に行くって言ってた?」


 テスト前や用事が無い限り、広希は祖母の買い物に付き添っていた。歩けば十分も掛からない所にあるスーパーなのだが、荷物持ちは必要だった。大柄な克己が適任だが、克己を遮って、広希がその役割を買って出ていた。両親の代わりに、育ててくれている事に対する、せめてもの恩返しと、帰宅部であることの自己正当化のためだった。


 「多分行くと思うぞ。今日はカレーを作ると言っていたよ」


 「そう。じゃあ着替えて来るね」


 広希は、自室に行き、制服から私服に着替えると、再び居間へ入る。


 既に梅子は裏庭から戻って来ていた。手にトマトや胡瓜等、カレーに添えるであろう、サラダの材料を手に持っている。


 広希はその梅子にただいま、と挨拶をし、買い物に付き合う旨を伝えた。梅子はそれを快諾した。買い物の準備を行い、共にスーパーへ出掛ける。


 二人は十分足らずで、夕方の買い物ラッシュで、混み合っているスーパーへと到着した。


 店内で、カレーの材料を購入する際、梅子は、克己の分も含めた血液飲料を購入していた。梅子は、悪い物を見せてごめんと謝っていたが、広希は非難する気は微塵もなかった。同時に購入している食料と同じように、体に取り入れなければ生きて行けないのだ。それくらいは理解している。


 血を飲むからと言って、感染者を否定するのなら、愛する祖父母も否定することになってしまう。それだけはしたくなかった。


 買い物を済ませて、梅子と共にスーパーを出る。辺りは赤い光に照らされていた。空を見上げると、血のような真っ赤な夕焼けが広がっている。


 「明日は雨かもしれないね」


 梅子がぽつりと呟く。


 美しさと哀愁を漂わせているその夕焼け空を見ていると、広希は、漠然とした不安のようなものが、自身の胸の中に去来するのを感じた。

    

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