第八章 血染めの館

 「はい。あーんして」


 千夏が、あやすような口調でスプーンを目の前に突き出す。スプーンの上には、細かく切ったレバーと、炒めたもやしが乗っていた。


 体を拘束されているため、ここでの食事は千夏に食べさせて貰う形になっている。


 しかし、その不自由な環境を作り出した張本人から給餌を受けるのは、大きな抵抗があった。


 広希は、口を閉じ、じっとしたまま、千夏の――おそらくは――手料理を固辞する姿勢を取る。


 それを見て、千夏は呆れた声を出した。


 「もう、いつも言っているでしょ。反抗しても無駄だって。どう足掻いてもここからは出すつもりはないから」


 それに、と千夏はスプーンを持ったまま、続ける。


 「精をつけないと持たないよ。血を抜かれているんだから」


 千夏はまるで他人事のように言うと、スプーンをこちらの唇へと付けた。


 このままでは無理矢理ねじ込まれそうだったので、仕方なしに口を開け、スプーンの上の料理を口に含む。


 レバーはあまり好きではなかったが、体力を持たせるため、咀嚼して胃に収める。


 それを確認した千夏は、満足そうに目を細めた。そしてレバニラ炒めと白米を交互に与えてくる。


 それらを食べ終えた広希に、食器を片付けながら、千夏は言う。


 「そうそう。後で、ある人がくるからね」


 「ある人?」


 広希は掠れた声で聞き返す。


 千夏は首肯した。


 「うん。今までは、抜いた広希君の血の残りを渡していただけなんだけど、それじゃあ少ないし、新鮮ではないってうるさくって。だからここに招待して、直接採ったばかりの血を飲ませてあげることにしたんだ。協力者だしね。だからまた血を抜くから、我慢して頂戴」


 千夏は、ウィンクしながら、こちらの頭を撫でる。広希の顔が不安に曇ったことを、千夏は見逃がさなかった。


 「安心して。さっき私が血を貰ったから、後はせいぜい一杯くらいしか採らないよ」


 一杯だろうと、苦痛には違いがなく、そこは遠慮するつもりがないようだ。


 やがて、千夏は部屋を出て行った。静かになった部屋で、広希はぼんやりと天井を見上げる。


 とは、一体誰だろう。協力者らしいが、何をしたのか。


 頭の中で、ある程度模索を行うが、眩暈のせいで、思考がおぼつかなかった。


 軽い船酔いに似た感覚が、自身を襲っている。


 これは貧血からくるものだ。千夏が言ったように、先ほど血を抜かれている。それだけではなく、毎日続く採血のせいもある。完全に回復するより前に、血を抜かれているため、常に血が足りないのだ。


 後からやってくるという、協力者のことを考える余裕がなかった。


 広希は、身じろぎを行う。


 体中に痛みが走った。身体拘束による影響のせいだ。長い間、同じ姿勢を保ち続けると間接は固まり、鈍い痛みが生じる。このままだとより深刻化するのは目に見えていた。たまに千夏が達夫達を伴って、体位変換を行ってくれるが、それも焼け石に水だ。


 長期化している監禁は、非常に苦痛があった。どれくらい日数が経ったのかすら、もう把握が難しい。千夏に訊いても、教えようとはしなかったし、他に日付を確認できる方法もなかった。そのため、相当時間が経過したように感じる。せいぜい一週間足らずかもしれないが、自分の感覚では、一ヶ月近くは経っているように思えた。


 広希の精神は、疲労困憊しつつあった。長期間の拘束と監禁に加え、強制的な採血によるストレスは、広希の心を研磨機にかけたように、確実に削り取っていった。頭が正常に働かず、夢遊病者のようにおぼろげな思考能力へと、著しい低下の道を歩んでいた。


 こうなる以前、あまりにも抵抗がひどい広希に対し、千夏が精神安定剤を飲ませたことがあった。その時も、頭がぼんやりとし、物事を上手く考えられなくなった。その時と今は感覚が似ているが、違うのは、薬の場合は、精神的苦痛を感じられなくなった点だ。それを踏まえれば、広希としてはせめて苦痛から逃れるために、薬の処方を望むのだが、千夏は一度使ったきり、二度と使おうとはしなかった。理由は、血が不味くなる、というものだ。


 千夏達は一向に広希を開放する素振りを見せなかった。まるで乳牛からミルクを絞るように、血を抜き、美味しそうに飲んでいる。彼女達が自分を見る目は、まさに家畜に対するそれだった。


 絶望と苦痛の中に沈んでいる広希だったが、一縷の希望があった。


 それは祖父母のことだ。自分が行方不明になってから、随分と時間が経っている。すでに警察へ捜索願いを提出したはずだ。高校へも連絡をしているに違いない。


 いずれは、警察がここへ踏み込むはずだ。祖父母が助けてくれる。きっと。そうなれば、お前らは終わりだ。


 広希は、眩暈に襲われながら、心の中でそう呟いた。




 どうやらいつの間にか眠っていたらしい。


 腕に、チクリとした痛みが走り、広希は跳ね上がった。正確には拘束されているので、ほとんど体は浮き上がらず、大きな痙攣をしたような形になっただけだったが。


 ハッと目を開けた。千夏が側で、腕に針を刺していた。連日続いているように、血を抜き始めているのだ。


 視線の先に、別の人物がいた。見知った顔だった。


 神谷がそこにいた。二年三組の担任教師。ジーパンにTシャツというラフな格好だ。


 これが、千夏の言う『後でくる人』なのだろう。つまり協力者とは、神谷のことだったのだ。


 神谷は、目が覚めた広希を確認すると、笑みを浮かべた。


 「久しぶりだな。架柴。調子はどうだ?」


 神谷は、悪戯っぽく言う。


 広希は、軽い衝撃を受けていた。本来は生徒を守る立場の人間だ。それがグルだったとは。以前から、こちらの血に興味を示していたのは知っていたが、ここまで堕ちるとは思わなかった。


 それに、何度か広希の血を貰っていたということは、当初からこの監禁のことを知っていた可能性もあった。何てことだ。教師のクセに。


 血を抜き終わった千夏から、神谷は、コップを受け取った。そしてそれを一気に飲み干す。神谷は、広希が初めて見るほど高揚感溢れる顔になった。


 「ごちそうさま。やはり新鮮な血は美味いな」


 神谷は、空になったコップを千夏に手渡しながら、満足気に言う。唇が血で汚れ、それをハンカチで拭った。度重なる採血による眩暈を起こしながら、広希は神谷を見つめる。


 「こうやって飲ませたから、またよろしくお願いしますね」


 千夏は、教師である神谷にそう言った。どこか上から目線の口調だった。


 「ああ、わかっている。監禁が発覚しないように、今まで通り協力するよ」


 神谷は頷いた。


 広希は、二人のやり取りを聞き、ある程度察する。おそらく、神谷は、広希が行方不明であることを学校側に知られないよう、何らかの手回しを行っていたということだ。それが、この監禁が長引いている一因であると思われた。


 しかし、それでも疑問が残る。いくらなんでも限度があるはずだ。祖父母はすでに、警察に相談しているのは疑いようがない。そうなると確実に学校側に連絡がいく。それを神谷一人の力で封じ込めることなど、不可能ではないのか。どのようなトリックを使ったのだろう。


 広希の猜疑に包まれた視線を受けて、神谷は、何かしら悟ったようだ。


 悠然とした風情で、口を開く。


 「どうした? 架柴。何か言いたいことがあるのか?」


 広希は、言う。


 「……いずれ警察がくる。すでにおじいちゃんとおばあちゃんは通報しているはず。こんなこと、いつまでも続かない」


 搾り出した広希の言葉に、神谷は、突然破顔した。おかしそうに吹き出す。


 「ああ、お前、まだ知らないのか。大里、お前言ってないんだな」


 訊かれた千夏は、肩をすくめながら答える。


 「言う必要がないと思って。監禁には支障がないし」


 「いかんな。報連相は大事だぞ。この間の課題授業で習っただろう」


 「ごめんなさい」


 千夏は、舌を出した。


 一体、二人は何を言っている? 広希の中で、不安が、急激に膨らんだ。物凄く嫌な予感がする。


 「まあ、いい。この際だから、教えておこうか」


 神谷は、拘束されている広希のベッドに歩み寄ると、ベッドに腰掛けた。脇腹のすぐ横だ。


 神谷の顔がはっきりと見える。最後に神谷を見た時とは違い、化粧をしていなかった。あるいは、薄化粧か。


 神谷の気の強そうな目が、広希を捉える。


 「お前がこいつらに拉致された夜、私に電話があってな」


 神谷は、静かに語り出す。


 「お前の祖父母からだったよ。孫が帰ってこないから心配だとね。警察に相談しようと考えている最中だと言った」


 「……」


 拘束されたまま、広希は、顔を上げて神谷の話に聞き入っている。やはり祖父母は広希の身を案じて、すぐに行動へ移したようだ。だが。


 神谷は続ける。


 「私はこうアドバイスしたよ。『まだいなくなったとは限らない。だから警察に相談するのは早い。私も担任としての責任があるから、とりあえず、今から会って話そう』とね」


 神谷は、なおも落ち着いた口調で喋っている。


 「私が指定した場所は学校だった。お前の祖父母はノコノコ現れたよ。孫を心配する気持ちが強いあまりか、私を疑ってはいなかったな。まあ、教師という立場があったお陰もあるかもしれないが」


 神谷の声が部屋に響き渡る中、広希の心臓の鼓動が、次第に早くなっていく。まさか。そんなことは……。


 「お前の祖父母がくるより前に、私は木橋達に連絡した。そして、先に学校へ到着した。お前の祖父母と私が顔を合わせたのは、その後だ。私はその二人を学校の応接間に連れて行った。学校には他に誰もいなかったのは、我々にとって、僥倖だったな」


 話の方向が、絶望的な方向に進んでいっていることを察し、広希の息が荒くなる。その先は、聞きたくなかった。


 だが、神谷の話は終わらない。


 「いやいや、少し揉めたよ。お前の祖父母は、警察に捜索願いを出すとの一点張りでね。いくらこっちが説得しても無駄だった。特に祖父がやっかいでね。何が何でも捜し出すと強気だった。だから」


 神谷は、顔を近付けた。息が掛かる。血の臭いだ。先ほど飲んだ、自分の血液。


 神谷は、広希を地の底に落とすクリティカルな言葉を吐いた。


 「殺してしまったよ。せっかく非感染者の血を飲める環境が整ったんだ。それを逃すわけには行かない。皆が血液飲料が足りずに、血に飢えているんだ。仕方がないだろう?」


 「嘘だ……」


 広希は、呆然と呟く。そんな馬鹿な。ありえない。そんな簡単に人が殺されてたまるか。


 しかし、神谷は無常にも首を振った。


 「嘘じゃない。見せてやろう」


 神谷は、ジーパンのポケットから、スマートフォンを取り出した。画面を操作し、こちらに向ける。


 広希の目が見開かれた。


 そこに写っていたのは、祖父母だった。応接間の物らしき革張りのソファの足元で、無造作に転がっている。顔は浮腫んだように膨れ、舌が蛇のように突き出ていた。


 人目で死んでいることがわかった。


 「あ、あ……」


 広希は口を魚のようにパクパクさせた。今見たものが信じられない。まるで夢の中のように、現実感が乏しかった。


 神谷は、スマートフォンをポケットにしまうと、注釈した。


 「言っておくが、殺したのは私ではないぞ。木橋達夫と桑宮茂だからな。二人は高校生だが、相手は老人だったからな。簡単に殺していたぞ。もっとも、死体は私の車を使って、山奥に捨てたが」


 広希は、強い眩暈に襲われた。貧血のせいではなく、ショックのせいだった。息が荒れ、過呼吸のように喘ぐ。近くにいる千夏は平然とした様子で、それを眺めていた。


 祖父母が殺された。仲の良いクラスメイトから。そして、抱いていた一縷の望みは、これで絶たれたことになる。祖父母は警察へ知らされる前に殺されたからだ。


 大きな衝撃に悶えている広希へ、神谷がこっそりと耳打ちした。


 「お前も選択を誤ったな。私があの時、血をくれれば守ってやると伝えただろう。それに従えば、こんな目には遭わなかったんだよ。お前も祖父母もな」


 神谷は、邪な笑みを浮かべた。獣のような残忍さが醸し出されている。


 広希は、ようやく心の底から悲鳴を上げた。絶望に打ちひしがれた、悲痛の叫びだ。




 放課後、早紀は昨日と同じように、千夏から声をかけられた。


 「諸井さん、準備はできているかしら?」


 千夏は、お淑やかに訊く。早紀は頷いた。再度理由を尋ねようと思ったが、昨日と同じく、答えはないだろうと予測し、口を噤む。


 出発しようとした際、早紀は、千夏に断りを入れて、トイレへと向かった。


 トイレ内の個室に入り、背負っていたチャムスのリュックを下ろす。そして、予め家から持ってきたある物を中から取り出した。


 貝印の果物ナイフだ。黒い樹脂性の柄に、それと同じ素材の鞘が嵌っている。


 鞘から本体を抜き出すと、ステンレス鋼でできた刃物が剥き出しになる。トイレの照明を受け、銀色に鈍く光った。


 どうしてこれを用意したのか、自分でも良くわからない。護身用のつもりだったのかもしれない。そうだとしても、物騒な気がする。しかし、必要だと思った。


 早紀は、果物ナイフを鞘に戻し、今度は制服の内ポケットに入れた。外から制服を撫で、不自然に膨らんでいないか確認する。元々小振りで、平べったいため、外から見ても全く目立たなかった。


 早紀は、リュックを背負い、個室を出る。外で待っていた千夏に謝りを入れ、共に歩き出す。


 学校を後にして、先日通った道をもう一度通り、千夏の家を目指す。これは、千夏達の後をつけたお陰で、知っているルートだ。だから、それを悟られたらまずい。そのため、千夏に従うフリをしながら歩く必要があった。


 幸い、千夏はそれに気付く素振りを見せなかった。そもそも尾行自体、感知されていないのだ。怪しまれることはないはずである。


 千夏と共に『あけぼの通り』を渡り、木更津駅へ。そして、そのまま富士見地区へと入る。


 やがて見覚えのある高級住宅が見えてきた。オフホワイトの家。これも知らないフリをし、早紀は感嘆の声を上げる。


 千夏は言われ慣れているのか、愛想笑いのような表情を浮かべ、敷地内へと招き入れた。


 この前は、美術部員らしき人達がこうやって案内されていた。一体、何があるのだろうと思う。未だ千夏は、早紀を誘った理由を話そうとしなかった。


 重厚な木製の玄関扉を開け、千夏はこちらを先に通した。家の中を見た早紀は、先ほどと同じように、感嘆の溜息をつく。こちらは演技ではなく、本音だった。


 中は広く、明るく照明を反射する綺麗なフローリングの廊下に、いくつもの扉が並んでいる。右手に上へと登る階段があった。二階もここと同じく、立派な造りなのだろう。


 どこを見ても、テレビで観るような豪華さが溢れ出ていた。


 「立派な家だね」


 早紀は呟く。後ろで、千夏が、玄関扉を閉める音が聞こえた。


 「さあ、上がって」


 千夏はそう勧めた。それに従い、ローファーを脱いで、フローリングへ足を踏み入れる。


 これからどこへ行くのだろうか。目的は何?


 早紀は千夏の次の言葉を待った。そして、千夏は、喋り出す。


 それは予想外の内容だった。


 「ねえ、諸井さん。この前、私達をつけていたでしょ」


 不意の指摘に、早紀はドキリとする。つい目を泳がせてしまった。失敗だと思う。


 ばれていたのか。もしくは何かしら悟るものがあったのか。今の今までそのことを口にしなかったため、完全に気付かれていないと思い込んでいた。


 怪しまれる反応を見せてしまったが、それでも否定をした。


 「ううん。そんなことしてないよ。どうしてそう思うの?」


 自分では上手く動揺する感情を抑えながら言ったつもりだったが、千夏には通じなかった。千夏は、余裕綽々で首を振る。そもそも、何かしら確信を持っているような様子であった。


 「とぼけても無駄よ。見た人がいるの。諦めて認めなさい」


 凛とした表情で、千夏はそう言った。早紀は目を瞑りたくなった。やはりあの時、ポニーテールの女子生徒に目撃されていたのだ。


 このまま嘘を貫き通しても無駄だと思った。早紀は大人しく認めることにした。


 「ごめんなさい。確かに後をつけてたよ」


 早紀の謝罪に、千夏は怒らなかった。むしろ機嫌よく応対する。


 「気になる?」


 「え?」


 「皆……あの時は美術部の人達ね、その皆が何をしにここにきたのか」


 核心に触れる話だ。早紀は、少し間を置いて、頷いた。


 千夏は、意外な方面からアプローチを掛ける。


 「諸井さん、血、足りてる?」


 思いがけない内容に、早紀は目が点になる。そして、反射的に頬へ手を触れた。千夏が言うように、もちろん血は飲み足りていない。顔色からもそれを看過できるだろうし、今や日本中の人間がそうなのだ。


 何を今更。早紀は、肯定した。


 「その通りだけど、それがどうしたの?」


 「ううん。それならお勧めできるなって思って」


 「どういうこと?」


 千夏はそれには答えず、着いてきて、と一言だけ言い、こちらを手招きした。


 心の中にモヤモヤしたものを生じさせながら、早紀はそれに従った。


 千夏は、家の奥へと進んで行く。早紀は後ろに付いて歩いた。


 家の中は静まり返っており、人の気配がしない。千夏は一人娘だと聞いているので、おそらく両親との三人暮らしだ。今の時刻はまだ早く、両親共仕事から帰ってきていないのだろう。つまり、現在、家にいるのは千夏と自分だけ、らしい。


 やがて千夏は、一つの扉の前で立ち止まった。その扉は他のと違い、スチール製だった。ちょうど、視聴覚室の扉のような。


 その物々しい外観に、どこか邪悪さを早紀は覚えた。


 「入りましょう」


 千夏は、扉を開いた。その先は下へと下っている階段だった。打ちっ放しのコンクリート。地下室へ通じているらしかった。


 千夏が先にこちらを通す。早紀は大人しくそれに従った。


 階段へ入ると、千夏はスチール製の扉を閉めた。薄暗くなるが、天井にはライトが取り付けられているので、問題なく見通せた。


 再び千夏と入れ替わり、前になる。そして階段を下り始めた。


 早紀も同じように階段を下りる。足が震えるのを自覚した。何だか怖かった。このまま引き返し、帰ってしまおうかと思う。だが、なぜかそれはできなかった。どうしても、この先にあるものが見たかった。見なければならない気がした。


 階段の突き当たりには、上と似たような扉があった。これまたスチール製の防音扉。上よりも重厚な造りのように感じる。


 千夏は、その扉に手を掛け、開く。そのまま地下室の中に入る。早紀も後に続いた。


 地下室は十畳ほどの広さだった。壁には、音楽室のような穴だらけのタイルが貼り付けてある。


 そして、早紀は硬直する。早紀は見たからだ。部屋の中央にあるものを。


 部屋の中央にはベッドが置かれ、その上に、人が白いベルト状のもので拘束されていた。以前、昔の精神病院を写した写真を見たことがある。乱暴狼藉を働く患者を抑えるために、ベッドへ貼り付けにしているのだ。残酷ささえ感じるその風景と、今の風景が重なった。


 これは一体、何? そう思った直後、早紀はさらに衝撃を受けた。拘束されている人物が、誰なのか把握したからだ。


 それは広希だった。風邪で休んでいるはずの広希がここにいる。


 「広ちん!」


 早紀は思わず悲痛な叫び声を発した。あまりにも痛々しいその姿に、早紀は吐き気すら催す。


 広希は泣いていた。苦痛と悲哀がその顔に表れていた。極めて惨たらしい。


 そして早紀は、ハッと気付く。ショッキングな光景を目の当たりにして目に入らなかったが、部屋には、千夏と自分以外に人がいた。


 明日香と茂だった。二人共薄ら笑いを浮かべている。この悲惨な環境に、平然と身を置いていた。どうしてそうしていられるのかわからなかった。


 「どうして!? これはどういうこと?」


 早紀は、千夏に食って掛かった。しかし、千夏は何食わぬ風情で答える。


 「見ての通り、ここに監禁して、血を貰っているのよ」


 「何それ? そんなこと許されるわけないじゃない!」


 「私達だってそんなことわかっているわ。でも仕方ないでしょ? 血液飲料が足りないんだから。もう飲める血がないの。非感染者から採るしかないわ」


 「だからって、こんな真似……」


 早紀は、広希に目を向けた。広希は、涙を流しながら、辛そうに顔を歪めている。口枷はされていないので、声は出せるはずなのだが、もうその元気すらないのだろう。肉体的負担よりも、精神的な辛さが影響を及ぼしているようだった。


 早紀は、他にいる二人を指差した。


 「あなた達も共犯なの?」


 早紀が訊くと、二人は同時に頷いた。


 茂が最初に答える。


 「俺は達夫と一緒に監禁を手伝ったんだ。だから血を飲ませて貰っている。達夫がメインだったけど、その権利はあるよ」


 次に明日香が無邪気そうに答えた。


 「私は広希が非感染者だと発覚するきっかけを作ったから、という理由かな」


 「美術部の人達は? あの人達も広ちんの血を飲んでいたの?」


 千夏は首肯する。


 「ええそうよ。彼女達は私の好意で飲ませたわ。前から広希君の血に興味を示してたみたいだし」


 「もしかして神谷先生も?」


 「よくわかったわね。その通りよ。先生には学校側の隠蔽を任せているわ」


 何ということだ。早紀は、愕然とした。それほど多くの共犯者がいるとは。しかも、それだけの人数が関わっておきながら、一切この犯行が露呈していないことにも驚きを隠せない。皆、確実に箝口令を厳守しているのだ。それだけ広希を逃すつもりがないことの表れだと思われた。


 そして何より、クラスメイトを拉致監禁し、血を無理矢理採っているのに、微塵も罪悪感を見せない点に、狂気すら感じた。血液を摂取できていないことによって、根源的な血を求める欲求に、歯止めが利かなくなっているのだろうか。理性を凌駕する感染者の本能が垣間見れた気がした。


 そして、自分は――。


 唾を飲み込み、早紀は尋ねる。


 「どうして私を誘ったの?」


 千夏は微笑んだ。


 「あなたが色々嗅ぎ回っているみたいだったから、発覚する前に、味方に引き入れようと思って」


 「仲間?」


 「そう。あなたも血を飲めていないでしょ? だから広希君の、非感染者の血を飲ませてあげる」


 千夏は広希がまるで自分の所有物であるかのような物言いをした。そして、部屋の隅にある小さなテーブルの元へ歩いていき、その上に置いてあったコップを手に取った。そのコップには、トマトジュースのような赤い液体が半分ほど入っていた。


 コップを持ったまま、千夏は早紀の前まで戻り、こちらに差し出す。


 「さっき採ったばかりだから、まだ新鮮だよ。飲んでみて」


 早紀は、差し出されたコップを見つめた。これは、広希の血だ。以前、広希が鼻血を出した時に広希自身の血は見たことがあるが、それとは量が段違いだ。これほどの量をいつも抜かれているのだ広希は。いや、これは半分だ。いつもはこれ以上抜かれている可能性もあった。


 「非感染者の血ってとても美味しいんだよ。一度飲んだら家畜の血なんて飲めないわ。それに、ちょっと飲むだけで、血の欲求もすぐになくなるよ」


 千夏は高揚したように言いながら、広希の血が入ったコップをこちらに押し付けた。


 仕方なくそれを受け取った早紀は、中の血に目を落とす。広希の血は、赤ワインのように綺麗だった。自然に、涎が湧いてくるのを自覚する。


 自分も血が必要だった。連日における血液飲料の不足により、非常に乾いていた。他の感染者よりも軽くではあるが、禁断症状も出ている。これをこのまま飲み干したら、さぞや快感だろうと思う。


 しかし。


 早紀は、再び広希の姿を目に映す。貧血の症状に襲われているのか、苦しそうに喘いでいる。流れ続けた頬の涙の後に、また一筋の涙が流れる。悲哀の証。広希は、とても苦しんでいる。そんな広希の、これまで一緒に過ごした友人の血液など、飲むことはできない。だから、ごめんね、広ちん。血を利用するから。


 早紀は、コップに入った広希の血を目の前にいる千夏の顔にかけた。千夏は、小さく悲鳴を上げ、顔を覆う。時代劇で役者が刀で切られた時のように、血が周囲に飛び散った。


 間髪入れず、早紀は出入り口の扉へ飛び付く。早紀の予想外の行動に対応ができなかったのだろう、茂や明日香は、唖然とした様子で、手を出さなかった。


 早紀はスチール製の扉を開け、階段を駆け上がる。心臓は跳ね上がり、大して動いていないのに、呼吸は荒くなった。まるで地区大会のレース間際の時みたいだ。


 早紀は、階段上部にある扉も開けることに成功した。それと同時に、階段を誰かが駆け上ってくる音がした。


 茂だ。必死の形相で、こちらに追いすがろうとしている。


 早紀は廊下へと出て、玄関の方へダッシュする。同じように廊下へと出た茂が、何やら背後で叫ぶ。だが無駄だ


 こっちは陸上部なのだ。しかも短距離走者である。百メートルの記録は十三秒九六。高校生の女子陸上における平均ラインだが、大して運動をしていないガリ勉には、決して追い付けるはずがない。


 このまま家を出て、スマートフォンを使い、警察へ通報だ。あるいは、その場で大声を出して、助けを求めてもいい。必ず誰かが寄ってくる。そうなれば、彼女達は手が出せない。広希もいずれ助かるだろう。つまり、この家を脱出すれば、こちらの勝ちなのだ。


 陸上で鍛えた脚力を使い、豹のように玄関へ向かう。一般的な家屋より遥かに長い廊下だが、それでも距離はたかが知れている。すぐに木製の分厚い玄関扉が目の前に見えた。茂は案の定、追い付いていない。玄関の鍵を開けて外に出る余裕もありそうだ。


 玄関のすぐ近くにある階段に差し掛かる。後一秒もあれば、玄関へ触れられるだろう。私の勝ちだ。


 早紀がそう思った時、ふとある疑問が頭をよぎった。


 茂の言葉だ。広希の無残な姿に気押されて、つい訊きそびれたが、不思議に思っていたことがあった。


 確かこう言っていた。


 『達夫と一緒に監禁を手伝った』と。


 そう言えば達夫はどこにいるのだろう。広希と一番仲の良い友人でありながら、監禁の主犯格である男子生徒。


 突然、階段の死角から、棒のような物が廊下へと突き出された。人の足だとすぐにわかった。


 早紀は、それを飛び越すことも、寸前で止まることもできず、まともに掛かり、激しく前のめりに転倒した。


 予想だにしなかった出来事だったため、まともに受身を取れなかった。したたかに額を打ち付ける。


 小さく呻き声を上げ、その場で身悶えた。目の前で、世界が回っている。軽い脳震盪を起こしたかもしれない。


 それでも何とか起き上がろうとするものの、背中から誰かに押さえ付けられた。胸が圧迫され、ぐうと呻き声が漏れる。スカートが捲れ、太ももが剥き出しになっているが、気にするどころではなかった。


 未だ揺れる視界の中、首を曲げて、押さえ付けている犯人を見る。達夫だった。達夫はなぜか地下室ではなく、階段の陰に隠れていたのだ。


 達夫は、不敵な笑みを浮かべていた。


 「やったな。千夏の言った通りだ」


 追い付いた茂が、そう口にする。どうやら達夫は、千夏の指示で、早紀を待ち構えていたらしい。つまり、こうなることを予測されていたのだ。


 罠に掛かってしまった自分に、早紀は歯噛みした。何てことだろう。もう少し、慎重に行動すれば良かった。


 床へと押さえ付けられている早紀の脳裏に、内ポケットの果物ナイフのことが浮かび上がる。転倒した拍子に飛び出したりはせず、しっかりとポケット内部に入っているようだ。


 それを取り出そうと思った矢先、後ろ手に手を組まされた。そして無理矢理立たされる。これでは、取り出せない。


 「痛い!」


 ガッチリと強い力で、両手を後ろにホールドされており、早紀は、抗議の声を上げる。だが、達夫は聞き入れてくれなかった。そのまま引きづるようにして、元来た方向、地下室の方へと早紀を連れていく。抵抗するが、相手は男子で、体格も良い。無駄に終わった。


 やがて、早紀は達夫に連れられ、地下室へと舞い戻った。ようやく脳震盪は収まったが、額は痛かった。大きなコブになりそうだ。


 千夏は逃げ出す前と同じく、部屋の中にいた。顔にべったりと付着した広希の血液をハンカチで拭っている。制服にも飛び散っており、さながら交通事故にでもあったかのようだった。


 こちらを確認した千夏の目の色には、怒りがこもっていた。


 「ちゃんと捕まえたみたいね。達夫君」


 「ああ。お前の言った通り、待機していて正解だったよ」


 千夏は、早紀を凝視する。


 「諸井さん、逃げ出すだけならまだしも、広希君の血をよくも無駄にしてくれたわね」


 パチンと小気味良い音がして、目の前に火花が散った。右頬を叩かれたのだ。


 早紀は、達夫から後ろ手に掴まれたまま、うな垂れる。このままどうなるんだろうと思う。まさか殺されはしないはずだ。千夏達は拉致監禁まではやっているが、さすがに殺人までは踏み切れるわけがない。死人はまだ出ていないはず、と思った。


 おそらく、無理矢理にでも広希の血を飲ませ、仲間にするとかそんな方法を取るに違いない。あるいは説得か、下手すれば同じように監禁されるかもしれない。


 「ちょっとごめんなさいね」


 千夏は、早紀の制服のポケットを探った。そして、そこに入っていたスマートフォンを取り出す。


 やがて千夏は、スマートフォンの電源を落とした。警察へ通報されるのを避けるためだろう。


 幸い、内ポケットのナイフには気付かれなかった。元々スマートフォンの奪取が目的であり、他に危険物を持っているとは考えていなかったようだ。


 千夏は、電源を落とした早紀のスマートフォンを返却することなく、自身の制服のポケットに入れると、こう言った。


 「ちょっと着替えてくるから、諸井さんをお願いね」


 そして地下室を出て行く。人数が一人減った。チャンスかもしれない。


 早紀は、手を掴んでいる達夫に言う。


 「少し広ちんと話をさせて」


 達夫はしばらく思案していたが、やがて頷く。共に広希の方へと歩いていった。


 広希の目の前までいくと、早紀は何とか左腕だけは離して貰った。この狭い地下室で、相手は女子なのだ。左腕を解除したくらいでは、何ともできないと判断したようだ。


 早紀は、フリーになった左腕を、拘束されている広希の右頬へ当てた。体温が低いような気がする。


 「広ちん大丈夫?」


 早紀は訊く。だが、広希は答えない。軽く首を振っただけだった。言葉を発する気力もないようだった。


 「広ちん……」


 前から言おうと思っていたことがあった。


 「広ちん、ごめんね」


 突然の謝罪に、広希は、薄っすらと目を細めた。疑問符代わりだろう。


 早紀は説明した。


 「前に明日香が広ちんのフェイクの血を飲んだことがあったでしょ? 広ちんが非感染者だとバレた事件。その時、私一緒にいたんだ。今でも思っちゃう。その時、止めるべきだったって」


 実際、あの瞬間、自分なら止められたはずだ。そうすれば、この監禁は避けられたかもしれない。自分の責任もあるのだ。


 「だからごめんね。ずっと謝りたかった」


 広希は、小さく頷くと、搾り出すような声で何かを言った。聞こえなかった。


 耳を傾け、もう一度聞こうとした時、地下室の扉が開いた。千夏が入ってきたのだ。着替え終わっており、私服になっている。マーガレット柄のワンピース。


 一瞬、皆の目がそちらに集まったことを早紀は、見逃さなかった。


 自由になっている左腕を使い、内ポケットの果物ナイフを、広希の枕の下に隠す。このまま右腕を押さえられている状況で、ナイフを使っても、男子が二名いるのだ。到底勝ち目はなかった。かと言って、このまま持ち続けても、いずれは見付かってしまうだろう。そのため、ここに隠した方が安全だと判断した。もしかすると、広希が使うチャンスも訪れるかもしれない。


 運よく、誰も今のこちらの行動には注意を払っていなかった。上手く隠せたようだ。


 もう一度、広希が何か言った。今度ははっきっりと聞き取れた。


 「逃げて。殺される」


 ハッと千夏の方に目を向ける。千夏は、ロープを持っていた。荷造りに使うようなやつだ。


 ガーリーなワンピースの裾をはためかせ、こちらに歩いてくる。


 達夫が腕に力を込め、広希の方へと屈んでいた早紀を無理矢理立たせる。右腕が軋むように痛んだ。


 だが、その痛みは気にならなかった。千夏の動向が優先だった。


 一体、千夏は何をするつもりだろう。まさか。


 自分の首に、ロープが回ったことを、早紀は感じ取った。

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