第三章 説得

 悲劇的な局面を迎えた人間というものは、思考を簡単に停止させるのだということを、広希は今回初めて知った。


 午後の授業が開始されてからも、広希の頭は、フリーズしたパソコンのように、全く動いていなかった。何も考えられないのだ。


 広希が、血を飲めず、吐き出した直後、チャイムが鳴った。午後の最初の授業は、英語だった。担当である初老の教師は、いつもチャイムと同時に教室へ入ってくる。


 教師が姿を見せると、それを契機に、広希への追求と注目は終了した。妙な余韻を残したまま、クラスメイト達は、自分の席へと戻った。


 広希は、吐き出した血を片付け、席に着く。教師が何事かと質問したが、零しただけだと説明した。


 それ以上、教師は質問を行わず、授業は始まった。教室中に、神妙な雰囲気を孕んだまま。


 自身が非感染者であることが発覚した事実は、広希の心に、ダイレクトに響いていた。授業内容が全く入って来ず、猛烈な不安が闇のように、胸中を覆っている。


 背後に並んでいるクラスメイト達の視線が、常に自分に向いているような気がした。うなじに、焼きつくような、チリチリとした感覚が生じている。これは、自意識過剰か。


 後ろを振り返って、それを確かめる勇気はなかった。もしも、全員の目が、こちらに注がれているとしたら、自分は卒倒してしまうかもしれない。


 少しも授業内容を学習しないまま、やがて五時限目は終了を迎えた。


 広希は、その場に居たたまれず、誰とも目を合わさないようにしながら、教室を出る。教室中の皆が、こちらを目で追っていることがはっきりとわかった。


 そして広希は、次の授業が始まるギリギリまで、教室の外で過ごし、開始寸前に教室へ戻った。


 その次の、SHRまでの短い休み時間ですら、それを行った。


 やがて、SHRが始まり、神谷の伝達が行われる。神谷は生徒達の挙動に敏感だ。現在、このクラスに流れている妙な雰囲気に、気が付いたようだ。怪訝な面持ちで、SHRを進行させている。


 しかし、最後まで問い質すような真似はしなかった。


 SHRが終わりを迎え、放課後に突入した。


 広希は、急いで荷物を纏めると、教室の出口に向かう。目を伏せ、誰の顔も見ないようにしながら。


 教室の皆が、刺すような視線を投げ掛けているのが、肌で感じ取れた。性欲と食欲が入り混じったような、粘りつくような視線。


 広希は、意識しないように、頭を空っぽにし、教室を後にした。




 帰宅時の記憶は、あまりなかった。


 家に戻った広希は、非感染者であることが発覚した旨を祖父母に伝えた。


 二人共に、狼狽し、ひどく心配した。特に梅子の動揺は強く、その場で広希にすがり付き、血を採られていないか、首筋や腕をチェックするほどだった。


 広希は、梅子を宥めつつ、自身の中にある不安が、次第に大きくなっていくのを実感していた。


 克己が、あやすように、広希の頭を撫でると、こう呟く。


 「転校を考えよう」


 克己の提案に、梅子もしきりに頷いている。


 広希は顔を伏せた。やはり、そうするしかないのかもしれない。非感染者だと発覚したまま、感染者と共に過ごすのは、あまりにも危険なのだ。


 あくまでテレビの情報だったが、身近な人間が非感染者だと発覚した場合の被害に合う確率は、発覚から一年間で、半分を超えているという。つまり、半数以上の非感染者が、発覚してから一年以内に、何らかの被害を受けている計算になる。


 もっとも、その被害は、セクハラ紛いなことから、無理矢理血を採られる大きな犯罪まで、多岐に渡ったケースが対象であるため、直接血を狙うパターンは、もっと少ないかもしれない。


 とは言え、危険であることに変わりはないので、やはり、非感染者だと発覚した場合は、その場を退くのが最良とされていた。


 克己が提案したように、広希の場合は、転校がベストだということになる。


 しかし、諸手を上げて、それに賛同することは、どうしても出来ない。


 広希は、その場では答えを出せずに、俯いたままだった。



 

 夕食を終え、自室に戻った広希は、ベッドの上で仰向けになり、ぼんやりと白い天井を見つめていた。


 夕食は、まるで通夜のような静けさだった。克己が時折、励ますように冗談を口にしてくるが、それも虚しく、場を盛り上げることは叶わなかった。


 帰宅時に、克己が口にした『転校』の文字が、広希の頭の中に残像の如くチラつく。


 正直な意見を言うと、転校したくはなかった。


 あの高校に通い始めて二年以上が経っている。友達もでき、そこそこ充足した学校生活を送っているのだと自負していた。転校するということは、それらを全て捨てるということなのだ。


 達夫や茂、早紀を始めとする、クラスメイト達の顔が脳裏をよぎる。転校すれば、もう、彼らとは会えない。


 いや、違う。広希は首を振った。


 そもそも自身が非感染者だと発覚した時点で、これまでの間柄には戻れないのだ。昨日まで訪れていた『普通の』高校生活は、すでに崩壊している。


 広希は寝返りをうち、横向きになると、スマートフォンを手に取った。LINEを開き、中をチェックする。個人間同士のチャットや、友達同士のグループチャットにも新しいメッセージはなし。非感染者だと判明した人間とのやりとりは、やはり難しいのだろう。


 広希は、スマートフォンをベッドサイドに置くと、体を起こした。


 明日はとりあえず休むつもりだ。転校の件は、まだ学校側に伝えないよう、祖父母にお願いしてある。先延ばしにして何か変わるわけではないが、今すぐ人生に関わる決断を下したくはなかった。


 広希は、ベッドから降り、シャワーを浴びるために部屋を出た。




 翌日は、予定通り、学校を休んだ。連絡したのは祖母だったが、どうやら風邪気味だという口実を作り出したようだ。


 しかし、クラスメイトは皆、どうして休んだのかの本当の理由を理解しているはずだ。決して、風邪だというブラフを鵜呑みにはしないだろう。


 広希は、朝いつも通りの時間に目が覚めたものの、ベッドに入ったままだった。朝食も口にしていない。何だか、動く気になれなかった。


 時間的には、そろそろ朝のSHRが終わった頃だ。すでに、皆は、自分が欠席する旨を耳に入れたに違いない。


 皆は、それを聞いて、どのような会話を行うのだろうか。


 広希はベッドに潜ったまま、クラスメイト達の自分に対する噂を夢想した。


 「まさか広ちんが非感染者だったなんて思わなかった」


 そう言ったのは、早紀だ。険しい面持ちだ。


 「俺も長い付き合いだけど、全く気が付かなかったよ。あいつ、上手く隠していたんだな」


 達夫は、自身の水筒から血を飲みつつ、答える。憤慨しているようだ。


 しかし、茂はそれよりさらに、感情を露にしていた。


 「つまり、広希は俺達を騙していたわけだな。許せないよ」


 茂は、優しそうな目を、鋭く尖らせる。


 それに対し、明日香が同意した。


 「そうね。おしおきが必要みたい」


 明日香の発言に、いつの間にか集合していたクラスメイト達が、口々にそうだ、そうだとはやし立てる。


 教室の中央に、電気椅子のような妙な物体が設置されていた。その隣に、千夏が立っている。


 一本の百合のような可憐な容姿。スタイルの良い体をまっすぐに伸ばし、こちらを見つめている。


 部屋のベッドにいるはずの自分が、なぜか教室の中にいることに、広希は気が付いた。周りにいるクラスメイト達が、舐めるように自身を見てくる。


 やがて、達夫や茂が広希の体を掴み、教室の中央にある妙な椅子へと引きずっていく。抵抗しようとするが、配線が切れた機械のように、手足を上手く動かせない。


 やがて、その椅子へと無理矢理座らせられた。そして、ベルトで拘束される。


 横に控えていた千夏が、正面に立つ。整った顔を、広希の顔へと近付ける。絹のような綺麗な髪が、肩に触れた。


 千夏は、広希の首筋に噛み付いた。そして、音を立てて、血を飲む。


 千夏は、オーガズムを感じているかのように、恍惚の表情をした。夢中で、血を啜っている。


 クラスメイト達から、歓声が上がった。


 ハッと目が覚める。潜っていた布団から、飛び起きた。


 広希は、霞んだ目で、時計を見た。時刻は正午過ぎ。


 いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。夢想から、そのまま二度寝へと転がり落ちたのだろう。


 広希は、ベッドから降り、窓際に行くと、外を覗いた。頂点に達した太陽が、爛々と周りの住宅街を照らしている。


 広希は、その景色を眺めながら、大きく深呼吸を一つした。先ほどの夢が、残り香のように、頭の隅に留まっている。


 縁起でもない夢だった。やはり昨日の出来事が、精神に大きな負荷を与えているのだろう。心なしか、貧血のように、体が重く感じる。


 広希は、自分の首筋を撫でた。少しだが、汗をかいているようだ。傷はない。


 広希は、直射日光を生み出している太陽を見上げた。


 学校は、今頃昼食の最中だろう。達夫達は、広希抜きで弁当を食べているはずだ。


その場にいない自身のことを、達夫達は、どう思っているのか。血を飲みながら、何を話しているのか。


 色々と想像するが、結局、自分が転校することを思い出し、広希は苦笑する。無駄な妄想だった。もう彼らとは会わないのだ。


 これからのことを、考えるべきだ。


 それには、まず、昼食を摂ることだと思い、広希は、階下へと降りていった。



 

 その日は一日ゴロゴロしていた。やる気が何も起きなかった。鬱病患者のように。無気力なまま、ベッドで寝て過ごす。


 変化があったのは、夕食を終え、夜になってからだった。


 スマートフォンのSNSメッセージに、着信があったのだ。


 確認してみると、達夫からだった。


 その内容は。極めてシンプルなものであった。

 

 『今から会おう。いつもの公園で待っている』

 

 広希は、しばらく、そのメッセージを前に、固まった。ここに来ての、突然の展開だ。少し、逡巡する。


 達夫にはこう返信した。

 

 『どうして?』

 

 送ると、すぐに返信が来る。

 

 『話したいことがある』

 

 『何?』

 

 『チャットではなくて、直接会って伝えたい』

 

 広希が返信を少しの間、躊躇っていると、再びメッセージが届いた。

 

 『もしかしたら、警戒しているかもしれないけど、俺を信じてくれ』

 

 広希はしばし悩む。達夫は親友とも呼べる存在だ。ずっと思っていたように、自身が非感染者だと発覚しても、血を狙わないほどの信頼があると信じている。


 一考した末、広希は達夫の誘いを受けることにした。

 

 『オッケー。今から行く』

 

 SNSチャットでのやりとりを終えた後、広希は、外出の準備を行った。


 家を出る際、祖父母達には、コンビニに行くと嘘をついた。正直に話すと、確実に引き止られるからだ。


 家を出た広希は、夜の住宅街の中を、達夫が指定した公園へと向かって歩く。まだ早い時刻なので、通行人も多い。


 やがてすぐに、祇園地区と清見台地区の境界にある、追越公園へと辿り着いた。この公園は、達夫と出会った公園であり、幼い頃、よく一緒に遊んでいた場所でもある。今でも、時々、達夫の部活がない下校時に立ち寄り、お喋りに花を咲かせることもあった。


 入り口の階段を登り、公園内へと足を踏み入れる。園内は、体育館を一回り小さくしたくらいの広さを持ち、設置されている遊具も、ブランコと滑り台程度と、こじんまりした規模で造られていた。


 広希は、公園の中央に向かう。そして、そこに設置されている古びたブランコに近付いた。


 ブランコの隣には、木製のベンチが備え付けられている。達夫と広希の馴染みの場所。


 そのベンチ側で、達夫が座って待っていた。少し離れた場所にある街灯の光に照らされ、精悍な顔と長身の体が、闇の中に浮かび上がっている。


 達夫はこちらを見つめていた。広希が公園内に入った時から、感知していたようだ。


 広希は、ベンチに歩み寄った。そして、達夫の直近まで行くと、達夫が先に口を開いた。


 「こんな時間に呼び出してごめんな」


 達夫は申し訳なさそうな顔をする。


 「いや、大丈夫だよ。それより、話したいことって、何?」


 広希は、ぎこちなく笑みを作って、返答を行う。つい昨日までは、当たり前のように接していたのに、何年も会っていないかのような、妙な錯覚を覚えた。


 「あの事について、お前が気にしていると思ってさ」


 達夫は立ち上がった。達夫は広希よりも背が高いため、少し見上げる形になる。


 達夫は続けた。


 「まさか、お前が非感染者だとは思わなかったよ。長い付き合いだけど、全く気が付かなかった」


 達夫は、朝見た夢と同じような言葉を吐いている。その時の光景と現在の光景が、広希の脳裏に重なった。


 「……騙されたと思っている?」


 広希は、おずおずと訪ねた。夢の中の皆は、そう受け取り、憤慨していたが。


 しかし、達夫は大きくかぶりを振った。


 「いや、思っていない。そんなことは一切な。俺だけじゃなく、クラスの皆も、誰一人、騙されたなんて受け取っていないぞ」


 達夫は真剣な目で、強く訴えた。街灯の光により、目が煌いている。


 「茂も早紀も、今日休んだお前のことを心配していたぞ。まさか、自分達から血を飲まれるのを危惧して、休んだんじゃないかって。そして、転校を考えているんじゃないかって」


 「……」


 図星であるため、広希は、思わず目を逸らした。実情を見透かされていたようだ。しかし、当然の帰結ではある。


 「広希」


 達夫は、広希に歩み寄った。そして、広希の両肩を掴む。


 広希は、目を正面に戻した。達夫の真剣な眼差しと目が合う。告白でもしているような、真に迫った表情だ。


 「俺達を信じてくれ。確かに俺達は感染者だ。だけど、同時にクラスメイトだ。お前は、大切な仲間なんだよ」


 達夫は言葉を一旦区切り、真っ直ぐ広希の目を見据えた。その目には、嘘ではなく、本心で言っていると思わせる、強い意志が込められているような気がした。


 「今日、クラスの皆で話し合ったんだ。これまでと同じように、お前と接しようって。そして、いざとなったら、皆で守ろうって。満場一致で決まったよ。皆、本気でそうするつもりだ。だから、心配せずに、学校に来てくれ」


 広希は、達夫の話を聞き、俯いた。達夫の様子を見ると、今の話が事実だと思わせる力があった。


 まさか、そんな話し合いが行われているとは、思いもよらなかった。てっきり、自分の血を狙う算段ばかり立てているのだと、そう邪推していた。


 広希は、クラスメイトを疑ったことに対し、少し、罪悪感を覚える。非感染者であるため、仕方がない部分はあったかもしれないが、もう少し、信頼した方がよかったかもしれない。


 俯いたままの広希の顔を、達夫が覗き込んだ。心配そうな表情だ。


 「不安か? 信じられない?」


 達夫が質問を行う。広希は答えなかった。クラスの皆は、自身の身を案じてくれているらしい。それはわかった。


 しかし、それでもこれまで通りに、高校生活を送れるのか疑問がある。そもそも鵜呑みにしていいものなのか。


 なおも俯いて、口を開かないでいる広希を達夫はしばし、見守る。


 やがて、達夫は、叱られている生徒に助け舟を出すような、諭すような口調で、こう言った。


 「じゃあ、こうしよう」


 広希は、顔を上げ、達夫の顔を見つめる。


 達夫は、掴んでいた広希の肩を離し、続けた。


 「俺だけは信じてくれ。クラスの他の皆は、初めは信じなくてもいい。ただし、俺は別だ」


 達夫は、自分の胸を叩いた。


 「約束するよ。必ずお前を守るって。もしも、誰かが、お前の血を狙うようだったら、その時は、俺が絶対助けるよ」


 達夫は、姫を守る騎士のような凛々しい表情で、そう言い切った。


 「ボディガードがいると、安心して学校に来れるだろ? そして、様子を見ればいい。もしも、本当に危なそうだったら、その時こそ、登校を拒否すればいいんだから」


 達夫は、端整な顔に、爽やかな笑みを浮かべる。広希を安心させるための、気を使った意識が見え隠れする。


 「とりあえず、明日は学校に来てくれ」


 達夫は、優しく、広希の肩に手を置く。


 広希は、固まったままだった。何も答えることが出来ない。


 「通学路の途中で待ってるぞ」


 期待を込めた口調で、達夫はそう言い放った。



 

 その後、広希は、達夫と別れた。


 結局、達夫に対し、最後まで登校の有無の結論を出せなかった。


 達夫との逢引が終わった後、追越公園を出て、来た道をそのまま引き返す。


 自宅へと戻ると、帰りの遅い広希を心配した克己が、声を掛けてくる。広希は、生返事をして部屋へと入った。


 机に座り、肘をついて、思案した。


 達夫の『守る』という言葉が、頭の中で、鈴金のように木霊している。それは、刻印の如く、脳裏に刻み込まれていく。


 達夫の言葉は嬉しかった。本心からの訴えだということが、はっきりと見て取れたからだ。やはり、自分の達夫に対するイメージは、間違ってはいなかった。


 しかし、それで再び学校に登校して正解なのか、不安があった。非感染者の自分が、それと判明している感染者の中へと入っていって、また元の生活に戻れるのか自信がない。


 広希は、無意識に、机の上のペンを弄りつつ、考えを続ける。


 しかし、と疑問の声がよぎった。


 よくよく考えてみると、警戒が過ぎる気もする。向かう先は学校なのだ。戦場やサバンナではない。いざとなれば、警察に助けも呼べるのだ。怖がり過ぎではないのか、とも思う。


 そして、達夫が語ったように、クラスメイト達は、自分のことを心配してくれている。これは事実のようだし、違っても、達夫の進言通りに、次の日から行かなければ良いだけの話なのだ。その上、少なくとも達夫は味方だ。頼ることが出来るし、守ってもらえる。


 もしかすると、度を越した不安で、自分達が右往左往していただけなのかもしれない。


 広希はそう感じ始めた。


 これだけ警戒が強いのは、祖父母の影響である可能性がある。孫を心配するあまり、杞憂で済むものも、済まなくなっているのだ。部活の件もそうではないのか。とすら思う。


 次第に、学校を転校する案が、早計のように感じていた。そう、もう一度だけ行き、それで判断すればいいのだ。


 広希の思考は、その方向に固まり出していた。根本的に、学校を転校したくない気持ちが、それを後押ししているかもしれない。


 明日、登校してみよう。広希はそう思った。試しに行ってみる。そして、身の危険を覚えれば、即座に逃げ出す。それを頭に入れていれば、大丈夫だ。


 広希は決心し、そのことを祖父母に伝えるため、机から立ち上がった。




 翌朝。昨夜決断した通り、広希は登校を行うことにした。


 準備を終え、玄関で靴を履く。背後にいる梅子と克己が不安げな面持ちで、こちらを見ていた。まるで戦場に息子を送り出す親のようだ。


 「本当に大丈夫なのかい?」


 梅子が、広希の背中に向かって尋ねる。


 「うん。何度も言ったように、試しに今日行ってみるだけだよ」


 広希は通学靴を履き終え、右足の爪先で土間を突きながらそう答えた。


 「しかし、その一日だけで、事件に巻き込まれるかもしれないぞ」


 克己は、昨夜、登校する旨を告げた時に口にしたことを再度言う。


 「だから、その時は、逃げ出すなり、警察呼ぶなりするよ」


 広希は、幾度となく話した言葉を伝える。


 二人共、昨夜からこうだった。登校の意思を示した途端、二人はそれに強く反対し、広希を説得しようと試みた。


 それは夜中まで続いた。だが、広希は従わなかった。一度だけ行ってみる。その姿勢を崩さなかった。


 ついには祖父母達も渋々納得し、引き下がったのだ。


 広希は、通学鞄をチェックする。そこには、麦茶の入ったタイガー製の銀色の水筒が収めてある。これまでフェイクの血を入れていたスタンレーの水筒は、持って行くつもりはない。もう必要がないからだ。


 「それじゃあ、行ってきます」


 なおも心配顔の祖父母に、広希は挨拶をした。そして、玄関を開け、外に出る。


 「いいか、くれぐれも注意するようにしなさい」


 克己が叱るような強めの声で、最後に忠告する。


 「わかってるよ。心配しないで」


 広希は、そう言いながら、祖父母達の視線を遮断するようにして、玄関の扉を閉めた。


 晴れ渡った朝の空の中、広希は住宅街へ歩き出す。いつもの風景だ。だが、心の中 はこれまでとは違う。


 祖父母にはああ言ったが、やはり不安な気持ちがあった。これは、何度か通学し、信用が生まれるまで続くだろう。


 もし、そうならなかったら、転校しかないのだが。


 夏の気配が残る朝日の中、広希は通学路を進む。制服姿の女子中学生や、仲良く登校する小学生の姿が見える。


 目の前で女子中学生が、血の入ったペットボトルを傾けながら、歩いている。広希は、それを横目で眺めつつ、追い抜いた。


 昨夜の達夫の言葉を思い出す。通学路の途中で待っていると言っていたが、本当だろうか。


 清見台に入り、国道十六号線の横断歩道を渡る。その先に、長須賀郵便局がある。そこに設置されているポストの前に、見慣れた姿が見えた。


 達夫だ。達夫は、広希の姿を確認すると、手を挙げた。


 広希も手を振り、それに答える。そして、広希は、達夫が自分を待っていたことに、少なからずホッしていたことに気が付く。四面楚歌ではないが、感染者ばかりの所に、最初から単身で乗り込むことに、強い抵抗があったのだ。


 そのため、達夫の存在はありがたかった。今の所、唯一の味方とも言えるのだ。


 「おはよう。広希」


 達夫は、そばに来た広希へ、にこやかに笑いかける。二枚目特有の、爽やかな笑顔だ。


 「おはよう」


 広希も、何とか笑みを返す。胸中の不安が、少し顔に出ていたかもしれない。しかし、達夫の方は、元々からそれは察しているはずだろうと思う。


 「登校してくれて、ありがとうな。色々心配だろ?」


 達夫はあくまでも、穏やかに、そう訊いてくる。質問が目的ではなく、安心させるための言葉であることがわかった。


 「ううん。大丈夫。気を遣ってくれて、ありがとう」


 広希は、礼を言った。心が、幾分か落ち着いたのを自覚する。


 二人は、長須賀郵便局前を離れ、一緒に並んで歩き出す。


 達夫は、普段と変わらない口調で、話しかけてくる。内容もいつものように、他愛のないものだ。そうすることで、これまで通りの気分のまま登校できるという、達夫の計らいだろう。


 広希はそれに合わせる。会話を続ける内に、幾分か、平常心に戻ったように感じた。


 稲荷町に入り、江府高校に近付く。次第に、広希達と同じ制服姿の生徒達が、増えてくる。


 高校が見えると同時に、不安感が風船のように膨らんだ。このまま教室へ行って本当に大丈夫なのだろうか。恐怖にも似た感情が鎌首をもたげる。


 靴を履き替え、教室へ向かう。途中、大勢の生徒達とすれ違った。その光景は、今までと同じものだ。お馴染みの朝の風景。しかし、現在は、自身を取り巻く環境が一変する出来事が起きたのだ。教室が同じように、いつも通りとは限らない。


 時折ニュースで取り上げられる非感染者を狙った事件が、脳裏にチラついた。加害者は、いつも身近な人間である。丁度、今の状況のように、クラスメイトと同じ立ち位置の人間からだ。


 危険を感じたら、すぐに逃げ出す。その対策を立ててきたが、それが確実に成功する保証などなかった。昨日みた夢のような状況が起こりうるのだ。


 広希の緊張を察したのか、達夫が優しく広希の肩を叩いた。


 やがて、教室へと辿り着く。広希は、立ちすくんだ。


 心臓の鼓動が早くなっている。今更ながら、来たことを後悔する気持ちが、湧き水のように溢れ出てきた。


 「心配するな。約束したからな。信じてくれ」


 達夫が落ち着いた声で、語りかけてくる。


 「入ろう」


 達夫が教室の扉を開けた。そして、ドアマンのように扉の脇に立ち、広希が通るのを待つ。


 広希は、深呼吸をした。もうここまで来たのだ。腹を括ろう。


 広希は、決心し、教室の中へと入った。後ろから、達夫が続く。


 教室の中には、すでに多数のクラスメイトがいた。今日の広希達は、登校が遅く、始業ギリギリの到着だった。そのため、ほとんどのクラスメイトが登校を終え、教室に揃っているのだ。


 広希は、俯き加減に、教室の中を進む。横目で周囲を確認すると、誰も、こちらを特に気にするような素振りを見せていなかった。皆、友達との会話や、授業の準備に勤しんでいる。


 普段と何ら変わりない、朝の教室の一幕だ。


 やがて、自身の席に着いた。通学鞄をフックに掛け、椅子に座る。


 隣の席の早紀が、声を掛けてきた。


 「おはよー、広ちん。今日は遅かったね」


 早紀は明るく挨拶を行う。ショートヘアにより、小さく見える顔がほころんでいる。これまでの早紀と何も変わらない。


 広希は、一瞬、あの時の出来事が、夢であるかのような錯覚を受けた。自分は昨日まで風邪で寝込んでおり、一昨日起きた発覚は、その時に見た悪夢なのでは、と捉えそうになった。


 もちろんそんなわけはない。あれは現実の出来事であり、クラスメイト皆、広希が非感染者だという事実をすでに知っている。つまり、これが達夫の言っていた、クラスメイト達の『措置』なのだろう。


 「う、うん。ちょっと寝坊しちゃって」


 広希は、戸惑う心を抑えつつ、答える。


 「情けないぞー。心頭滅却して、起きなさい」


 「何かおかしくないそれ?」


 広希は、反射的に、いつもと同じ調子で応対する。グッと、心が軽くなったような気がした。


 教室の後方を伺っても、特段、こちらに注目している者はいなかった。皆思い思いの行動を取っている。本当に、何事もなかったかのようだ。


 やがて、チャイムが鳴り、神谷が教室へと入ってきた。




 その後も、広希を取り巻く教室内の環境は、これまでと何ら変化はなかった。皆感染者であるため、血液飲料こそは飲んでいるものの、広希が非感染者であることについて、一切触れるような真似はしなかった。


 昼食時も同様だった。達夫や茂と一緒に食事を摂っていたが、広希が非感染者であることを忘れたかのように、接してくれていた。それに加え、これは計らいなのだろうが、非感染者の話題を口にすることはなかった。


 午後もそれは続き、広希の中に存在していた警戒心は、氷のように溶けていった。


 やがて、学校が終わり、帰宅の時間を迎えた。広希は友人に挨拶を行い、教室を後にする。その時も、皆は普段通り振舞っていた。


 下校時、通学路を歩きながら、広希は心が軽くなっていることに気が付く。これまで背負っていた重荷を降ろした時のような、そんなすっきりとした気分だ。


 達夫を始めとする、クラスメイト達の心遣いが嬉しかった。皆の、自分を不安にさせまいという気持ちが、はっきりと伝わってきた。


 クラスの皆を疑っていた考えが、何だがとても愚かしく感じた。それは杞憂に過ぎず、恥ずかしい勘繰りに過ぎなかったのだ。学校なんて休まず、もっと信頼すればよかった。


 いや、こうなるなら、そもそも、もっと早めに非感染者だとカミングアウトしてもよかったんじゃないのか、とすら思う。それならば、今までのように、わざわざ感染者の振りをする必要すらなかったのだから。


 何はともあれ、結果的に善へと転んだのだ。それを喜ぼう。


 広希は、自身の頭を占めていた不安が払拭されたことで、晴れ晴れとした気分に包まれていた。感染者を装うという重圧から開放された上に、今まで通りの生活が送れるのだ。これは、幸運だと言える。


 広希は、鼻歌交じりに通学路を歩き、家へと辿り着いた。


 帰宅した広希は、学校での成果を祖父母に報告した。そして、クラスの皆は信頼できることと、これからも通学を続けることを付け加えた。


 祖父母は、それに対し、強い疑惑の念を呈した。とても信じられないという表情で、口を開く。


 「それが騙すための演技だとしたら、どうするんだい?」


 そう言ったのは、梅子だ。言いながら、梅子は、ぐっと顔を広希に近づけた。子猫を守る親猫のように、目が吊り上がっている。


 広希は、思わず、身を引いた。迫真の剣幕に気圧されたのだ。


 そして、自身の唇を舐め、言い返す。


 「心配し過ぎだと思うよ。今日、皆の様子を見て、確信を持てたから。それに、いざとなったら、達夫が守ってくれるって約束してくれたし」


 「その達夫君が、嘘をついていたら?」


 「大丈夫。達夫とは長い付き合いだから、嘘をついていないのはわかる。本当に達夫は守ってくれるはずだよ」


 「でも、絶対じゃないだろう?」


 なおも梅子は、食い下がる。よほど信じられないようだ。直接クラスの様子を見たわけではないので、無理もないかもしれない。


 しかし、広希の意思は固い。広希は、ひたすらクラスの皆が信頼できることを、祖父母に訴えた。


 しかし、それでも二人は疑惑の表情を崩さなかった。特に梅子は、考え直すよう、強くこちらを諭してくる。


 しばらく平行線が続き、やがて、それまで黙っていた克己が、口を開いた。


 「わかった。そこまで言うなら、お前を信じよう。登校を続けなさい」


 克己は認める言葉を言い放つ。


 「あなた!」


 非難の声を上げる梅子を、克己は宥めるように手で制し、続けた。


 「しかし、これだけは約束してくれ。少しでも、身の危険が迫ったら、必ず逃げると。そして、すぐに家に避難しなさい。少なくとも、俺達は、間違いなく、広希の味方なんだから」


 熊のぬいぐるみのような温厚な顔が、今だけは険しく形作られている。本気の眼差しだ。


 「わかった」


 克己の眼差しを受け、広希は、唾を飲み込む。そして、力強く頷いた。

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