藪 後篇
滝田の再婚相手の女の写真を見た。やはり大人しそうな雰囲気だった。
滝田は嬉しそうに喋った。
「彼女は外大卒だ。若いのに資産運用をしていて貯蓄が一千万あるんだ」
口が軽いな滝田。他人の貯金金額までべらべら喋るなよ。
滝田は彼女の魅力について並べ立てた。
「眼鏡からコンタクトにしてみたらと俺が勧めたんだ。俺の貢献によって彼女がきれいになった。俺の誇りだよ」
新しい恋に夢中のようだ。人としての在りようを導いてやらないといけないはずの意固地な香里奈さんのことは、もうどうでもいいんだな。野暮なことは云わないでおいてやるが。
ふとその時、「他人の貯金がいくらあるかなんて不用意に喋り回るな」と俺が滝田に『注意』をしたらどうなるのかと想像した。
その場では、「それもそうだな」と云うだろう。
しかしその後では、「金のことは世の中でいちばん大切なことだろ?」「新井は貯金の額は一切気にしないそうだ。非常識で心配だ」と微妙に焦点をずらした正論に変えて、何処かで喋り回っていそうな気がした。
俺は身震いした。
再婚相手について浮かれて語る滝田の様子は、前妻について『大人で有能で、とても優しい人だ。俺は彼女を尊敬している』と語った時と、まったく同じだったからだ。
滝田は、善悪の統合が出来ていないのです。
香里奈さんの声が甦る。
「もしかして滝田の奥さんでは」
以前俺が声をかけた時、香里奈さんは厭な顔をして、さっと逃げてしまった。その様子は滝田が云ったとおりのものだった。非常識なコミュ障。
しかし何かが引っかかったのだ。最初、滝田は彼女のことを激賞していたのではなかったか。
「窓口業務のせいか香里奈はマナーがよくて、俺も教えられることが多いんだ」
滝田はのろけついでに、そう語っていたのだ。それがなぜ、『挨拶も感謝もしないコミュ障の発達障害。傲慢で非常識な嘘つき女。何に怒っているのか分からない』に変わり、滝田は行く先々でそんな噂を流しているのだろう。
次に再会した時、これも運命だと想った。
弁当を売りにオフィス街にやってくるキッチンカー。高架を挟んだ反対側まで遠征して物色していると、また香里奈さんに逢ったのだ。
前回と同じように香里奈さんは顔を背けて立ち去ろうとした。
「あなたの元夫、何かおかしくないですか」
逃げられる前に一気に云った。
ランチを入れた袋をさげた香里奈さんが立ち止った。
俺と香里奈さんは公園のベンチに並んで話した。時間が足りなかったので、夜も待ち合わせた。
そこで聴いたことは想像を超えていた。
「自分のことを偉人だと信じ切っている人間。それが滝田です。いえ、気ちがいじみた強迫観念で、そう信じようとしているのです。滝田の実像は靄のようなものです。その外側に、滝田は理想の自分の姿をビニールのようにまとっています。その人形は現実離れしたヒロイックなものです。園庭の砂場の王さまか、万能の神のようなものです」
白黒、勝敗、上下、損得、強弱。
滝田が認識できるのはこれだけなのだそうだ。そして常に白で勝ちなのが本来の自分であるという認知のゆがみの中にいるために、それが対人関係においては様々な軋轢を生むのだそうだ。
「そんなことが可能なのか」
「無理です」
香里奈さんはうっすらと笑った。酷薄にみえるほどの笑みだった。
「人間には無理です。人間はグレーの中で生きているものです。しかし滝田にはそのグレーがないのです。自分は常に完璧な善人なのだから、悩むこともありません。演技はします。頭を抱えて『妻がなぜ怒っているのか分からない!』と叫んだりはします。自分に味方を増やし、妻は怒っている極悪人だという二度と取り返しのつかないイメージ・ダウンの目的で人前で大っぴらにやります。
思考能力もありません。愕くほど底が浅く視野が狭いです。有名人の言葉を切り貼りして発言しますが、本質が分かっていないので使い方がおかしいです。しかし滝田はそのこと客観視することはありません。何故なら都合の悪い点はすべて、ターゲットに擦り付けて、吹聴して回ることで解決しているからです」
「どういうことですか」
「投影性同一視と呼ばれているものです。ところで新井さん、あなたの前では滝田はどのような態度ですか」
「ふつうです。同僚です」
「では、あなたは滝田から見て『強』キャラか、味方に取り込んでおきたい人間としてカテゴライズされているのでしょう」
「貴女の前では、滝田は本性を見せていたということですか」
本性といえば『有名人の起こした事件簿』なんかに載っている大韓航空リターン事件ナッツ姫のような、あの我儘ぶりが代表だ。香里奈さんの、あの感情的に罵っていた録音音声もそうだ。こんなことを本人の知らないところで密かに知っているというのも厭なものだ。
そう、厭なものなのだ。
この厭なものは、どこからもたらされたのかというと、滝田が録音を聴かせてきたからだ。
「そのくらい、平然とやります」
うっすらと笑ってから、香里奈さんは能面のような顔に戻った。
「被害者は攻撃に次ぐ攻撃を毎日浴び続けています。耐えかねた被害者が反撃に出たところで彼らはすかさず録音、ということです」
「彼ら」
「まだ云っていませんでしたね。滝田はパーソナリティー障碍です」
パーソナリティー障碍。
近年関連書物が店頭にも並んでいる。しかし香里奈さんはあれは当てにならないと云った。
「書いた人が被害者ではない場合と、実際の被害者になった人とでは、どれほど話が混乱しているようにみえても、後者の方が正確です」
パーソナリティー障碍者は前頭葉の縮小や未発達が原因で、どの人間もまったく
同一の言動を取るのだそうだ。
「昆虫の生態が同じであるように、彼らはまったく同じことを云ったりやったりするのです。セリフまで同じです。『わたしは正直者で嘘だけはつけない』と滝田はしきりに云いませんか? あれは自らの悪行を消去して、セルフイメージを白く塗り替えているのです。
わたしは毎日滝田から、粗さがしの注意と指導を受けていました。そしてそのたびに頭を床にすりつけて、『貴重なお時間を使って下さってありがとうございました』と云わなければなりませんでした」
「そんなバカな」
俺まで腹が立ってきた。
「やり返せばいいじゃないか。そこまで感謝を強要するならば、当然、彼もあなたに感謝を述べたんですよね」
「いいえ。まったく」
ありがとう。
ごめんなさい。
この二つを絶対にターゲットに対して云わないのが、特徴なのだそうだ。とくに謝罪に関しては彼らの白黒思考により、謝ったら最後『下』となり、それ以後、無理難題をふっかけたり威張れなくなるため、絶対に云わないのだそうだ。
「ターゲットにされた人間は、たとえどれほど有能で性格が良かろうが、彼らの引き立て役になるために、無能で最悪の人間にされていきます。流される噂の中で憎悪されていきます。そのように作り変えられていくのです。毎日毎日毎日、粗さがし。細かいケチつけと注意と指導。それに反発すると、口答えをするのは感謝の気持ちがないからだと云われます。自分の姿の投影ですから、そうなるのです」
そんな男の本性を四年も付き合っていたのに結婚するまで分からなかったのか。
香里奈さんは、分からなかった、と云った。
「彼らが本命ターゲットに選ぶのは『理想の自分に近い人間』だと云われています。理想を理想として崇めている間は、こちらが上ですから、関係はうまくいくのです。しかし被害者に選ばれるような人間は、他人に対して威張り散らしたりはしません。これは滝田からみれば『下・弱』と映るのです。次第に王さまになりたいという欲望を隠せなくなるのです」
あれは『王さまごっこ』だったと香里奈さんは云った。
「滝田の理想は、新興宗教の教祖のようなものです。自分は何もしなくとも信者がちやほやしてくれて金銭を貢いでくれる。そんな存在です。しかしそんな才覚はないので、ターゲットを最下層に引きずり落すことで憂さを晴らすのです。
家庭での滝田は王さまでした。王さまの云う事に奴隷であるわたしは従わなくてはなりませんでした。逆らうと懲罰が下されます。暴力ではありません。勝つことだけを目的とした不毛な討論が朝まで続くのです。時系列も事実関係もまったく無視した恫喝と嘲笑。永遠に終わらないのではないかというほど、長く。
滝田はわたしの友人や、職場、実家に電話をかけました。わたしの上司や、父親の職場の上役を電話口に呼び出し、『問題児を躾け直したほうがいい。社員には謙虚と感謝の大切さを教えるように』と指示を出しています。これは、王さまごっこが外部にも流出したパターンです。自己愛の人間関係はひじょうに歪です。指示と指令。滝田のような人間に盲従していく人が悪いのですが、人間の心理の裏を突かれるために、善と正義をくすぐられて滝田に騙される人のほうが圧倒的です」
そんなことまでやっていたのか滝田。
しかしいつも普通に出勤して、仕事はそつなくこなしているが。
待てよ。
そういえば滝田が、「注意喚起だけど、あいつには、こういうところがあるから気をつけた方がいい」と云い触らしていた人物の評判が、みるみるうちに急落していって、孤立し、退社していったこともあったな。期待の新人だったのだが。
「滝田は王さまなので、眼前に自分よりも優秀な者がいたら無意識に潰しにかかります。応援している、心配していると云いながら、監視します。奴隷たちの努力は滝田の手柄。多大な貢献か、関与があったと自らほのめかして歩きます。最初から自分のものだったとすら彼らは想い込むことが可能です」
そして、と香里奈さんはうんざりしたように付け加えた。
「高すぎる自尊心と認知のゆがみにより、彼らは云ったこと、やったことを、自分にとって都合が悪ければ全て忘れてしまうのです。滝田がやったことを主語を伏せて伝えてみると、『そ、そんな酷いことをする人間がいるのか!』と滝田は叫びました。その時にはっきりとわたしにも分かりました。彼は異常だと」
ゴルフの帰りだった。午前中は妻が車を使うというので、俺の車に滝田を乗せてやっていた。滝田が車から降りた。バックドアを開けてトランクからゴルフバッグを降ろす。
建売の並ぶ住宅地。滝田の家はすぐに分かった。屋外ガレージに停めてある銀色の高級車。
ところが滝田はその家ではなく、向かいの家に入って行った。車を発進させながら横眼で見ると、滝田宅のガレージには、俺が最初に間違えた家とまったく同じ高級車が停めてあった。妻の金で買った新車だ。向い合せの家で同じ車を購入。
中身がないので滝田はすぐに人の猿真似をする。香里奈さんが云っていた言葉を想い出していた。
パーソナリティー障碍。その障碍の持ち主とは関わったら終わりなのだそうだ。
「居住地域一帯に悪評を流し、わたしの会社の関係者にも、滝田はわたしの悪口を吹き込みに現れました。ターゲットを包囲して監視するということは、ラブホテルの覗き見をやるような強い優越感を彼らの脳にもたらすのだそうです。麻薬のように強烈な快感です。情報収集や悪評拡散を行う時、滝田は興奮状態に陥ります。悪口を吹き込んで洗脳した手下を従え、ターゲットを管理下において指示を出すことで、滝田は王さま気分を味わうのです」
妻の恥となるような録音を平然と聴かせてきた滝田。
社内でもミスをした者のところに行っては「話をきくよ」と云って、眼をほそめ、聴き入っていた。あれは人の不幸を堪能して悦んでいたのだ。
「人を陥れることは、相対的に自分の地位を上にあげると想っているからです。錯覚であってもいいのです。その瞬間のみ、彼には陶酔感が沸き上がるようなので」
自分の紅茶の代金をきっちりレシートの上において、香里奈さんは俺の前から去って行った。後ろ姿が少し弱々しい。
店の窓ごしにもう一度、香里奈さんは俺にお辞儀をしてきた。
滝田ならばあれを見て、「こいつを嘲り笑ったり、こき使ってその成果や手柄をすべて献上させれば、俺は苦労などせずに常に機嫌よく上に立って目立てるな」と狙いをつけるのだろうか。上っ面しか理解できない滝田からみれば、謙遜や丁寧さも、奴隷にするのにぴったりな条件に見えるらしいのだ。
店を出た俺は香里奈さんを追いかけた。地下鉄の入り口で追いついた。まだあいつがストーカーしているかもしれないから近くまで送りますと云うと、香里奈さんは断らなかった。
「箱根で二日目につくった陶芸、焼き上がって届いてるわよ」
同棲している香里奈が、リビングで小包みを開けている。俺たちはこの秋に結婚することになっている。
滝田は二回目の結婚も破綻して最近、離婚した。滝田から逃げるために、元妻は子どもを連れて海外に移住したそうだ。
滝田が何か云っている。
あんなに下手に出て努力したのに、また裏切られた。でも俺はご縁を諦めない。人はひとりでは生きられない。あんな嘘つき女にまともな子育ては出来ない、心配だ。
感謝の大切さを知って欲しい。
その『感謝』とは、滝田にだけ平身低頭で捧げられるべきものなのだろう。
「コーヒー淹れるけど呑む?」
「うん、ありがとう」
香里奈と暮らす俺は念のためにICレコーダーを常に持っている。
[了]
藪(やぶ) 朝吹 @asabuki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます