第九章 あなたの血を飲み干したなら

 早紀が千夏の手によって殺害されてから、三、四日が経った。正確な経過日数はわからないが、おそらくそれくらいだ。その間も千夏や達夫達は、ひっきりなしにここに来ては、血を奪っていった。


 早紀の死体は、千夏から呼び出された神谷がどこかに持ち去っていった。


 祖父母に続き、早紀までもが殺されてしまった。だが、もうすでにそれに対する特別な感情は生まれなかった。


 ひたすら続く監禁と拘束、そして採血。かろうじて保っていた精神は、今では崩壊したように空虚になり、何も感じなくなった。魂が抜けてしまったかのようだった。


 もうこのまま永遠に地下室から出られないのでは、とすら思う。しかし、それですら絶望や諦観の感慨すら生じない。今のこの状況で広希は、脱出することも、抵抗する気力も消失し、ただひたすら血を提供する畜産動物としての運命を受け入れていた。


 広希は、血液飲料を提供する家畜の気持ちを知った。




 怒声が響き渡っている。誰かが怒鳴りあっているのだ。


 広希は、その声を契機に、おぼろげな意識から、わずかに覚醒した。


 薄っすらとぼやける目で、確認する。


 二人の男が、言い争っていた。そして、それが達夫と茂だとわかる。


 少し間を置き、二人が言い争っている理由を悟った。


 二人は、広希の血を巡って対立しているようだ。達夫が茂の胸倉を掴み、上方へ引っ張り上げている。達夫は茂より背が高い。そのため、茂は爪先立ちになっている。それでもなお、茂は怯まず、達夫に食って掛かっていた。


 ここ最近、地下室へやって来る感染者達の様子が少し変化していた。前よりも余裕がないのだ。それは、広希の血の摂取量が減少しているためだ。長期間の監禁による疲労と連続する採血により、広希の肉体も限界に達している。これまで通りのペースで血を抜いていると、命に関わってしまう。だから、どうしても採血量に影響が出て、必然的に飲める広希の血が限られてくるのだ。


 この達夫と茂の喧嘩も、それに端を発したものだろう。またそれは、『外の世界』においても、未だ口蹄疫による輸出入制限は解除されておらず、血液不足のままであることの表れでもあった。


 まだ達夫と茂は言い争っている。そばに千夏と美術部員の何名かがいるが、誰も止めようとはしなかった。


 茂は唾を飛ばしながら、激昂している。


 「俺に血を飲ませないって言うんなら、ここのことを警察に伝えるぞ」


 その言葉に、達夫は激怒したようだった。般若のように目を吊り上げ、茂の首に手を掛ける。


 茂の顔が豹変した。苦しそうに顔を歪め、見る見る顔が紅潮していく。茂は無茶苦茶に暴れ、達夫の手から逃れようとするが、長身のバレー部と、勉強漬けの訛った肉体だ。趨勢は始めから決していた。


 やがて茂の顔が膨れ上がり、舌が別の生き物のように突き出てきた。糸が切れたようにだらりと両手は垂れ下がり、動かなくなる。絶命したことが、はっきりと見て取れた。


 その姿が、祖父母と、早紀の姿に重なった。だが、感覚が麻痺しており、感情が揺さぶられることはなかった。


 その他の感染者達も別の意味で、茂の死に無頓着だった。美術部員の一人である加奈子は、ここの情報をリークするくらいなら死んでくれて良かったとも取れる言い分を放った。


 千夏によれば、茂の死体は、神谷が片付けてくれるという。これまでも複数の死体を神谷は処理していた。まるで裏世界の掃除屋だ。


 広希は、達夫達の手で運ばれていく茂の死体を見ながら、次は一体、誰が死ぬのだろうかと、ぼんやりと思った。




 それからさらに時間が経った。


 ある異変が起こった。


 千夏が広希の血を採ろうとした時だった。インターホンが鳴り響いた。


 この地下室には、時計はおろか、通信機器の類は一切設置されていない。インターホンも同様だったが、それでは外の来客の様子が分らないため、千夏は、ここにワイヤレスインターホンの子機を持ち込んでいた。ワイヤレスインターホンは配線が不要で、子機をスマートフォンのようにして持ち運べる。


 それが今鳴っているのだ。つまり来客があったということだ。その事自体は、別に珍しいことではない。


 千夏は、手元の子機を確認し、首を捻る。


 「知らない人ね。ちょっと行って来るわ」


 その場にいた達夫と明日香にそう告げ、千夏は部屋を出て行く。


 千夏はしばらく経っても戻ってこなかった。達夫達が心配する言葉を発し始めた頃に、ようやく戻ってくる。


 その顔は曇っていた。


 達夫達も千夏の様子がおかしいことに気が付き、質問を行った。


 千夏は答えた。


 警察が尋ねてきたのだと。


 理由は、クラスメイトである諸井早紀の件だった。早紀は、数日前から行方不明になっており、両親の手で捜索願いが出されたという。そして警察が電波業者に情報の開示請求をしたところ、早紀のスマートフォンが最後に電波を発信した場所が、ここだと判明したらしい。


 千夏は不思議がっていた。一度もここから通信をさせておらず、電源も切っているのに、ここを嗅ぎ付けられたことについてだ。


 だが、広希には見当が付いた。前に聞いたことがある。スマートフォンというものは、通信の有無に関わらず、定期的に基地局へ、位置情報を発信しているということを。


 「とりあえず、追い返したけど、ここをまだ疑っていたわ。またくるって。下手をすると、家宅捜査の礼状が入る可能性があるかも」


 千夏の発言に、達夫と明日香は青ざめる。


 「どうするの?」


 「とりあえず、広希君をここから運び出しましょ。鴨川市の方に別荘が一軒あるから、そこへ連れて行くわ。少なくともここにいたら、危険よ」


 千夏は、こちらを見ながら続ける。


 「神谷先生に連絡して移動させましょう。広希君にはしばらく眠ってて貰うわ。これから睡眠薬を取ってくる。すぐ動かせるように、上半身だけ拘束具を外していて頂戴」


 そして、千夏は再び出て行く。


 達夫はこちらに近付いてくる。そして、千夏の指示通りに、拘束具の一部を外し始める。


 広希は霞みがかった頭のまま、されるがままだった。何も思い浮かばない。


 目の前で拘束具を外している達夫を見て、何となく思う。


 こいつは親友の木橋達夫だ。昔からの友達。腐れ縁とも言うべきか、よくクラスも一緒になる。広希のことも気遣ってくれる、優しい奴だ。


 それだけだ。


 いや違う。もっと特筆すべきエピソードがあったはず。


 広希が、非感染者だと発覚してからも、味方となってくれると約束してくれたのだ。幼い頃、達夫と出会った公園で、こいつは誓ってくれた。守ってやると。


 小さな思考の源流が、次第に大きくなっていく。上流から下流へと、川の流れが増すように。


 そして、その川にヘドロのような黒いものが混ざり始める。


 達夫は誓ってくれた。誓ってくれたのだ。しかし、今のこの現状は何だ? 守るどころか、率先して血を狙っているじゃないか。それよりも何より、こいつは祖父母を殺したのだ。親の代わりに育ててくれた愛する二人を。何の冗談だ?


 ヘドロはやがて、マグマのように真っ赤に燃える怒りへと変化した。徐々に、意識が明朗になりつつあった。


 こいつは元凶の一つだ。悪魔め。殺してやる。


 達夫が弄っている拘束具が、上半身の部分だけ外れた。後は足だけ嵌っている形だ。


 達夫は完全に油断していた。こちらが反撃してくるとは、露ほども考えていないようだ。なぜなら、その考えの裏には、反撃してきても、いくらでも対処できるという事実があるからだろう。


 当然だ。万全の状態ですら、ねじ伏せられる相手だ。精神的にも、肉体的にも疲弊しきった、死人寸前の現状では、警戒しろという方が無理がある。


 だが、誤算である。今生まれたこの怒りとそして――


 広希は、無意識に、枕の下に手を伸ばした。硬質な物が手に触れる。早紀が遺してくれた、唯一のチャンスだ。


 達夫はこちらを見ていなかった。警察のことが気になるのか、深刻な話を明日香と行っている。明日香も、こちらの動向には、頓着していない。


 広希は、枕の下にある物を取り出した。それは黒い鞘に収まった、果物ナイフ。


 広希は、鞘から本体を引き抜いた。地下室の明かりを受け、銀色に鈍く光る。


 「あ……」


 明日香が、ハッとしたように、こちらを指差した。


 それと同時だった。


 広希は、目の前の親友の首筋に、果物ナイフを突き入れた。




 果物ナイフは、新品同然だったのだろう。鋭い切っ先は何の抵抗もなく、達夫の首筋へ吸い込まれるようにして、深く食い込んだ。メロンに包丁を突き立てた感触に似ていた。


 達夫はギョッとした顔で、こちらに振り返る。自分の首に伸びている広希の手と、深々と突き刺さっている果物ナイフを確認し、唖然とした表情になった。どうしてこんな物をこいつが持っているんだ? その表情は、そう物語っていた。


 広希は、果物ナイフを達夫の首筋から引き抜く。水の入った袋に穴を空けた時のように、鮮血が迸る。


 生暖かい達夫の血液が、広希の体に降りかかった。達夫の体から吹き出た血の量は多く、たちまち広希は血塗れになる。


 達夫は刺された首筋を押さえ、その場にかがみ込んだ。出血は留まることを知らず、達夫の手の隙間から、次々の漏れ出ている。達夫のブレザーや、その下のワイシャツが、真っ赤に染まった。


 達夫の足元は、血の海になっていた。果物ナイフは見事、達夫の動脈を捉え、致命傷を与えたようだ。もはや止血は叶わず、命が尽きるまで、その鮮血は辺りを茜色に染めるだろう。


 やがて、達夫は自らの血の海の中へと倒れ込んだ。溺死寸前の人間のように、大きく喘ぎ、動かなくなる。


 大量出血によるショックで、失神したようだ。絶命するのも時間の問題と言えた。


 明日香は、驚愕の表情で目を見開いていた。獲物の予想外の反撃に、体が硬直しているようだ。


 広希は、拘束されている両足首のベルトを外し始める。拘束具は頑丈だが、取り外しは容易にできるよう作られていた。すぐに、両足もフリーになる。


 それと同時に、明日香は入り口の扉へ走り出した。


 広希は、左手に果物ナイフを持ち、ベッドから飛び降りる。そして明日香の方へ飛び付いた。長期間の拘束により、体中が軋むように痛む。関節が固まり、上手く動かせないが、それでも、何とか明日香に迫った。


 明日香は扉を開けて、地下室から出る寸前だった。ギリギリの所で、広希の伸ばした右手が、ある物に触れた。


 明日香のツインテールだった。明日香が年齢以上に幼く見える原因の髪型。


 広希は、右側の、そのツインテールを掴み、思いっきり引っ張った。


 ほとんど部屋から出ていた明日香の体は、部屋の中へと引き戻される。激痛に、明日香は悲鳴を上げた。


 明日香は、激しく抵抗した。子供のように暴れる。だが、それは無駄な行為だ。いくらこちらが拘束により弱りきった体だろうが、相手は小柄な女子だ。どうとでもできる。


 広希は、髪を掴んだまま、体ごと圧し掛かるようにして、明日香の方へと倒れ込む。


 二人は地下室の床へと激しく転倒した。明日香は広希の体重を伴ったまま、うつ伏せの状態で、床にぶつかった。


 胸を強打し、明日香は、カエルが潰れた時のような、くぐもった声を発した。


 明日香の背へと馬乗りになった広希は、髪を離し、右手に果物ナイフを持ち替える。体の下では、明日香が逃れようと必死にもがいていた。ライオンに捕らえられた、バンビのようだ。


 すでに、体格で勝るこちらにマウントを取られているため、逃げ出すことは不可能だ。広希は、なおも暴れる明日香を見下ろした。


 このクソ女。


 広希は、心の中でそう毒づいた。


 そもそもの元凶と言えば、この女なのだ。こいつが勝手に人の飲み物を飲む習性がなければ、自分が非感染者だと発覚することはなかった。


 こいつのせいだ。こいつがこの凄惨たる監禁事件の契機なのだ。


 怒りが沸々と込み上げてくる。炉から出したばかりの刀のように、殺意が真っ赤に燃えた。


 気が付くと、明日香を背中から果物ナイフで滅多刺しにしていた。うなじ近辺を、上から何度も刺す。刺される度に、明日香は電撃に当てられたかのように、跳ね上がった。


 むき出しの細いうなじが、血で染まり、煮崩れを起こしたようにグズグズになる。


 明日香は大きな悲鳴を上げていた。普段は女子中学生のような甲高い声だが、この時は、中年男性のような、野太い声で、苦しみ悶えていた。


 次第にその声もか細いものとなり、聞こえなくなる。


 明日香は、血溜まりの中で、突っ伏したまま、電池の切れたロボットのように、動きを停止した。絶命したのだとわかる。


 広希はゆっくりと立ち上がった。千夏に着せられていたTシャツとオムツはすでに血に染まり、甘ったるい鉄錆の匂いが鼻をついた。


 広希は、事切れている二人を一瞥した。広希の意識は、すでに明朗となり、試験中のように覚醒状態だった。だが、人を二人、立て続けに殺したことに対する実感は乏しかった。頭の一部分だけが麻痺しているような、浮ついた感覚に支配されている。


 広希は、右手に血に塗れた果物ナイフを持ち、地下室の扉を見つめた。


 後一人いる。広希を地獄のような目に遭わせた、張本人が。


 広希は、そっと、スチール製の防音扉を開けた。


 先には、上へと続くコンクリートの階段がある。上がり切った所には、さらにこれと同じような扉があった。


 嫌というほど実感しているが、この部屋は防音効果が完璧だ。だからこそ、今の騒ぎによる音が、外へと漏れた恐れはないとわかっていた。


 広希は、それでも忍び足で階段を登った。拘束の影響で体中の関節が痛く、足も震えた。アドレナリンの過剰分泌のお陰か、補正が効いており、歩くのに支障はなかったが。


 広希は階段を上がり切り、目の前のスチール扉の取っ手に触れた。


 音がしないように、ゆっくりと扉を開ける。


 体を出せるくらいまで扉を開けると、慎重に外の様子を伺った。


 廊下は静まり返っている。人の気配は感じない。


 千夏はどこにいるのだろうか。睡眠薬を取りに行くと言っていた。神谷にも連絡をするとも口にしていた。この状況で、神谷までやってこられたら、まずいと思う。女性とは言え、向こうは大人だし、長身だ。弱った今の自分では、勝ち目がないかもしれない。


 少しでも早く、ここを出るべきだ。


 広希は意を決して、廊下へと足を踏み出した。


 耳をすませる。家のどこからも物音は聞こえなかった。廊下の壁に掛けられた時計を確認する。午後五時半を回ったところだった。千夏の家族はおそらく帰っておらず、今は千夏一人だと思われた。


 玄関の方向がいまいち把握できていないため、当てずっぽうで進む。でかい家だが、宮殿ではない。すぐに玄関か、あるいは裏口に辿り着くはずだ。


 忍者のように音を潜ませながら、広希は廊下を歩く。やがて、見覚えのある重厚な木製の玄関が見えた。


 ホッと広希は息を漏らした。あそこから先は安全地帯だ。出ることができたら、自分は助かる。今の時刻は人もいるだろうし、こんな外見を晒せば、それだけで警察が飛んでくる。


 あの扉を越えさえすれば、自分の勝ちだ。


 広希は、駆け出した。家のどこかにいる千夏には足音が聞こえるかもしれないが、もう玄関はすぐそこだ。見える位置に千夏がいない以上、こちらに肉薄するのは不可能だろう。


 階段の側を通り過ぎた時だった。


 背後に風圧を感じた。


 後頭部に強い衝撃を受け、広希の意識は暗転した。




 目の前には、廊下が広がっていた。ソフトモダン風の廊下。自分はそこに倒れ込んでいた。


 後頭部がズキズキと痛む。揺りかごに乗っているかのように、景色がぐらついている。


 背後から後頭部を殴られた、ということがわかった。誰に、というのもわかる。


 千夏だ。おそらく階段の陰に隠れ、通りかかる隙を突いて、一撃を見舞ったのだろう。


 気絶していたのは、ほんの一瞬だったようだ。首筋を伝って、生暖かい液体のようなものが流れている感触がする。出血しているらしい。


 僅かに顔を上げる。前に黒いソックスを履いた足が見えた。千夏だ。そして、少し離れた場所に、広希の手から落ちた果物ナイフが転がっている。


 頭上から千夏の声が聞こえた。


 「ここまで逃げてきたっていうことは、達夫君達は今、大怪我して動けないか、死んじゃったっみたいね」


 千夏は落ち着いた声でそう言いながら、床に落ちてある果物ナイフを拾い上げる。


 顔をさらに上げて、千夏を見る。視界はまだ揺れていた。


 千夏は右手に果物ナイフ、そして左手には折り畳んだ木製のイーゼルを持っていた。どうやらそれでこちらの後頭部を殴ったらしい。


 「妙な気配がしたと思って、様子を伺ったら、地下室から出てくるあなたがみえたの。だから、二階にあったこれを持って、待ち伏せしてたわけ」


 広希は、目を瞑った。油断した。自分の行動を呪う。もっと警戒するべきだった。


 「このナイフ、どこで手に入れたの?」


 千夏は血で染まっている果物ナイフをためすがめすしつつ、訊く。


 「……」


 広希が答えないでいると、千夏は形のいい眉根を上げて、肩をすくめた。


 「まあ、いいわ。多分諸井さん辺りがどこかに隠していたみたいね。油断したわ」


 そして千夏は、イーゼルを床へ置く。


 「さて、あなたには今からこれを飲んで貰うね」


 千夏は、制服のポケットから、薬の入ったシートを取り出した。


 「睡眠薬。大人しく飲まないと、本当に殺すから」


 そう言いながら、千夏は、果物ナイフをこちらの首元へ突きつける。本気の表情だ。


 千夏は片手でシートから三錠ほど睡眠薬を取り出すと、こちらの口元へ近付けた。広希は口を結んで、拒否をする。


 首筋に、チクリとした痛みが走った。果物ナイフの先端を刺したのだとわかった。本当に千夏は刺すことを躊躇っていなかった。


 絶句したまま、千夏の顔を見る。千夏は、獲物を前にした虎のように、鋭い表情を投げかけている。このまま抵抗を続ければ、確実に刺し殺される。そのことがはっきりと理解できた。


 「仮にあなたを殺しても、その場合、血液を採れるだけ採って、保存するつもりよ。あなたの血は私のもの。必ずあなたの血を飲み干すから」


 首筋に突きつけているナイフに力を込めつつ、千夏は、強引に睡眠薬を広希の口へ押し込んだ。そして、脇に置いてあったペットボトルの中身を口の中へ流し込む。ミネラルウォーターだ。


 「飲んで。後で確認するから、飲んだふりをしても無駄よ」


 有無を言わせない口調で、千夏はそう宣言する。広希は、仕方なく、目を瞑って睡眠薬を飲み込んだ。胃の中に、水と共に薬が落ちていくのが感じ取れた。


 これで終わりだ。広希は息を飲んだ。おそらくこのまま自分は眠りにつき、呼び出された神谷によって、千夏の言っていた別荘に運ばれるのだ。そして、再び監禁生活が始まる。地獄の再来。


 広希が絶望に打ちひしがれた時だった。


 それはほんの僅かな瞬間だった。


 おそらく、広希に睡眠薬を飲ませたことによる気の緩みがあったのだろう。千夏は、制服のポケットからスマートフォンを取り出した。その時、広希へ突きつけられている果物ナイフが、少しの間だけ外れた。それがスローモーションのように、ゆっくりと確認できた。


 無意識だった。側に置いていた、広希を殴り倒すために使われたイーゼルを手で掴む。それを引き寄せ、千夏の方へ振った。


 イーゼルは千夏の眼前をかすめる。当たらなかった。と思ったら、その勢いのまま、イーゼルは千夏の右腕に衝突した。


 右腕に持っていた果物ナイフが吹き飛ぶ。硬質な音と共に、床の上を転がっていく。


 反撃する余裕が残っていたとは予想していなかったのだろう。千夏は、一瞬の間、呆気に取られた顔をした。だが、すぐに気を取り直し、取り出したばかりのスマートフォンを放り捨てると、果物ナイフの方へ駆け寄った。


 こちらを襲おうとはせず、まずは果物ナイフの取得を優先させたのだ。


 広希は違った。果物ナイフではなく、千夏を狙った。果物ナイフを取ろうと屈み込んだ千夏へ、手にしていたイーゼルを叩きつける。麻袋を殴ったような鈍い音がして、千夏は呻き声と共に、床へと倒れる。


 それでも千夏は、果物ナイフへ手を伸ばした。広希は何度も千夏へイーゼルを振り下ろす。この変態女め。お前が全ての原因だ。死んでしまえ。


 憎しみを込めた。


 やがて、木製のイーゼルは折れ、ネジも外れてバラバラになる。千夏は動かなくなった。


 息をせっついて、広希は、その場に膝をついた。イーゼルを振り下ろし続けたため、手が痺れ、ジンジンと痛んだ。


 その時である。突如として右肩に、熱した火箸を当てたような激痛が走った。広希は大きく呻く。


 千夏が起き上がり、果物ナイフを広希の肩へ突き刺していた。千夏の顔は血で染まり、可憐な顔がゾンビのように変貌していた。思わず戦慄してしまいそうなほどの恐怖があった。


 広希の右肩から果物ナイフを抜いた千夏は、再び広希を刺そうと腕を後退させる。


 広希は、千夏にタックルした。そしてそのまま体を掴み、相撲の押し出しのような形で、千夏を背後に押し続ける。刺された右肩が痛むはずだが、気にならなかった。


 千夏は、背中から玄関の木製の扉へぶつかった。千夏は痛みよる悲鳴を上げるものの、果物ナイフを離そうとはしなかった。


 千夏は、果物ナイフを振りかざす。鬼女のように、狂気に顔が歪んでいた。


 広希はその顔面へと、頭突きを行った。怯んだところで、右腕を掴み、果物ナイフを奪う。


 そして、千夏の胸部へと深く突き刺した。全体重と力を込めて。


 果物ナイフは、千夏の細身の体を貫き、背後の扉まで達したようだ。ナイフの先端が、固い物に当たったことを伝えてきた。


 千夏は、陸に上がった魚のように、口をパクパクとさせた。内臓を吐き出すような呻き声を発し、しばらくもがく。


 だが、すぐに動かなくなった。


 広希は、果物ナイフから手を離す。千夏はなぜか倒れなかった。その場にうな垂れ『空中に』固定されていた。


 驚いたことに、千夏は、玄関扉へ、果物ナイフにより磔にされていたのだ。胸部を杭で打ち込まれ、十字架に磔にされたカーミラのように。


 事切れた千夏をしばらく見ていた広希は、立ち上がり、千夏が放り捨てた千夏所有のスマートフォンを手に取った。


 中身を確認すると、どうやらまだ神谷を呼び出してはいないようだった。不幸中の幸いだと言える。


 広希はそのスマートフォンを使い、警察へと通報する。説明に四苦八苦したが、すぐにこちらにくると伝えてきた。


 警察への通報を終えた広希は、その場にしゃがみ込んだ。そして頭を抱える。


 頭の中で声がした。一体、これは何なんだろうと。


 ここ一連の出来事を思い出す。監禁され、血を抜かれ、祖父母を失った。女友達も、親友もいなくなり、自身は血塗れになって、人すら殺す羽目になった。


 どうしてこんなことに?


 広希は、自分が泣いていることに気が付いた。これは自己憐憫による涙か、恐怖から脱却できたことによる涙か。


 失ったものばかりで、何も得るものすらなかった。大切な人達が目の前から、次々と消えていったのだ。


 一体何が悪かったのだろうと考える。感染者か? それとも口蹄疫のせいか? あるいは千夏のような特異な人間が悪かっただけなのか?


 違う。広希は、心の中で首を振った。


 自分が非感染者であることだ。感染者ではないせいで、これまで毎日、血を飲むフリをし、非感染者であることが発覚しないか怯えて暮らさなければならなかった。発覚したら発覚したで、この始末である。


 非感染者であるという、たった一つの理由だけで。これは、あまりにも理不尽だった。


 広希は、玄関扉に磔にされている千夏に目を向けた。


 千夏の胸部はバケツで血を被ったように、赤く濡れていた。足元も、血溜まりができている。


 千夏は、先ほど自分にこう言った。


 「あなたの血を飲み干す」と。


 自分もだ。自分も同じ思いにとらわれた。


 立ち上がり、千夏の死体へと近づく。


 感染者の――千夏の、あなたの血を飲み干したなら、自分も感染者になれるだろうか。


 感染者になれば、『そのような人達』の仲間入りになり、になれる。それならば、血を狙われることは決してない。


 感染者になれば――。


 広希は、今もなお、血が流れ出ている千夏の胸部へ顔を寄せた。


 むせ返る血の臭いが鼻腔をつく。


 広希は、躊躇うことなく、その血を啜り始めた。

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