第五章 日常

 休み明け、神谷から呼び出しを受けた。昼休みのことである。


 呼び出された先は職員室ではなく、生徒指導室だった。広希は、不安になった。呼び出される理由は皆目検討が付かず、知らない内に何か悪いことでもしたのだろうかと、指導室の白い扉の前で、少しだけ躊躇っていた。


 しかし、いざ中で待っていた神谷に話を聞くと、そうではないことが判り、ホッとする。そして、長机を挟んで対面にいる神谷に、呼び出しの理由を尋ねた。尋ねながら、広希は、違和感に襲われた。


 神谷の雰囲気が、いつもと違う気がした。朝のSHRの時とどこか変わっている。何か妙だ。いや、妙というより……。


 広希が違和感の正体に気が付いた時、神谷が口を開いた。


 「ちょっと小耳に挟んでね」


 神谷の澄んだようなハスキーボイスが、鼓膜を震わせる。


 「小耳?」


 「そう」


 神谷は頷いた。そして、後ろで束ねた髪をかき上げと、射るような目で広希を直視する。シャープな顔立ちが、どこか憂いを帯びているようだ。


 神谷は広希から視線を外さず、続けて言う。


 「架柴、お前、非感染者なんだって?」


 微かに広希の心臓が波打つ。広希が非感染者だということは、すでに周知の事実になっており、教師の耳に入るのも当然の結果である。むしろタイミングとしては遅いぐらいだ。しかし、こうやって改めて、面と向かい尋ねられると、少しだけ心がさざ波立つのを自覚する。


 「はい、そうですね……」


 嘘を付いても仕方がないので、広希は正直に答えた。神谷の整った眉毛が、ピクリと動く。


 「発覚した後、何かトラブルは?」


 「今のところはないです」


 「そうか。それならよかった」


 神谷は笑顔になった。


 広希は、パイプ椅子の上で、もぞもぞと身じろぎを行う。何となく、落ち着かない。神谷は心配をしてくれているようだが、おかしな圧迫感があった。刑事による尋問のような、息苦しさと、緊張感を覚えてしまう。


 「それで、架柴」


 神谷は、長机の上に置いてある手を動かし、指を組む。広希は、その手を反射的に見た。細長くて白い指には、指輪が嵌っていない。来年で独身のまま三十路を迎える『行き遅れ』の証拠だ。


 「誰かに血を飲ませたか?」


 不躾な質問だった。以前も誰かから似たような質問をされたことがある。やはり感染者として気になるのだろうか。


 広希は首を横に振った。


 「飲ませてないですよ」


 「今までという意味では?」


 「一度もないです」


 「お前のおじいさんとおばあさんにもか?」


 「ありません」


 「そうか」


 神谷はそう言うと、机の上に置いていた手を、膝の上へと下ろす。そこで広希はある一点に目が止まった。今まで神谷の手が触れていた机の天板部分である。そこが、湿


 広希は悟る。それは水ではなく、神谷の『汗』であることに。


 つまり、彼女は内心、緊張しているらしい。表面上は、いつものように、淡々とクールではあるが。


 生徒を前に、神谷は一体どうしたのだろう。広希は訝った。


 神谷に質問を行う。


 「あの、呼び出しの理由って、僕が非感染者かどうか知りたかっただけですか?」


 「まあ、そんなところかな」


 「なら、もう教えたので、教室に戻りたいです」


 神谷は手の平をこちらに向け、宥めるような動作をした。


 「わかっている。時間をとらせるつもりない。ただ、一言伝えたくてな」


 「はあ」


 「私は教師だ。こう見えて、生徒達のことは、それなりに考えているつもりだ。特に、自分のクラスの生徒は特に」


 神谷は、こちらに身を乗り出す。神谷との距離がグッと近くなる。


 「つまり私は、生徒達のトラブルは解決したいし、未然に防ぎたい。わかるか?」


 広希は、曖昧に頷いた。実際はよくわからなかったが、とにかく生徒達の心配をしているということを言いたいのだろうか。


 「だから、今後もし、校内でお前が非感染者であることによるトラブルを抱えたら、真っ先に私へ知らせてくれ。必ず解決してやる」


 神谷は、自信ありげな表情で、そう言い切った。すぐ目の前まで顔が迫っているので、吐息が掛かる。


 「……わかりました」


 広希は首肯した。真意はどうであれ、表面上は、広希の相談役を買って出るということらしい。教師としての責務か、それとも。


 話が済んだらしく、神谷はもう行っていいぞと目で合図を送ってきた。


 広希は立ち上がり、指導室から出る。


 指導室の扉を閉めた時、最初、神谷に抱いた違和感を思い出した。


 神谷は化粧をしていたのだ。今まで一度もまともに化粧すらして来なかった女教師だったのに。




 その日から、千夏による広希をモデルにした人物画が描かれ始めた。そのため、ほぼ毎日、放課後に美術室へ向かわなければならなくなった。


 やることは単純であり、絵を描く千夏の前で、ただ、座ってじっとしておけばいいだけだった。


 基本的に、二十分毎に十分ほどの休憩を挟んでいた。これは、プロのモデルでも同じ手法が取られているらしい。


 最初、それを聞いた時は、やけに休憩が多いと思ったが、経験して初めてわかった。十分でも、その場で身じろぎせず、彫像のように固まり続けるのは、相当な労力が必要なのだ。


 五分も経つと、ついつい、貧乏揺すりや、足踏みへの衝動に駆られてしまう。不思議に千夏は、その兆候を察しているらしく、身じろぎしそうになると、ピシャリと注意を飛ばしてきた。


 無報酬の仕事ではあるが、了解した手前、大人しく従う他ない。


 引き受けたことを若干後悔しつつ、広希は慣れないモデルに徹していた。



 

 広希は、静まり返った美術室で、固定ポーズのまま、正面でキャンバスに筆を走らせている千夏へ、目を向ける。


 正確には、面接時のように、姿勢を整えたまま千夏の方を向いているだけなので、視界に入っているだけと言ってもよかった。


 広希は、視界内の千夏を観察する。


 他の美術部員にも言えることだったが、千夏は真剣な面持ちだ。標的を狙うスナイパーのように、鋭い目でこちらを射抜いている。始めは、その眼光に晒されているだけで、頭の中まで見透かされているようなおかしな錯覚を受けた。


 千夏はいつも、こんな眼光炯々な目で描絵しているのかと、驚きの気持ちがあった。やはりそこは美術部員である証なのだろう。


 「ありがとう。今日はもう終わりだよ」


 千夏が筆を置きながら、そう宣言した。


 広希はホッと息を吐き、姿勢を崩す。正座を限界一杯のところで解除した時のような、放出された気分が体を包む。


 広希は体のコリをほぐすように、腕を回しながら、立ち上がった。そして、小さく伸びをする。


 「けっこう進んだよ」


 千夏は絵具を片付けながら、キャンバスを指差した。


 広希は、横から、千夏の絵を覗き込む。


 そこには椅子に座り、こちらを真っ直ぐ見据えている自分の姿があった。下塗りの途中ではあるが、さすが美術部員と言うべきか、非常に上手い。はっきりと人物の特徴が描き出されている。


 「上手だね」


 広希は褒めた。千夏は、照れたように笑う。


 「ありがとう。人物画は得意だから」


 千夏は若干誇らしげに言った。


 しかし、絵をよくよく見てみると、どこか美化されたような部分が見受けられた。実際の自分よりも、鼻筋が通っているような気がする。また、表情が、少女マンガみたいにドラマチックだ。


 背景は、実際のものとは違い、グラデーションが掛かったような描写がされていた。そこにはまだ色は入っていない。


 全体的にどこかおぼろげなイメージがあるのは、それが絵画の技法だからなのだろうか。美術の知識が皆無な自分には、よくわからなかった。


 道具を片付けている千夏に、広希は帰る旨を告げる。千夏は一緒に帰ろうと申し出てきたが、広希は断った。学校のアイドルと頻繁に行動するのは荷が重たいのだ。ここ連日、同じように断っている。


 広希は寂しそうにしている千夏をその場に残し、美術室の扉に向かう。他の美術部員の視線を強く感じた。チラリと様子を伺うと、加奈子や美樹、小夜もこちらを見ていた。


 視線には、欲望が入り混じった感触がある。これもすでに、お馴染みのものだった。


 広希は、意識をしないようにしながら、美術室を後にした。




 十月も終わりを見せ始めた頃、千夏から遊びの誘いを受けた。次の休みの日に、君津にある温水プールに行こうという話だった。


 広希は迷った。プライベートで千夏と関わるのは初めてである。そしてやはり、学校一の美少女と行動を共にするのは気が引ける。しかもそれがプライベートであっては、なおさらだった。


 広希が逡巡していると、千夏はある提案を行った。おそらくは、広希の考えを悟っていたのだろう。


 他の友達も誘うという提案だった。確かにこれなら、気後れする必要もない。広希は、それならば、と了承した。


 しかし、この気の使われようは、男女が逆になったような気がして、少しだけ恥ずかしく思う。


 声をかけたメンバーは、達夫、茂、早紀に明日香だった。その皆が、二つ返事で快諾してくれた。


 かくして六人は、日曜になると、千葉市内にある『こてはし温水プール』へとやってきたのだった。



 

 『こてはし温水プール』は、花見川にある総合運動施設内にあった。一年中利用が可能な温水プールに加え、フィットネススタジオやトレーニングジム、多目的ホールまで完備されていた。千葉市による健康体力つくり振興計画の一環として建設され、憩いの場としても機能している施設だ。


 以前、何度か祖父母と共に、広希も利用したことがあった。レストルームもあり、一日潰せるほどの充実した設備を誇っている。


 六人は受付を済ませ、男女別れて更衣室へと入った。


 水着に着替えている最中、達夫がこんなことを言ってきた。


 「これを役得、って言うのかもしれないな」


 「え?」


 広希は、怪訝な顔で達夫を見た。


 「だってよ、お前が誘われたお陰で、俺らも千夏と一緒に遊べるわけじゃん。これが役得だよ」


 「そうそう。こんな経験、まずありえないからね」


 茂も横から同意する。


 「うーん、そうなんだ。でも、大里さんと一緒にいると、緊張するよ」


 「そりゃあんなに可愛いもんな。羨ましい悩みだぜ」


 サーファーパンツに着替え終わった達夫は、広希の肩を叩く。運動部でほぼ毎日鍛えられているお陰か、達夫の体は引き締まっていた。帰宅部の上、痩せた自分では、到底腕力で敵わないだろうなと、何となく考える。


 茂の方は、広希同様、恵まれた体格だとは言い難かった。広希よりは肉が付いているが、筋肉ではなく、ほぼ贅肉だろう。以前から、勉強漬けで、中々運動が出来ないと言っていたため、その弊害かもしれない。


 着替え終わった三人は、更衣室からそのままプールとの直通となっている通路に入る。そして、通路脇に設置してあるシャワーで体を洗い、プールのあるホールへ出た。


 同時に、三人を日光が照らす。


 『こてはし温水プール』は、天井がガラス張りだった。そのため、太陽光を直接取り入れる形になっている。


 この施設は、室内プールとしては大規模で、流れるプールの他、ウォータースライダーやジャグジーなど、多種類のプールが備わっていた。その広さと天井のガラス張りのお陰で、とても解放的な空間だった。


 三人は、流れるプールへ近付く。その時、背後から声が掛かった。


 「こっちだよー」


 早紀の声だ。


 三人が同時に振り向くと、水着姿の女子達の姿が目に飛び込んできた。


 「おー」


 達夫が感嘆の溜息を漏らす。


 「可愛いじゃん皆」


 茂も目を丸くしている。


 確かに茂が言う通り、三人共可愛らしかった。早紀は爽やかなイメージの青いタンキニ、明日香は小柄な体に似合うオレンジのミニスカート水着、そして千夏は、白いセパレートのビキニだ。


 普段目にする姿が制服であるため、新鮮であり、魅力的に映る。


 「どう? 広希君」


 千夏が、笑みを浮かべながら訊いてくる。三人の中で、千夏が一番露出が多かった。自分のプロポーションに自信がなければ、着れない水着だろう。とは言え、水着が白色のため、千夏の清楚なイメージを崩さず、寧ろ後押ししていた。


 「素敵だよ」


 広希が褒めると、千夏は心の底から嬉しそうに微笑む。


 「ありがとう。嬉しいわ」


 千夏から、キラキラした目で見られ、広希は照れる。


 「さあ、泳ごう! 最初は流れるプールだ!」


 早紀が元気よく促した。



 

 六人は、流れるプールやスライダー、ジャグジープールなどを一通り回る。浮き輪やイルカを模したフロートを持ってきていたので、それらも使って遊んだ。


 夏以来の泳ぎは想像以上に楽しく、あっと言う間に時間が過ぎた。


 昼になり、休憩所へと寄った。皆、思い思いの食べ物を注文する。


 パラソルの下に用意されたプラスチックの丸テーブルとチェアに陣取り、皆は食事を始めた。


 食事の最中、隣にいた千夏が広希に話しかける。


 「広希君、肌綺麗だね」


 千夏は、広希の二の腕に触れた。新芽のような柔らかい指が肌を撫で、むず痒さと同時に、恥ずかしさが湧き上がる。広希は微かに震えた。


 「恥ずかしがってる」


 明日香が、おかしそうに笑った。その目に、少しだけ羨むような色が込められている気がした。


 「広希の肌より、千夏の肌の方が綺麗だよ」


 達夫がそう言いながら、千夏の剥き出しの肌を見つめる。本人は冗談を交えた言動のつもりだったようだが、女子からは不評だった。


 明日香が眉根を寄せ、非難をする。


 「達夫、キモいよ」


 「幻滅」


 早紀も汚物を見るような目で、達夫を睨む。


 「何で俺には文句ばっか言うんだよ」


 達夫は口を尖らせた。


 そんな三人のやり取りなど耳に入っていないのか、千夏はなおも広希の肌について言及する。


 「広希君、スリムだから、血管がくっきり出ているね。私、血管が浮き出ている男の人の腕、好きだな」


 千夏は、目を細めながら、広希の腕を見つめた。思えば、ここまで素肌を同級生の女子に晒したのは、今日が初めてかもしれない。プールの授業はなく、体育の着替えの時も女子とは別だ。


 千夏は、まだ広希の腕に視線を注いでいる。


 広希が戸惑いを覚え始めた頃だった。


 「ねえ、午後は何して遊ぶ?」


 早紀が話の話題を変えるように、声を張り上げた。皆が早紀に目を向ける。


 「一通り回ったからなー。もう少しだけ遊んで、後はカラオケでも行こうか」


 茂の提案に、皆は同意する。


 広希は、話の矛先が自分から逸れたことに安堵した。自分の体についての話題など、恥ずかし過ぎる。


 食事を終え、皆は、先ほどの達夫の提案通り、最後に泳ごうと席を立つ。その時である。


 「わっ」


 バランスを崩し、広希は前のめりに倒れ込んでしまった。足元が濡れているせいで、滑ったのだ。


 とっさに手を付き、顔面を打ち付けることを避けたものの、右膝を擦り剥いてしまう。


 「大丈夫!?」


 千夏が血相を変えて、駆け寄ってくる。広希は地面に尻を付けたまま、そっと右膝を確認した。


 右膝は、硬質な地面に削られ、十円玉ほどの範囲で傷が入っていた。ひどく血が滲んでいる。


 しかし、手を付いたお陰で、表面だけの損傷で済んだようだ。出血のわりに、傷自体は浅い。


 「見せて」


 千夏が真横に座り、膝を覗き込む。他のメンバーも、心配そうにこちらの様子を伺っていた。


 「医務室に行って、治療をして貰いましょう」


 千夏は、広希の方へ手を伸ばし、立ち上がるのを手助けしようとする。


 「これくらい平気だよ。放っておけば止まる」  

                                                                                                                                      

 千夏の伸ばした手を断り、広希は自力で立ち上がった。何度か足踏みを行い、怪我の具合を確かめる。少し痛むが、歩くのに支障はなさそうだ。泳ぐことも可能だろう。


 「皆ドジってごめん。でももう大丈夫。泳げそうだ」


 広希は顔を上げ、安心させる口調でそう言うと、皆の顔を見回した。


 そこで気が付く。皆はこちらの足を凝視したままだった。正確には傷を見ているのだとわかった。


 だが、広希の視線に気が付くと、皆は我に返ったように、傷から目を逸らした。そして口々に広希の身を案じる言葉を口にする。早紀だけは始めから心配そうに広希の顔に視線を向けていた。


 千夏はまだしゃがんだままだった。不思議に思い、千夏の顔を覗き込んでみると、千夏は魅入られたように、血が滲んでいる広希の傷口を見つめたままだった。




 連日雨続きだった。皆と温水プールに行った日から、三日が経ったが、それからずっとだった。まるで梅雨が再来したかと思うほどだ。


 降り続く雨のせいで、気温が随分下がっていた。つい最近まで夏の気配がまだ残っていたものの、今ではすっかり秋の色に染まっている。お陰で江府高校へと続く心臓破りの坂を登ろうとも、一滴の汗もかくことはなくなった。だが、この雨だと、むしろ暑さの方がまだマシな気さえしてくる。


 広希は下駄箱で靴を履き替える。ずっと続いてたラブレターは、もうほとんどなくなっていた。広希に『脈』がないと徐々に知れ渡り始めたのだろう。告白自体も、ここの所一度もない。


 教室へ入り、入り口近くにいた千夏が、いつものように魅惑的な笑顔で迎えてくれる。


 「おはよう。広希君。今日もモデルお願いするね」


 何度か経験したので、結構平気で同じポーズを保っていられるようになった。今では苦なく悦に入ったものだった。とは言え、千夏の話を聞くと、絵がそろそろ完成間近らしい。つまり、モデルの仕事も佳境であった。


 モデルの仕事が終わると、いよいよ美術部へと入部するかの答えを出さなければならなくなるだろう。




 放課後。雨により、やや淀んだ空気の美術室の中で、広希は最近お馴染みとなった固定ポーズを取っていた。


 目の前には、相変わらず真剣な面持ちの千夏。千夏は形の良い眉根を時折寄せながら、キャンバスへ塗りを行っている。


 やがて、千夏から声が掛かった。マラソンを走りきった時のような、満足気な響きが含まれていた。


 「お待たせ。広希君。完成したよ」


 パレットに筆を置きながら、千夏は大きく伸びをしつつ、広希を手招きする。晴れやかな顔だ。


 広希は立ち上がり、キャンバスの正面へ回り込む。


 絵は確かに完成していた。油絵となった自分の姿。正確には、千夏の目を通して描かれた広希自身だ。


 「すごい。綺麗だね」


 広希は、嘆息した。素直な意見だった。


 背景は薄いブラウンと黄色で構成されており、グラデーションが掛かったような描写がされていた。


 そして、正面向いて描かれた自身の姿。毎日自分の姿を鏡で見ているため、そっくりそのままだとは言えないが、そこには芸術といった要素が加わっていることがはっきりと感じ取れた。


 前から思っていた美化された部分はさて置き、何より美しく感じるのは、その肌だった。


 肌の色の階調や、明暗など使い分けが絶妙で、現実のものより美麗に見える。理由を尋ねると、半透明色と不透明色を巧みに使い分けているらしい。手法も説明されたが、そのほとんどが理解できなかった。


 「ようやく完成したね」


 広希がそう言うと、千夏は、首肯しながら補足する。


 「うん。後はちょっとした仕上げをして完了だよ」


 そして、千夏はこちらに向き直り、頭を下げた。


 「私の我儘に付き合ってくれて、ありがとう」


 「いいよ。気にしないで」


 改めて感謝されると、少し恥ずかしくなる。広希は手の平を振って、宥めた。


 「仕上げが終わったらこの絵、広希君にプレゼントするね」


 「う、うん」


 正直言うと、そこまで欲しくないのだが、断るのも気が引けた。広希は、曖昧に頷く。


 その時、加奈子がやって来た。後ろに美樹と小夜もいる。皆、血の入ったペットボトルや水筒を手にしている。


 「完成したみたいね」


 加奈子達は絵を覗き込む。


 「千夏さん、やっぱり色の使い方が抜群ね。肌の色のトーン、テールベルトを混ぜているんだ?」


 「そうなんです。やっぱり外せなくて」


 千夏と加奈子は、油絵談義に移った。そこは美術部員らしく、専門用語が飛び交い、油絵の知識が皆無な広希は、まるで着いていけなくなった。


 ふと美樹と小夜へ目を向ける。二人は先輩達の話に水を差すつもりがないのか、所在なさ気に絵を眺めていた。だが、広希が見ていることに気が付くと、小夜は恥ずかしそうに目を背け、美樹は、にこやかに笑顔を返す。


 「さて、広君」


 加奈子はこちらに振り返った。ポニーテールが大きく振れる。


 「美術部に入るかどうか答えは決まった?」


 以前より、保留にしていた答えを加奈子は聞いてくる。その質問に対し、他の三人は、興味津々な様子で広希に目を向けた。特に千夏の眼光は鋭かった。


 広希は一瞬、口ごもるが、思い切って答えを言う。もう自分の中で結論は出ていた。


 「すみません。せっかくだけど断ります。向いていない気がして」


 四人の間で落胆した空気が流れる。


 元々、美術はさほど好きではなかったし、他に興味のある部活もあった。少し前から別の部活を選ぼうと考えていたのだ。


 一瞬間を置き、千夏が口を開く。


 「向いていないかどうかは、やってみなければわからないじゃない」


 そこにはどこか、咎めるような感情が含まれていた。


 広希は、自分を直視している千夏の様子を伺う。千夏の可憐な顔が、僅かばかり歪んで見えた。それは可愛らしい白い花でありながら、毒を持つ鈴蘭の花を思わせた。


 「私も千夏さんに同意するわ。試しに一度、入部してみた方がいいんじゃない?」


 加奈子が千夏の後押しをした。すると、次々に、合の手が上がった。


 「加奈子先輩の言う通りです! 私もとりあえず入るべきだと思います!」


 美樹が明るく言う。


 「わ、私も架柴先輩に入部して欲しいです」


 小夜もおずおずと口添えする。


 広希は困惑した。


 答えを聞かせて欲しいと言われたので、正直に話したまでだが、こうも聞き入れて貰えないとは思わなかった。だったら、始めから答えなど求めず、強引に勧誘すればいいのに。そう言葉が浮かんだが、もちろん口にしなかった。


 「気持ちはありがたいけど、やっぱり遠慮します」


 再度、広希は断った。やはり説得されても美術部という選択肢はなかった。食指が動かないのだ。


 少しの間、沈黙が訪れる。窓の外からは雨音が聞こえてくる。随分雨脚が強くなったようだ。


 「何が不満なの? もしかして道具が揃えられないとか?」


 加奈子の質問に、千夏が手を小さく手を挙げた。


 「それなら私が揃えてあげるわ。以前私が使っていた物もあるし、必要なら買ってあげる」


 千夏は太っ腹な提案を行う。何が何でも広希に入部して欲しいようだ。そこまで強い気持ちを見せてくると、むしろ及び腰になってしまう。例え、学校一の美少女相手だろうと。


 「次の休みの日、一緒に画材店まで一緒に行かない? 私が買ってあげるから。船橋の方まで行く必要があるけど、そこまでの移動費も私が出すよ」


 千夏は一方的に話を進めようとする。このままでは、なし崩し的に入部することになりそうだった。そうでなくても、女子にそこまでさせたら、男として何かが駄目になりそうな気がする。


 広希は、手の平を千夏に向け、若干語尾を強めて言った。


 「本当にごめん。やっぱりどうしても美術部には入れないよ。他の部活を選ぶね」


 そして、広希は頭を下げた。後頭部に、沈み込んだような視線を感じる。


 顔を上げると、非常に気落ちした四人の顔が目に映った。


 加奈子が口を開く。


 「まあ、広君がそういうなら仕方がないわね。ごめんね。しつこくて」


 そして、加奈子はペットボトルを傾け、血を飲む。柔らかそうな加奈子の唇が、赤く濡れていた。


 千夏は俯いていた。だが、やがて加奈子と同じように、水筒に口をつける。ダイヤブロックをあしらった可愛らしい水筒。よほど血を欲していたのか、運動後の人間のように、多量に飲んでいた。


 血を飲み終えた千夏の顔は満足気ではなかった。その目には滾る何かを孕んでいた。


 外から、シンバルを力任せに叩き付けた時のような、耳障りな雷鳴が轟いた。


 反射的に窓の外を見る。朝から降り続けた雨はさらに勢いを増し、ついには雷まで鳴り始めたようだ。帰りの心配と、言い知れぬ一抹の不安が首をもたげる。


 雨はまだまだ止みそうになく、これからさらにひどくなりそうだった。

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