第六章 口蹄疫

 十一月に入り、気温がぐっと下がってきた。すでに冬の様相を呈しており、地球温暖化の影響か、秋が一気にすっ飛んでしまったかのようである。


 広希は朝、毛布一枚の中で震えながら目覚めた。普段よりも早い時刻の起床であり、まだ寝直すことも可能だった。だが、肌寒さのせいでその気が起きず、広希はベッドから出ることにしたのだ。


 カーテンを開け、階下へ降りる。リビングにはすでに克己と梅子がいた。二人は広希よりも遥かに早起きだった。


 「おはよう広ちゃん。寒くなかったかい?」


 梅子が心配した声で聞いてくる。どうやら、梅子も急激な気温の低下に堪えたらしい。もう一枚、掛け布団を出そうかとの問いに、広希はお願いをした。


 二人の様子を見ると、すでに血は飲んだようで、晴れやかな表情をしていた。


 広希は、テーブルに着く。朝食はまだ用意されていなかった。


 広希は手持ち無沙汰に、テレビを眺める。早朝のニュースが放送されていた。


 そのほとんどは、大して興味のないものばかりだった。


 無機物のようにぼんやりとテレビを観る広希の前を、淡々とニュースは流れていく。時折、血液飲料や血を使った食材のCMを挟みながら。


 朝食の香りが漂い出した頃、一つの気になるニュースが始まった。国際関係の話題だ。


 『口蹄疫が世界中に蔓延。家畜産業に大打撃』


 大きな見出しだった。スタジオに招かれた専門家と思しき上品そうな男性を交え、解説が始まる。


 それによればこうだった。


 口蹄疫とは、家畜伝染病の一つで、その名前に含まれている通り、蹄を持ち、それが二つに割れている動物に感染するウィルスらしい。伝播性が極めて高く、感染が確認され次第、その固体は即刻殺処分の対象になってしまう。放っておくと、その地域全体の畜産が全滅する恐れすらあるためだ。


 その口蹄疫ウィルスが、現在、世界中で猛威を振るっているようだ。アメリカ、アジアを中心に、徐々に広がりを見せ始め、農林水産省の報告によれば、世界各国で輸出入の制限が掛けられているとのことだった。


 口蹄疫ウィルスの感染対象は、牛や豚、山羊や羊など、人の『食』を支える家畜全般に及んでいるため、今後、日本国民の食卓にも影響を及ぼす可能性が高いそうだ。


 そしてもう一つの懸念が、血液飲料の供給が途絶えることらしい。血液飲料は、それまで処分していた家畜の血を流用したものがほとんどで、家畜そのものが口蹄疫に感染すると、肉同様、その血液すら廃棄対象になってしまう。


 むしろ、肉そのものよりも、血液の方が、人間が摂取した場合のリスクは高く、血液は徹底管理の下、確実に処分されるようだ。


 これほどの口蹄疫のアウトブレイクは、好血病患者が蔓延して以降、初めてのことであり、世界中で血液飲料が不足する懸念が広がっているとのことだった。


 農林水産省管轄の血液の備蓄も、ここまで大きな事態は想定外らしく、いつまで市場に血液飲料が出回るか不明だという。役人特有の、甘い見通しが露呈した瞬間でもあった。


 「困ったことになりそうだな」


 一緒にテレビを観ていた克己が、ポツリと呟く。非感染者である広希には血液飲料の不足は問題ないが、感染者は違う。懸念材料になるだろう。そうは言っても、家畜の肉も不足する状況らしいので、広希にとっても、このアウトブレイクは、少なからずマイナスの影響はありはするのだが。


 「そんなに心配しなくても大丈夫よ。またいつものように大事にならず解決するわ」


 梅子が、テーブルに朝食を置きながら言った。梅子は口蹄疫の問題をさして深刻には受け止めておらず、対岸の火事、といった様子だった。


 「だがな、今回は結構被害が大きそうだぞ」


 克己は反論する。克己の方は、危惧の面が強いらしく、顔が若干曇っている。


 テーブルに朝食を並べ終えた梅子は、諭すように言う。


 「今までも口蹄疫が流行ったことあったでしょ? でもそんな大きな影響はなかったわ。今回も同じよ。今から不安に思っても仕方がないわ」


 梅子はあくまで楽観視派のようだ。


 「まあ、そうかもしれんな。だけど、買い置きくらいはしておこうか」


 「そうね」


 克己の方も、まだ実感がないせいか、そこまで深刻に対策するつもりはないようだった。


 二人はそこで会話を打ち切り、テーブルに座る。


 広希は再度、テレビに目を移した。テレビはすでに、話題が切り替わり、今は芸能人のスキャンダルが流れていた。




 通学路で達夫に会わないまま、広希は学校に到着する。


 学校でも、口蹄疫の話題がチラホラ出ており、耳に入ってきた。


 大抵は不安視しておらず、克己が言及したように、せいぜい血液飲料の買い置きを心掛ける程度の心配だった。震災に備え、予め食料や水を用意しておこうかな、というような軽いノリである。


 そもそもまだ眼前に、はっきりと見えるほどの影響は出ておらず、どれほどの規模の問題なのか把握することが難しいのだ。そのため、何となく始まり、何となく終わるような、まるで地球の裏側の出来事同然のイメージを抱いている者がほとんどのように見受けられた。


 広希も同じく、その内何の混乱もなく事態は収束するのだろう、と大して深刻には受け止めていなかった。


 やがて、午後になると、口蹄疫の話題はほとんど聞かなくなった。そもそも、高校生が話す話題でもなかった。


 広希もその頃には口蹄疫のことなど頭になく、達夫達とゲームや芸能人のニュースなど普段通りの他愛もない話題に花を咲かせていた。もちろん、会話の最中にも、皆が血液を口にしているのは変わらなかったが。




 異変を感じたのは、それから十日ほど経ってからだった。


 帰宅時のことである。未だ入る部活を決めかねている広希は、その日も学校が終わると下校を行った。


 途中、飲み物を買うために、行きつけであるマックスバリュへと立ち寄った。


 飲料コーナーで商品を選んでいる際、ふと気付く。隣のコーナーだった。そこには血液飲料が棚に並んでいるのだが、その数がひどく少ないのだ。


 普段は不足なく、ぎっしりと商品が詰まっているはずなのに、今は大売出しの後のワゴン棚のように、半数以下まで減少している。空いているスペースが目立つので、随分と寂しさを覚えてしまう。


 商品を選び、レジで会計を済ませる際、店員に聞いてみる。


 「口蹄疫のせいで、血液が入荷しにくくなったのよ」


 中年女性の店員は、ひどく困った口調で説明をしてくれた。


 家に帰り、梅子と共に出掛けた先のスーパーでも似たような状況だった。こちらは、まだマシとは言えるものの、減少傾向であることがはっきりと感じ取れた。


 ニュースでも、そのことについて取り上げられていた。


 世界中で広がりを見せている口蹄疫の影響が、ここにきて、徐々に出始めたという。特に日本は、食料品と同様、血液飲料の大半を輸入に依存しているため、輸出入制限が設けられた現在、どこの国よりも早く、血液飲料の不足が訪れる恐れがあるらしいのだ。


 食料品の輸入制限は、家畜の肉に限定しているため、食料という点で見れば、他にも補える食べ物がある。だから、今回の件で食料不足に陥ることはなかった。


 だが、血液飲料は違う。『それしかない』のだ。血液の代替など存在せず、血液の供給が途絶えれば、不足の一途を辿るのみだ。


 また、その消費量も問題だった。好血病の感染者が一日に摂取する血の量は、相当多く、このままの需要が続くと、すぐに底をついてしまう。今までは、大量の輸入のお陰で充分に確保できていたが、この非常事態ともいえる状況下では、到底持たないらしい。


 政府は貯蓄していた血液飲料を開放する対策を立てたと、ニュースでは伝えていた。しかし、それもどこまでカバーできるか不透明というのが、ニュース番組の専門家の意見だった。


 楽観視していた世間の風潮に、一石を投じる情報だった。おそらく、方々で、同じ情報が流れ始めているに違いない。そして何より、それを身近で体感するようになったのだ。


 『血液不足』の訪れである。




 翌朝。つい二度寝をしてしまった広希は、普段より相当遅い時間帯に登校を行った。運悪く、祖父母達も寝坊をしてしまい、起こす者がいなかったのだ。


 登校や出勤のラッシュが過ぎ、人気が少なくなった通学路を、広希はひた走る。達夫はとっくに先へ行っているようで、会うことはもちろんなかった。


 急いだお陰で、五分前ジャストに、教室へと到着することができた。広希は、息を整えながら、安堵の溜息と共に、教室の扉を開ける。


 中へ入った瞬間、クラスメイト皆の視線が一斉にこちらへ集まった。広希は一瞬怯む。始業間近なので、ほぼ全員が揃っていた。


 その皆が、広希へ目を向けていた。最後に教室へ入ってきたため、注目されてしまったのだろうか。


 すぐに皆は視線を逸らしたが、まだ意識のみをこちらに向けているような気がした。


 席に着くと、達夫達がやってくる。


 「よお、広。遅かったな。今日は休みかと思って、心配したぞ」


 達夫は心配そうな表情を浮かべ、広希の肩を叩く。力が入り過ぎていて、少し痛い。


 「そうそう。もっと早く来いよな。何かあったと思うじゃん」


 そう言いながら茂は、目尻を微かに上げ、様子を伺うようにこちらの顔を覗き込んでくる。


 広希は、肩を擦りつつ、答えた。


 「ごめん。ちょっと寝坊してさ。これでも走って何とか間に合ったんだよ」


 広希の説明に、二人は納得したように、しきりに頷く。どこか、気を使ってるような、あるいは腫れ物に触るような、妙な不自然さが見受けられた。気のせいだろうか。


 気のせいと言えば、他のクラスメイト達もそうだ。こちらに注目しているような感覚がする。はっきりとは確認できないが。


 ふと、隣の席の先に目を向けた。


 早紀は、ひどく不安げな面持ちで、広希を見つめていた。



 

 昼休み、広希は、達夫達に質問を行った。


 「口蹄疫のせいで血液が不足しているらしいけど、大丈夫なの?」


 祖父母達は今の所、特別変わった様子を見せていなかったが、他の感染者はどうなんだろうと思った。


 共に机を囲んでいる二人は、一瞬、動きを止める。


 達夫が答えた。


 「あ、ああ、まあ今は足りているみたいだな」


 「でもこれから先は不足するって聞いたけど……」


 減少の一途を辿るらしい、という、各局ニュースの見解を広希は思い出す。


 達夫は水筒から血を飲みながら、言った。


 「政府がどうにかしてくれるだろ」


 「それだといいんだけど」


 血を飲み干した達夫は、落ち着いた口調で言う。唇の端に、血が付いていた。


 「お前は感染者じゃないんだから、心配する必要はないぞ」


 それに対し、茂も同意する。


 「そうそう。血を飲む必要がない体はむしろ羨ましいよ」


 そして二人は、お互い、小さく笑い合った。それは無機質な笑いであった。


 やがて三人は食事に戻る。それからは無言のまま過ごした。


 食事を終え、一人になった広希は、机の上で、ぼんやりと思う。


 達夫は先ほどこう言った。


 『心配する必要がない』


 それは本当だろうか。何だか胸騒ぎがする。


 広希は、教室の喧騒の中で、汚泥に沈み込んでいくような、嫌な不安感が増大するのを自覚した。




 それから十日ほど経った。


 ニュースや専門家の予言通り、市場に出回っている血液飲料は、底が抜けた桶のように、急激に減少していた。それには、一部の人間による買占めも拍車をかけており、少なくとも木更津周辺のスーパーやコンビニにおいては、血液飲料の売り切れが続出していた。


 全国的にもそうらしく、買占め勢によるネットでの転売も横行し、目玉が飛び出るような高値で売られていることもあった。それすら、入札が多数で、一度出展されれば、たちまち底を突いてしまう現状だった。


 それでもまだ、人々の手元には、血液飲料が残っているので、完全にゼロになったわけではなかった。そのため、現在でも、血液飲料不足が原因で精神に異常を来たした者は、極僅かだった。しかし、それでも少しづつ散見され始めており、増加するのも時間の問題と言われていた。


 今は、感染者は、残り少ない血液飲料を、節約しながら過ごしているのが現状であった。それは、広希の祖父母もそうだったし、高校のクラスメイト達や、ひいては、他生徒、教師に至るまで、同じだった。


 口蹄疫のアウトブレイクが明るみに出て、僅か半月ほどでこの体たらくである。政府の対策はまるで機能しておらず、一部の感染者は、暴徒のように、政府へのデモを行っていた。


 次第に日本中が、開戦間際のような不穏な空気に包まれていくのを、広希は肌で感じ取っていた。


 それに加え、クラスメイト達の広希に対する態度が、どこか異質なものへと変化したことも気がかりであった。


 広希が非感染者であることが発覚した際、クラスメイト達は、広希に不安を与えまいと、『共同戦線』を張り、これまで通りに振舞うという善処を尽くしてくれた。だが、ここにきて、その質に違いが生まれている気がした。


 それはクラスメイト達だけではなく、他の生徒にも言えた。一度は収まったラブレターも、再び増加するようになった。だが、逆に直接告白してくる者は、以前と違い、増えることはなかった。


 皆が、非感染者である自身の『血』を意識している――。


 そのような気がしてならなかった。




 「架柴君、聞いているの?」


 刺さるような声が自身を貫き、広希はハッと顔を上げる。


 現代国語の時間だった。教壇を見ると、現国の担当教諭である、喜屋武静子きやべ せいこが、こちらを睨んでいた。


 教卓の上には、半分ほど減っている血液飲料のペットボトルが置いてあった。喜屋武に限らず、教師も生徒同様、血液飲料を授業の合間に飲んでいる。


 喜屋武は、去年赴任したばかりの新米女教師だ。若作りで、まだ大学生くらいに見える、可愛らしい女性であった。


 ぼーっと考え事をしていたことに、気付かれたのだろう。


 「すみません」


 そう広希は謝る。クラスの皆の視線が、こちらに注がれていることを感覚が捉えていた。顔が赤くなるのを自覚する。


 謝ったものの、喜屋武はそれで済ませなかった。


 「大丈夫? 具合でも悪い?」


 喜屋武は、授業を再開することはせず、こちらに歩み寄ってくる。そして、こちらの額に手を当て、熱を確かめる動作をした。


 困惑した状態のため、為すがままである広希の首筋へ、喜屋武は触れた。体調を計る目的で、脈を診ているのだろうか。


 首筋から手を離した喜屋武は、広希に語り掛ける。目線はなおも首筋にあるようだった。


 「保健室行く? 連れて行ってあげるわ」


 別に具合が悪いわけではないので、広希は首を振り断った。


 「そう。具合が悪いならいつでも言いなさい」


 そう言い、喜屋武は教壇へ戻る。


 そして、教卓の上の血液飲料を飲んだ。


 そのペットボトルに入った血液は、通常より薄かった。おそらく、水で薄めているだと思う。そうしなければ枯渇するほど、喜屋武の手元にある血液飲料は少ないのだ。


 それは、他の感染者にも言えるはずだ。


 やがて授業が再開された。


 授業が再開されてからも、喜屋武はこちらの様子を伺う仕草を見せていた。喜屋武のみならず、クラス中の皆がそうである気がした。


 休み時間、ちょっとしたトラブルがあった。


 トイレで用を済ませた広希は。ハンカチを忘れたため、濡れた手のままげんなりしながら教室へ入ろうとした。


 その時だった。


 中から怒号が聞こえた。


 知った声だ。達夫のものだ。


 急いで中に飛び込んで確認すると、達夫がクラスメイトの男子生徒と向き合い、罵声を浴びさせていた。皆何事かと、周りを囲んでいる。


 達夫は凄まじい剣幕であった。今にも殴りかかりそうなほどの勢いだ。茂が必死に宥めている。


 相手の男子生徒は、しきりに謝罪を繰り返しているようだ。二人の間の足元に、何かが転がっているのが広希の目へ映り込んだ。


 黒いストレートの水筒。蓋が開けられており、中身の大半が床に流れ出ている。血が広がっているのだ。流失した液体が血液であるため、人傷沙汰が起きた事件現場のように、陰惨な雰囲気を纏っていた。


 達夫の罵声と状況から、広希はある程度状況を把握した。達夫とトラブルになっている男子生徒が、達夫の水筒を倒すか落とすなりして、中身を床に零したのだ。それに対し、達夫が激怒している。そのような流れだろう。


 達夫の怒号が響く。


 「だから零した代わりにお前の血液飲料をよこせよ!」


 「そうするともう俺の分がなくなるんだよ。勘弁してくれ」


 男子生徒は、泣きそうな顔で懇願する。達夫は、鬼のような形相になった。


 「ふざけんなよ! この野郎! お前が元々悪いんじゃねえか」


 達夫は茂の制止を振り切り、男子生徒の胸倉を掴む。暴力行為に発展したため、周囲が大きくざわめいた。


 これはいけない。広希は周囲の野次馬を押しのけて、二人の元へ駆け寄った。


 「達夫、やめなよ」


 広希は達夫の胸倉を掴んでいる手に触れた。


 そばに来た者が広希であることを知ると、達夫は我に返った表情になった。ゆっくりと胸倉の手を離す。


 「広希」


 「暴力は駄目だよ。大変なことになる」


 「だけどあいつが俺の水筒を……」


 「とりあえず席に戻ろう。皆見ている」


 広希は諭すように言った。達夫はしぶしぶ矛を収めることにしたようだ。


 達夫は床に転がっている水筒を拾い上げ、その場を立ち去ろうとする。


 その時、罵倒されていた男子生徒が、ぼそりと呟いた。怨嗟の言葉だ。


 「ケチケチするなよ。お前は架柴から血を貰っているくせに」


 達夫が牙を剥いた虎のように、男子生徒に踊りかかった。再度胸倉を掴み、拳を振り上げる。


 とっさに広希は、二人の間に割って入った。そして達夫の腕を押さえ込もうとする。


 一瞬、目の前に火花が散った。


 達夫の拳が当たったのだとわかった。顔の中心がじわりと熱くなる。


 広希は俯き、鼻を押さえた。


 拳の勢いは、広希が割って入ったため、ある程度抑えられていた。そのお陰で、さほど重篤ではなさそうだ。少なくとも鼻の骨が折れていることはない。


 しかし、それでも痛かった。


 「広希!」


 達夫は驚愕した顔で、広希にすがり付いた。


 すると、鼻を押さえていた手の間から、温かいものが滴り出した。粘液のような、ドロリとした液体。


 鼻血だ。軽くとは言えど、鼻頭にヒットしたため、鼻腔内の血管が切れたのだろう。たらたらと、栓が緩くなった温水器のように、流れ出ている。


 血は床にまで垂れ落ちた。


 広希はハンカチを取り出そうと残った片手でポケットを探るが、ハンカチを忘れていたことを思い出し、舌打ちしそうになる。このままでは制服が汚れてしまう。


 広希は、達夫か周りの生徒にティッシュを貰おうと、顔を上げた。


 広希の周囲の人間は、皆何かに取り憑かれたかのように、こちらを凝視していた。いや、正確には、広希自身と言うより、鼻から流れ出ている血へ向けられていた。床に垂れ落ちた血にもだ。交互に見比べている。


 それまで、広希の身を案じていた達夫ですらそうだった。魅入られたかのように、手の隙間から見える鼻血を直視していた。茂も同様だ。


 広希は、彼らに、ハイエナのような本能的獰猛さを見出し、硬直した。息を背中に吹きかけられたように、鳥肌が立つ。


 「広ちん、大丈夫!?」


 早紀が血相を変えて、駆け寄ってきた。今まで教室にいなかったので、騒ぎを聞きつけて戻ってきたのだろう。


 早紀は、ポケットティッシュを取り出し、何枚か束ねて、こちらの鼻に当てる。ティッシュに血が染み込んでいくのがわかった。


 「このまま鼻を押さえてて」


 広希は、鼻の穴を塞ぐようにして、ティッシュを当てた。


 「じっとしてね」


 早紀は、鼻下辺りを拭いている。汚れた部分を綺麗にしてくれているようだ。広希は早紀の好意に甘え、任せることにした。


 やがて、拭き終わり、早紀は小さく息をついた。


 「綺麗になったよ。鼻血も止まったみたい」


 当てていたティッシュを取りながら、早紀は言った。


 まだ鼻が詰まっているような感覚はするが、早紀が言った通り、鼻血は止まったようだ。


 「ありがとう」


 広希は礼を言った。未だ、周囲の人間が見つめていることを意識しないようにする。


 早紀はニッコリと笑いながら、血に染まったティッシュを、小さな袋にまとめて入れた。


 そこで声が掛かった。


 「脆井さん、私が捨てようか?」


 女子生徒が手伝う旨を伝える。すると、次々に、自分が捨てると申し出る者が続出した。


 早紀はそれを断り、教室の隅にあるゴミ箱へ向かい、中にあった捨てられた袋を使って何重にも包み、ゴミ箱の中に突っ込んだ。皆の目がそこへ集中していた。


 そこでふと、床も汚してしまったことを思い出す。


 振り返ると、さっと、千夏がティッシュで床の血を拭った姿が目に映った。そして、それをポケットに入れる。


 千夏は、広希が見ていることに気が付くと、優しく微笑んだ。




 血液飲料は、刻一刻と、減少を続けていた。それに伴い、感染者達の精神状態も均衡を失いつつあることがわかった。


 それは短くなったロウソクを想起させた。残り少ないロウを命の灯火として、燃焼させながら、やがては燃え尽きる。危うい精神が今も着実に磨り減っていっているのだ。


 広希は、すでに己に対する身の危険を察知していた。クラスメイトや他のクラスの生徒達が、確実に自分の血に興味を示していることがはっきりと伝わってきた。


 決定的な出来事が起こった。


 昼休みのことだ。達夫達との昼食を終えた時だ。茂が購買のジュースを一口飲むと、言葉を発した。もう血液飲料はほとんど余裕がないらしく、ジュースばかり飲んでいたことは知っていた。


 「頼む! 広希。少しでいいから血を飲ませてくれ」


 それは必死の懇願だった。


 「血液が飲み足りないから、勉強が全く捗らないんだ。このままじゃ成績が落ちちまう。お願いだ」


 茂は悲痛な面持ちで、頭を下げた。達夫は無表情でそれを見つめている。


 茂の成績が落ち、教育熱心な親から叱咤激励されている話は聞いていた。だが、その傾向は茂だけではなく、全校生徒が似た状況だった。と言うより、日本中の学生がそのように血液不足の影響を受けているはずである。


 学生のみならず、社会人や政治家、ひいては、ほぼ世界中の人間の活動能力が低下しているのだ。それは、生産性や治安に大きな悪影響を与えていた。


 茂の両親も、その範疇に捉われているはずなので、成績が下がったからと言って、無闇に息子を非難する真似は無理難題とも言えた。ある程度の温情はあってしかるべきである。それにも関わらず、厳しい態度を崩さないのは、血液不足が祟り、正常な判断が出来ていない証かもしれない。そのような現象は方々で起きていた。


 茂の懇願を皮切りに、教室の至る所から、声が聞こえた。教室の皆は茂と広希のやりとりに耳をそばだてていたらしい。


 「私も飲ませて!」


 「俺もだ。しばらくは薄めた血しか飲んでいないんだ」


 「それは私もよ。私から飲ませて」


 その時点で広希は、自身が猛獣の檻の中にいることを悟った。このままではいずれ、かつて被害にあった非感染者達と同じ末路を辿ってしまう。


 広希は、教室中に沸き起こった血を求める声に、答えることなく教室を出た。


 そして、心に決める。しばらくの間、休学するしかないことを。


 少なくとも、口蹄疫のアウトブレイクが終息するまでは、もう高校へは通えない。クラスメイト達は、広希が非感染者だと発覚しても特別意識しないよう計らってくれた。しかし、この血液不足の環境下では、もう成立しなくなっている。


 それに近い内に、休校にもなりそうだった。血を飲めないため、生徒は学習意欲が著しく低下し、教師もまともに授業を行えない。日本中がそうであるため、すでに休校した学校もいくつか出ていた。


 明日から休むしかない。しばらくの間は。それを家に帰って、祖父母に伝えよう。


 広希はそう誓い、その後の休み時間も、可能な限り、他生徒との接触を避けた。


 放課後になり、広希は神谷から再び呼び出しを受けた。


 場所はまたあの進路指導室だ。以前と同じく、指導を受けるような真似をした覚えはなかった。一体、何の用事だろうか。不安が頭をよぎる。


 進路指導室へ入ると、神谷が中央に置かれた机に座って待っていた。部屋内の間取りはあの時と変わっていない。


 広希は、神谷と向かい合う形で椅子に座る。


 神谷は腕を組んでこちらに視線を送っていた。その顔には、化粧がばっちりと施されているため、違和感を覚えた。


 「ご足労だったな架柴。呼び出してすまない」


 神谷はまるで詫びる気持ちがこもっていない口調で、そう謝罪した。


 「……別にいいですよ、あの、用件は何ですか?」


 アイメイクのせいで、普段より大きく見える神谷の目を見つめながら、広希は訊いた。


 神谷は組んでいた腕を机の上に置くと、答える。


 「お前の身が心配になってな」


 「どういうことですか?」


 「生徒達がお前の血を狙っているんじゃないかとそう思ってね」


 「……」


 それはすでに自明の理だった。第三者から見ても、はっきりとわかることだろう。


 「教室で起きた揉め事の件も知っている。お前の血を飲みたいと言う生徒達の話も知っている」


 神谷は、何が言いたいのだろうか。


 「架柴、誰かから襲われて血を飲まれたりしたか?」


 広希は首を振った。


 「そうか」


 神谷は、身を乗り出した。濃い化粧の顔と見つめ合う。


 「単刀直入に言おう。お前の身を私が生徒達から守るから、血を飲ませろ」


 真剣な顔付きだった。冗談や虚構ではなく、本心からの依頼であることが、はっきりと確認できた。


 神谷までこうもあからさまにこちらの血を狙い始めるとは、大きな失望があった。それほど血液不足というのは、感染者を追い詰めるものらしい。


 考えるまでもない。そんなことは受け入れわけにはいかなかった。それに、もう明日から学校を休む算段なのだ。神谷のボディーガードは今更必要がない。


 広希は断った。明日から休学する旨は伏せる。


 「そうか。後悔するぞ。私が守らなくてもいいのか?」


 神谷は食い下がった。広希が休学を決めたことを知らないために出る言葉だ。


 広希は強く頷いた。


 神谷は、小さく笑う。そこには不安にさせるような、残忍な意思が込められている気がした。


 「わかった。もう行っていいぞ」


 神谷は、手を振って、会話を終了させた。依頼を断られたにも関わらず、神谷の顔は、明るかった。潔く諦めたのか。


 一抹の不安を抱えたまま、広希は進路指導室を後にした。


 教室へ戻ると、千夏がいた。他にクラスメイトはいなかった。


 すでに部活は始まっているのに、ここにいるということは、千夏は、自分を待っていたようだ。


 千夏は、それまで手にしていたピンク色のカバーに覆われたスマホを制服のポケットにしまうと、こちらに笑いかける。


 「おかえり。広希君」


 見る者全てを懐柔できるような、美しい笑顔だった。


 「大里さん、どうしたの?」


 他には誰もいないため、これが休学前の最後の会話になるかもしれなかった。そんなことを広希は思う。


 広希の質問に、千夏は穏やかに答える。


 「ちょっとあなたに用事があって」


 「用事?」


 広希は、心の中で少し身構えた。千夏はこちらに歩み寄ってくる。


 「そう。前に、話したでしょ? 広希君をモデルに描いた肖像画。あれの仕上げが完了したの」


 そう言えばと、広希は思い出した。そんな物があったな。


 「貰ってくれる約束、したよね?」


 千夏は、上目使いにそう言う。


 確かに約束はしたが、本心では欲しくなかったはずだ。つい成り行きで約束してしまったに過ぎない。


 千夏の薄い唇から言葉が続く。


 「今家にあるから、これから一緒に取りに行きましょう」


 広希は逡巡した。このまま誘いに乗っていいものなのか。嫌な予感がする。その感覚を無視してまで、取りに行く必要は感じなかった。


 しかし、約束した手前、断り辛かった。千夏には信者が非常に多い。無下に約束を破れば、敵を作る可能性もあった。明日から休学するが、アウトブレイクが収束したら、また高校生活が始まるのだ。先のことを考えたら、ここは快く了承した方が無難なのかもしれない。


 だが、それでも不安が壁のように立ち塞がる。何かしら思惑がある可能性があった。例えば、先ほどの神谷のように血を懇願されるとか。


 しかし、広希はその光景を想像し、無問題であるとも考え直した。仮に血の要求や、万一実力行使に千夏が及んでも、相手は女子なのだ。いくら自分でも、どうとでも撃退できる。最悪の場合は、警察にだって通報が可能だ。


 広希は一考した末、千夏の誘いを受けることにした。明日にはもう学校にはこないのだ。多少は無理してもいいだろう。


 「わかった。取りに行くよ」


 広希の返事に、花が咲いたように、千夏は明るい表情に変化した。




 千夏の家は、木更津の富士見にあった。富士見は、木更津駅の西側に位置する地域であり、ちょうど広希の家がある祇園地区とは正反対の方向になる。


 江府高校からは充分徒歩圏内だったので、千夏と共に歩いて向かう。


 十分ほどで、千夏の家へと到着した。


 千夏の家を見た広希は、目を丸くする。高級住宅が聳え立っていたからだ。


 フランスモダンなオフホワイトの塀と、それに囲まれた広希の家の倍はある邸宅。電動と思しきガレージまで備え付けてある。


 千夏が富裕層の家庭だと知ってはいたが、いざ目の当たりにすると、住む世界が違う人種なのだと実感する。病院経営とはこれほど儲かるのか。


 広希が呆然と立ち竦んでいると、千夏はおかしそうに微笑み、広希の手を取った。


 「中に入ろう」


 広希は手を引かれながら、門扉をくぐり、敷地内に入った。


 邸宅に備え付けてある玄関扉も、豪奢な木製だった。銃弾くらいなら防げそうだ。


 家の中に入ると、そこで千夏は手を離す。中は、外観通りに豪華だった。ソフトモダン風の廊下に、いくつもの扉が見える。右手側には、ムク材を使ったようなシックな階段が伸びていた。階段ですら高級感が溢れているから驚きだ。


 「今は誰もいないから、緊張せず、ゆっくりしてね」


 千夏はローファーを脱ぎながら言った。


 広希が通された先は、二階にある千夏の部屋だった。上品そうな白い壁紙に、広希の家の居間ほどもある広さ。置かれている小物類は、女の子らしく、ぬいぐるみやキャラクターグッズなど、多様なものがあった。


 「そこに座って待っててね」


 千夏は部屋の中央に置かれたガラステーブルを指し示し、部屋を出ていく。


 広希は千夏の言葉に従い、ガラステーブルの前に置かれた、ネコのキャラクターを模したクッションの上に座る。


 部屋を見渡す。隅には学習机と、その対称にピンクのベッドがある。部屋の入り口の真横にはクローゼットが敷設されていた。


 やがて、千夏は、盆を持って戻ってきた。盆の上には、オレンジジュースが入った二つのグラスが載っている。


 千夏はテーブルにそれを置くと、広希の正面に座った。


 広希は、オレンジジュースには手を付けなかった。


 広希は、ストレートに話を切り出す。


 「例の油絵はどこにあるの? それを貰うためにここにきたんだけど……」


 千夏はすぐには答えず、ゆっくりとオレンジジュースを飲む。そして、口を開いた。


 「ねえ、前に私が話した肖像画についての知識、覚えている?」


 「え? あ、ああ覚えているけど」


 突然、脈絡のない話が始まり、広希は困惑する。千夏が発した、肖像画の知識とは確か、近代以前と以降では作風の趣が違うとか、芸術性がどうとかの内容だったような気がする。絵は、心のフィルターだとも言っていた。


 「広希君の肖像画を描いた後、仕上げをしているとね、何か違うなって、思い始めたんだ」


 千夏は、落ち着いた口調で話している。面談中の教師のような雰囲気だ。


 「それでね、描き直したの。ここ数日の話」


 何を話しているんだろう。広希は訝る。


 そこで、千夏は、切れ長の瞳を真っ直ぐこちらに向けた。鈍い光を放つステンレス鋼を付き付けられたような、冷たい感覚が広希の全身を走る。


 「……それで、絵は?」


 広希は、唾を飲み込みながら訊く。何だか怖い。いざとなったら、オレンジジュースのグラスを投げ付けて逃げよう。


 千夏は頷くと、ゆっくりと立ち上がった。そして、学習机の影から、布に包まれた四角い板を取り出す。


 キャンバスだろう。それを持ったまま、こちらに歩み寄り、広希に手渡した。


 「布を解いてみて」


 再度正面に座った千夏は、そう言った。


 広希はキャンバスを覆っている布を外した。中の油絵が露わになる。


 目に飛び込んできたのは赤色だった。前に見た、黄色とブラウンを基調にした色合いとは違い、前面を血潮のような赤色が支配していた。


 描かれた自分自身の姿は以前のままだが、蛇のように赤い手が首元に伸び、そこに喰らい付いている。そして、その地点から、まるで切り裂かれたかのように、赤い絵の具が、背景へと広がっていた。


 胴体も血に濡れており、ホラーめいた、おどろおどろしい絵と変貌していた。あまりにも趣味が悪い。


 広希は、混迷を極めた目で、千夏を見た。


 千夏は、優しげに口角を上げている。


 「それが、ここ数日の、私の心の中」


 広希は、再び、油絵に目を落とす。そこには、千夏の欲望が渦巻いている。エリザベート・バートリが描いたような、血染めの世界だ。


 広希はキャンバスを脇に置くと、立ち上がった。もう付き合ってはいられない。きたことが、やはり間違いだったのだ。


 「帰るよ。そして絵はいらない」


 広希は、千夏を見下ろしながら言う。千夏は笑顔を崩さない。


 広希は、部屋の扉に向かおうとした。そこで、驚くべきものを目にする。


 扉の横にあるクローゼットが、独りでに開いたのだ。もちろんそんな現象は起きない。中から誰かが押し開けたのだ。


 広希は目を疑った。クローゼットの中から姿を現したのは、達夫と茂だった。つまり、広希がここにくるより前に、クローゼットの中に潜んでいたことになる。


 「なぜ……」


 驚愕に広希が硬直していると、目の前まできた達夫が、ニヒルな笑いを浮かべた。今まで何度も見た、お馴染みの表情。


 「ごめんな。広」


 達夫はそう言い、茂と共に、こちらに組み付いた。

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