第七章 籠の中
壁掛けの時計が午後八時を指した。
克己は妻である梅子と顔を見合わせる。妻の顔は不安げだった。おそらく、自分も同じような表情を浮かべていることだろう。
孫の広希が、未だ学校から帰ってきていないせいだ。広希は部活動を行っておらず、普段は遅くとも六時には帰宅をしていた。遅れるにしても、必ず連絡は入れていた。
それは、帰ってから買い物の手伝いや、料理の手伝いをするためであった。遅くなり、手伝いが出来なかったら、いつも謝っていた。ごめんね、おじいちゃん、おばあちゃん、と。
その孫の帰りが遅いため、非常に気がかりだった。梅子も先ほどから落ち着かず、どうしたのかと憂慮を口にしていた。
克己はテレビに目を向ける。NHKのニュースが流れており、口蹄疫で不足した血液飲料の話題を取り上げていた。血液飲料の不足は深刻化しており、世界中でその影響が出ているようだ。日本ではより被害が顕著で、生産や経済活動が低下しているという。すでに血液飲料が手元にない感染者が、余裕のある感染者を襲い、血液飲料を強奪する事件も起きている。
皆が血に飢えているのだ。
それは自分達も例外ではなかった。近隣で手に入る血液飲料はほとんどなく、現在は買い置きしていた分を、水で薄めて飲んでいる始末だ。これすらいつまで持つかわからない。
今や日本中の感染者が、このような境遇に陥っている。
だが、孫の広希は違う。感染者ではないのだ。そして、だからこそ、心配だった。感染者の歯牙にかかる恐れがある。口蹄疫のアウトブレイクがない時ですら、非感染者はその血を狙われることが多々あった。ましてや、血液飲料が不足しているこの現状では、危険は激増する。
すでに広希は、学校のクラスメイト達に非感染者だと発覚してしまっている。そういった状況下で、帰宅が遅いことを鑑みて、何かしらの事件に巻き込まれたと勘繰るのは、杞憂ではないだろう。
克己は再び壁掛けの時計に目を走らせる。あれから三分ほど経過していた。時計が針を刻むように、刻々と克己の中に不安が募っていく。それは梅子も同様のはずだ。
「どうしたのかしら広ちゃん。スマホにも繋がらないし」
充電が切れたのか、電波の届かない場所にいるのか、広希のスマートフォンに電話が繋がらなかった。電源を落としている、ということはないはずだ。わざわざそんな真似をする理由は思い当たらなかった。
風船のように膨らみ続けた不安は、やがて限界まで達した。焦燥感が生まれ、その感覚が、克己を動かす。
「警察に相談してみよう」
克己は外出する準備を行った。たった一人の孫。息子達から預かった大切な存在なのだ。必ず守ると誓っている。
克己の脳裏に、広希の穏やかな顔がよぎる。広希は今時の若者にしては珍しく、よく家事を手伝ってくれる子だった。優しいのだ。
広希にもしも、何かあったら、自分は自分を許せないだろう。孫一人守れない爺なのだから。
「警察より先に、先生に訊いてみたら?」
梅子がそう言った。心配げな面持ちだ。顔色が貧血を起こしたかのように、白い。
「……そうだな」
克己は梅子から顔を逸らし、考える。いきなり警察に押しかけるよりは、まずは情報を得たほうがいいのかもしれない。もしかすると、クラスの用事で、本当に遅くなっているだけの可能性もある。
確か、広希が所属する二年三組の担当教諭は、神谷早苗という名前の女性だった。三者面談の時、熱心に話を聞いてくれた記憶がある。誠実そうな教諭で、真剣に生徒のことを案じている。そういった姿勢で、印象は良かった。
「まずは神谷教諭に話をしてみよう」
克己は、居間にある卓上電話に手を伸ばした。
監禁が始まってから、どのくらい時間が経ったのだろうか。十数時間くらいの気もするし、すでに二、三日経っているような気もする。時間の感覚が分らなかった。
それはこの場所に、時計がないせいだった。あるのは今自分が寝ているパイプベッドと、部屋の隅に置かれた小さなテーブル、そして天井のライトのみ。
この場所は十畳ほどの部屋だった。壁や天井には、音楽室の壁にあるような有孔ボードが貼り付けられ、そこで音が遮断されるのか、いくら叫んでも外から何の反応もなかった。
広希は、身じろぎを行う。しかし、満足に体を動かせなかった。体はパイプベッドに拘束されている。使われている道具は、精神病患者を拘束するために利用されるような、太くて白いベルトだった。
手の平ほどの幅があるベルトが、コルセットのように腰を覆い、ベッドの左右に取り付けてある。手首と足首にも拘束具が嵌められ、パイプ部分に繋げられていた。
本格的な拘束具であり、いくら暴れようが、もがこうが、まるで抜け出せる気配がなかった。おそらくこれは、実際、病院の現場で拘束に使われる物に違いなかった。千夏の家が病院経営であるために、用意できたシロモノだろう。
他に身に纏っているのは、千夏が用意した簡素な白いTシャツと、介護用のオムツだけだった。オムツ部分は拘束具に覆われておらず、外へと晒されていた。ひどい羞恥心があった。
拘束と監禁の被害に合い、広希は嫌と言うほど実感したことがある。それは尋常じゃないくらいのストレスだ。たまに、精神病患者や、徘徊する認知症の老人に対する身体拘束が人権侵害だと問題になることがあるが、それもわかる気がした。
解剖間際の動物のようにベッドへ貼り付けにされ、身体の一切の自由を奪われるのは、多大な精神的負荷を伴うのだ。根底的に、人間としての尊厳が踏みにじられている感覚を強く感じた。
その上、今の自分には、ストレス増加に拍車をかける行為が加えられている。それは広希が非感染者であるために起こる現象だった。
唐突に、防音施工された部屋の扉が開く。
そこから制服姿の少女が顔を出した。清楚で可憐な顔作り。ティーンアイドルを目指せそうなほどの美少女だ。
「ただいま広希君」
学校から帰宅した千夏が、優しく微笑みかけてくる。その顔を見た広希の中で、恐怖と怒りが湧き上がった。
「ただいま、じゃないだろ! 早くこの拘束を解けよ!」
口を塞がれているわけではないので、声は出せる。部屋の中に、自身の怒声が響き渡った。
千夏は、一切悪びれる様子がない笑顔のまま、悠然と扉を閉める。扉が閉まる瞬間、僅かに部屋の外が見えた。コンクリート製の下りの階段。広希が取り押さえられたのが千夏の部屋で、大して移動した記憶はないため、おそらく、ここは千夏の家に設けられた地下室なのだろう。
部屋に入ってきた千夏は、ある物を手にしていた。
ガラスコップと細いチューブ状の物。採血の際に使われる医療器具だ。
それを確認した広希の背筋が、一斉に粟立つ。怯えに体が震えた。
「大里、何をするつもりだ?」
広希は言葉を擦れさせながら訊く。すでに千夏を『さん』付けで呼んでいなかった。
側に歩み寄ってきた千夏は、楽しそうに答える。
「わかっているくせに。今日もあまり血を飲めていないから、物凄く乾いているんだ。覚悟してね」
千夏はそう言うと、体の横で縛られている広希の左腕に触れた。
直後に間接部にヒヤリとした感触が生じる。これは消毒だとわかった。
「やめろ!」
恐怖が増大し、広希は大きく暴れた。だが、ベッドが揺れるだけで、ろくに身動きすら取れない。本物の拘束具の効力は、絶大だった。
かろうじて動かせる顔を傾け、左腕を見る。千夏が、チューブの先端に取り付けられた針を腕に刺すところだった。
広希は再度もがく。無理に左腕を動かそうとする。
「こら。何度も言ってるでしょ。無駄だって。痛い目見るだけだからね」
千夏は、躾のなっていない子供を叱るような口調で、広希を諭した。
そして、左腕の間接部に、鋭い痛みが走る。血管に針を刺したのだ。小さく呻き声を上げてしまう。
千夏は、チューブのもう片方に取り付けてある注射器状のものを引いた。ガスケットが後退し、たちまち内部に血が溜まっていく。これは、自分の血だ。
一度に抜かれる血の量は大したことがないため、血が減っている感覚はしなかった。だが、紛れもなく、血は体から抜けているのだ。
やがて、内部を満たした血液は、コップに注がれる。同じように何度か血を抜かれ、コップは血で満たされた。
千夏は、腕から針を抜くと、脇に置き、コップを手に持つ。
「いただきます」
千夏は、天使のようにこちらにニッコリと微笑むと、コップに口を付けた。
喉を鳴らしながらそれを飲む。光悦とした表情。千夏の手が喜びで震えているのが見て取れた。
コップの半分まで飲み干した千夏は、血で濡れた唇を拭うことなく、喋り出す。
「非感染者の血って本当においしいわ。それに不思議。家畜の血と違って、少しの量でも長い間持つの。動物と違って、人間のものだから、相性がいいのかな?」
千夏は、そう言いつつ優しく広希の頭を撫でた。嬉しさはまるでなく、屈辱と恐怖のみが心の中にあった。
扉が開く音がした。そして、甲高い声が地下室に響き渡る。
「あっ、千夏ずるいー。もう飲んでる」
明日香が口を尖らせながら地下室へと入ってきた。後ろからは、達夫と茂が続いてくる。全員制服姿なので、学校から直行してきたに違いない。
今この空間に揃っている四人が、監禁の主犯格だった。もちろん広希の血が目的だ。
広希は、恐怖によりぼんやりとした頭で、ふと思う。
今、学校では自分はどのような処遇なのだろうかと。自身が消息を絶ってまだ二日も経っていないはずだが、帰宅をせず、行方不明になったことに変わりがない。何かしら動きがあって然るべきである。
主犯格のこの四人は、学校でどのように振舞っているのだろう。怪しまれる素振りは見せないのか。それとも、そもそも騒ぎにすらなっていないのか。
少なくとも、祖父母は帰らない広希の身を案じているはずだ。特に、感染者からの被害を懸念しているため、行方不明になった以上、真っ先に今のこのような状況を想像するだろうと思う。とっくに警察へ連絡していてもおかしくはない。
すでにスマホは取り上げられているため、連絡はつけようがなく、そこに期待する他なかった。
「まだコップ一杯分しか抜いていないから、まだ飲めるわ」
千夏は、コップの残りを口に含みながら明日香に言う。
「確か、八百ミリリットルだっけ? 人間の出血の限界量」
茂が扉を閉めた後、訊く。茂は顔色が悪かった。血をほとんど飲めていないのかもしれない。行動もニコチンが切れた人間のように、落ち着きがなかった。
「そうね。広希君の体重だとそれくらいが限度かな。このコップが大体二百ミリリットル入るから、後三杯ほど。でも、それだとギリギリだから、飲めて二杯ね」
広希の血を飲み干した千夏は、そう答えた。
「じゃあ、早速、頂いていい? 私、もう限界なんだ」
明日香は、ウィンクをしながら、千夏にお伺いを立てる。目が爛々と輝いていた。
「とりあえず一杯だけね。広希君の様子を見ながらだから、慎重に抜くね」
千夏は、採血チューブを再度手に取った。採血はいつも千夏が執り行っている。
千夏の了承を得て、三人の顔が明るい表情に包まれた。
広希の胸中に、暗い闇が押し寄せた。また血を抜かれるのだ。
「もう、止めて……。しんどいんだよ」
広希は懇願するが、誰も聞いてくれなかった。ここに監禁された当初から、いくら説得を試みても無駄に終わっていた。捕食者に対する命乞いに効力はないのだ。
また、叫び声が外に通じないのは、ここが地下で、防音施工されているせいなのはわかったが、千夏の家族にまで発覚しないのはありえなかった。
その答えは以前、すぐに判明し、千夏はあっさりと告白した。
千夏の両親もグルなのだと。広希の血を分ける条件で、協力し、外へ監禁が発覚しないように取り計らっているのだ。この地下室も両親の手によるものらしい。
左腕に痛みが生じ、広希は体を跳ね上げる。四人の顔を見ても、こちらを気遣う者はいなかった。
血液が注射器の中を満たしていく。
茂が耐えられない様子で口を開く。
「俺に先に飲ませてくれよ。昨日は俺、広希の血飲んでないし、今日も血液飲料は薄めたやつしか口にできていないんだよ」
茂の願いに、達夫が唾を飛ばしながら、叱咤する。
「それは誰でも同じだよ。俺も血をろくに飲んでいないんだぞ」
「お前は昨日広希の血を飲んだじゃないか!」
茂は食って掛かった。達夫は、威嚇する獣のように目を吊り上げる。
「うるせえよ。馬鹿。おまけで血を飲ませて貰っていることを忘れるなよ」
二人の間に、険悪な空気が流れる。明日香が、割って入って、宥めた。
千夏は、そのような二人など意に介さず、淡々と血を抜いている。随分と血が減少したので、眩暈がした。
オムツの中が生暖かい。いつの間にか失禁したようだった。排泄物は、千夏が処理をしている。それは、あまりにも屈辱的な処遇だった。
血が溜まりゆくコップを見ながら、気が狂いそうになる自分がいることを広希は自覚していた。いつまでこの精神が持つのだろう。暗澹たる絶望の海に、広希の意識は沈み込んでいった。
昼食を終えた諸井早紀は、自身の席で、薄めた血液飲料を飲んだ。だが、喉の渇きに似た禁断症状は、大して改善されず、純粋な血液飲料を飲んだ時のように、芳醇な味も、体に行き渡る瑞々しい満足感も得られなかった。
もうすでに所持している血液飲料は底を尽きかけており、また、どこを探しても血液飲料を入手するのは困難であったため、無理に薄めて長持ちさせるしか血を飲み続ける方法はなかった。
それは早紀の両親や兄妹も同じであり、ひいては、日本全国がそのような状況に陥っている。
江府高校の現状も惨澹たるもので、禁断症状に見舞われた生徒が多数いた。それは、麻薬中毒患者を思わせた。すでに休学している生徒も少なくなく、高校の運営がまともに行えないため、数日後には学校閉鎖になると朝のSHRで神谷からの伝達があった。
中間試験が間近に迫っているにも関わらず、全クラス休校すると言うことは、それどころではないということなのだろう。
そう言えばと、早紀は思い出す。その時の神谷を見て、不思議に感じたことがあった。禁断症状がほとんどなさそうなのだ。教師も生徒同様、血液不足に見舞われており、喜屋武を始め、不安定な精神を露骨に表わす者もいた。
神谷はそうではなく、平静な精神を維持しているのだ。ストックしている血液飲料に余裕があるのかな、と早紀は解釈した。羨ましいな。
薄めた血液飲料が入ったリサ・ラーソンの水筒をリュックにしまうと、早紀は教室を見渡す。
クラスメイト達が、限られた昼休みの時間をそれぞれ好きに過ごしている――談笑したり、じゃれ合ったり、一人で読書を行ったり――は以前までの話だった。
今は、陰鬱な雰囲気が漂うばかりだ。血液が摂取できないために、皆は一様に体調が悪そうで、笑い声や、話し声も少なかった。おそらく自分も皆と同じように、ひどく顔色が悪いに違いない。
禁断症状によるフラストレーションも増すばかりで、受験間際のようにピリピリとした張り詰めた空気も肌で感じ取れた。暴力行為やトラブルも増加しており、それらも学校閉鎖の一因となっている。
ただ、例外の人間も何人か存在していた。その人間達は、神谷のように、保持している血液飲料に余裕があるのか、平静を保ったままだった。
このクラスで言えば、千夏や達夫、茂がそれに当たる。後は明日香か。
茂は、昨日までは、他の生徒と変わらず、顔色が悪かったのだが、今朝は精神状態は良好のように見えた。何かおかしい気がするが、どこかからか血液飲料を入手できたのかもしれない。
早紀は、隣の席に目を向ける。
そこには広希の席があった。知り得る限り、唯一の非感染者。今は、机のフックに何も掛かっておらず、席の主が不在であることを示していた。
広希は、四日前から学校を休んでいる。神谷の話によれば、風邪らしいのだが、随分と長引いているように思えた。SNSでメッセージを送ったものの、未読状態のままで、返信はなかった。スマホを使う余裕すらないほど、重篤化しているのだろうか。心配だ。
早紀は、席から立ち上がった。重苦しい教室の中に、いつまでもいたくはなかった。そのまま教室の扉へ向かう。もっとも、全校生徒、似た状態なので、どこに行こうとも大して違いはないのだが。
廊下に繋がる後ろの扉を通過しようとした時、近くから気になる単語が聞こえた。名詞だ。
「……広希……」
チラリとその声が聞こえた方向を確認すると、千夏の席からだった。千夏の席に、達夫や茂、明日香がたむろしている。最近、この四人は、行動を共にしていることが多いようだった。
「……美術部の人を連れて行く……」
最後に聞こえたのは、千夏のそんな言葉だ。後は、教室を出てしまい、聞こえなくなる。
千夏達の会話が妙に気になった。前後の文脈はわからないが、広希の話をしていたことは確かなようだった。
その気がかりは、午後になっても、しこりのように、いつまでも残った。
放課後。早紀は帰り支度を済ませた。今は中間試験直前の部活動休止期間であるため、部活にいくことはない。
しかし、その中間試験前に学校閉鎖が行われるので、結局のところ、部活動休止は意味がないのである。せめて、中間試験の後に閉鎖するべきだと思ったが、休学している生徒も多く、血液不足のせいで学力も低下していることから、試験自体に充分な成果を上げられない可能性が高い。そのため、むしろ学校側の配慮として、中間試験直前での高校閉鎖となったのだろう。
早紀は、クラスメイトの友人達と連れたって教室を出た。いつもは和気藹々といつでもどこでも話が弾むのに、血液不足になってからは、会話も少なく、盛り上がることが滅多になくなっていた。
校門まで一緒に行き、そこで友人達と別れる。早紀の家は、友人達とは別方向だった。
見慣れた通学路を歩いていると、前方に、知った後姿が見えた。絹のような綺麗な後ろ髪。スタイルのいい姿は、おそらく千夏だろう。
千夏は、数名の生徒達と一緒に歩いている。顔を確認したわけではないので、誰かはわからないが、どれも女子の制服を着ていた。千夏を入れて、全部で四人。後姿からは、皆知らない人間のように感じた。
彼女達は大通りの方へ向かっていた。その大通りは『あけぼの通り』と呼ばれ、駅へと直接アクセスが可能なメインストリートだ。
そう言えば、千夏の家は、木更津駅から西側の、富士見にあると聞いたことがある。そのため、『あけぼの通り』から直接、駅へと向かうルートを取るのかもしれない。
早紀の家は、南側の桜町付近にあるため、駅へはいかない。
千夏達は『あけぼの通り』へと出た。そこまでは、自分も向かう方角は同じなので、その後ろを追う形で歩く。
そして、千夏達は、駅の方へと曲がり角を曲がった。四人の姿が見えなくなる。早紀の予測通り、『あけぼの通り』のルートに乗り、駅へと向かうのだろう。
自分の家はこのまま真っ直ぐ進んで、『あけぼの通り』を越えた先にある。つまり、もう千夏達の後ろを歩かず、別方向へ進むことになるのだ。
早紀は瞬間、悩んだ。なぜかは自分でもわからない。だが、どうしても、千夏達のことが気になった。教室でも同じだった。逆棘のように、喉の奥に違和感が引っ掛かっているのだ。その根源が掴めず、頭の中がむず痒くなった。
気が付くと、自然に駅の方へと足が向いていた。再び千夏達の後方へと付き、『あけぼの通り』の上を歩く。
今はまだ時間帯が早く、日が高い。あまり近付き過ぎないように心掛けながら、後を追う。周りは似たような姿の江府高校生が沢山いるので、すぐにこちらを識別することは不可能なはずだ。
やがて、千夏達は木更津駅を通過し、富士見地区へ入る。てっきり、駅構内の店に立ち寄るものだと思っていたが、勘違いだったようだ。
富士見に入ってから、なぜか千夏は、周囲を気にする素振りを見せ始めた。幸い、人通りが少なくなったため、さらに距離を保つようにしていた。そのお陰か、千夏達はこちらに気付くことはなかった。
しばらく後ろに付いていた成果で、千夏と共に歩いている人物達の容貌が少し把握できた。
一人はポニーテールの髪型をした女子生徒だ。ストッキングを履いた大人びた人で、上級生のように思われた。もう一人は、お下げ頭の眼鏡をかけた真面目そうな女子。そして、残る一人は、小柄で、ベリーショートの元気そうな生徒だ。後の二人は、少し幼げな印象があるため、下級生かなと思う。
年齢もそれぞれ違うようなので、もしかすると美術部の部員達なのかもしれない。親しげな印象もあった。
ほどなくして、四人は一軒の家へと辿り着いた。
その家を見た早紀は、目を見張った。とても大きい家だった。白い塀に、オフホワイトの建屋。それは小さな城を思わせた。
これが千夏の家らしかった。病院経営者の一人娘だと知ってはいたが、その肩書きも伊達ではないということなのだろう。
四人は、千夏に案内されながら、敷地内へと足を進めている。さすがにそこまでは追えないため、近くの民家の塀に身を隠し、そっと様子を伺う。
辺りはまだ明るいので、慎重に行動しないと、こちらの姿が筒抜けになってしまう。注意しないと。
美術部員らしき生徒達は、千夏に促されながら、家の中へと吸い込まれるようにして入っていく。皆、その他の血液不足の感染者のように、顔色は悪いが、表情がとても朗らかだった。誰もが遊ぶ余裕すらない状況で、これから何をするのだろうと疑問が浮かぶ。
その時、ポニーテール頭の女子生徒が、急にこちらへ顔を向けた。早紀はとっさに顔を引っ込める。不意の出来事で、心臓が跳ね上がった。一瞬、目が合ったような気がする。気のせいか。ばれていないよね? 不安に、心臓がバクバクと音を立てて鳴っている。
すぐにここを立ち去る考えが頭をよぎった。
だが、どうしても、体が従わない。高鳴る心臓を宥め、少しだけ間を置く。そして再度、そっと塀から顔を出し、千夏の家の様子を確認した。
そこにはもう誰もいなかった。皆家の中に入ってしまったのだろう、高級住宅の広い玄関ポーチだけが目に付いた。
どうやら目が合ったのは、こちらの錯覚だったようだ。運よく、追跡は気付かれることなく済んだらしい。早紀は、胸を撫で下ろす。
千夏達が家の中に入ってしまった以上、どうすることもできなかった。さすがにインターホンを鳴らすわけにはいかないだろう。
結局、大した意味のない探偵ごっこは終わりを迎え、早紀は、思案した。このまま家に帰ろうかとも思う。血が飲めていないため、体の疲労感が強かった。活動は控えたほうがよい。
しかし、もう一つ、気になる点があった。広希のことだ。広希は今、どうしているのだろう。
広希の家は、確か祇園地区にあったはずだ。少し前に、用事ついでに立ち寄った記憶がある。その時は家の前までだが、記憶には残っていた。応対したのは、広希だけだが、聞いた話だと、祖父母と共に暮らしているらしい。
早紀は、広希の家に向かうことにした。その場を離れ、再び駅の方へと歩き出す。
広希の家は、千夏の家がある富士見とは正反対の方向にあるため、随分と歩かなければならなかった。
祇園地区にある広希の家に着いた時には、日は随分と傾いていた。血液不足からくる疲労も、ピークに達しており、途中で何度か薄めた血液飲料を飲むが、大して改善されなかった。
早紀は、広希の家を見上げる。古い木造住宅のようだ。古いものの、造りはしっかりしているようで、お寺のような立派な雰囲気を持っているように感じる。
家は静まり返っており、人がいる気配がなかった。
試しに、インターホンを鳴らしてみるが、反応がなかった。出掛けているのだろうか。少なくとも広希は風邪で寝込んでいるはずなので、無人ではないと思うが……。
その後も、何度かインターフォンを鳴らしてみるものの、反応なし。早紀は諦めて帰ることにした。
何か嫌な予感がした。早紀は自分の家に向かいながら、その思いに襲われる。暗闇の中で、得体の知れない化け物が、動き回っている感覚に似ていた。自らの与り知らぬところで、獣が牙を剥き、群れの仲間を貪っていく。
早紀の脳裏には、闇夜を渡るドラキュラのイメージが浮かび上がっていた。ブラム・ストーカのドラキュラではなく、シェリダン・レ・ファニュのカーミラだ。美女のドラキュラが、仲間をさらい、街の闇に溶け込む。
血が飲めていないために起こる夢想が、頭を巡る。水筒から血を飲むが、その夢想は消え去ってはくれなかった。
早紀は、血のように赤く染まっている夕日の中を、言い知れぬ不安を抱えたまま、家へと向かって歩いた。
翌日、千夏から声をかけられた。今日の放課後、自分の家に来ないかとのことだった。
そろりと、疑心が鎌首をもたげる。
「どうして?」
早紀は、質問を行った。千夏から自宅への誘いを受けるのは初めてである。
「ちょっと見せたいものがあるから」
千夏は、疑わしさを微塵も感じさせない様子で、そう答えた。相変わらず、他の感染者とは違い、顔色が良い。
見せたいものとは、一体、何だろう。早紀は、それについて問い質すが、見てのお楽しみとの一点張りだった。
早紀は逡巡する。千夏の件で気になることはあった。だが、何となく気が進まない。
一考した末、早紀が出した結論はこうだった。
「明日なら大丈夫だよ」
その答えに、千夏は、満足したように頷く。そして、また明日の放課後、声をかけるからと言い残し、この場を去る。
一日だけ間を置いた理由は、自分でもわからなかった。
なぜか、頭の中に、『杭』の姿形が思い浮かんでいた。吸血鬼の心臓に打ち込み、絶命させる道具である。
そのイメージが、鋭いナイフへと変貌した。家のキッチンに、果物ナイフがあったことを早紀は思い出す。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます