藪(やぶ)
朝吹
藪 前篇
滝田が結婚するという。滝田とは同期で、新入社員の研修先で親しくなった。いつも明るく、人の輪の中にいて、率先して重い荷物を運ぶような男だ。いかにも『私学の雄』出身者らしい体育会系。
「滝田おめでとう。同期の中では一番はやい結婚だな」
「どうも。新井、これ」
滝田は俺に、結婚相手の写真を見せてくれた。
「美人じゃないか。付き合って何年」
「そろそろ四年」
「あ、そう。じゃあ入社した時にはもうこの人と付き合ってたのか」
ちっとも気づかなかった。社員は互いのプライベートを詮索しようとはしない。仕事が終われば即帰宅するあたりも、外資系らしい個人主義のドライさだ。私的なことが話題になるのは自分から話す時か、冠婚葬祭の時だけだ。
「考え方が大人で、とても優しい人なんだ。俺は彼女を尊敬している」
写真の中の、大人しそうな女。滝田とはお似合いに想えた。
二年経った。滝田が離婚の危機だという。
「妻が実家に帰ってしまったんだ」
喫煙所には人がいない。元より親世代からすでに禁煙社会に舵を切っており、大人の男ならば誰しもが煙草を燻らせるという、かつてあった文化は壊滅に等しい。
眼に見えて滝田の元気がないので、「何かあったのか」と滝田の肩を叩いてみたら、そういうことになっていた。
喫煙所のあるホールはがらんとしていて、高層階に差し込む午後の光が虚しく窓を照らしている。
「離婚請求までされているのか」
夫婦喧嘩でもしたのだろうか。
「それが、彼女が怒っている理由がまるでこちらには分からないんだ。執念深く俺を責めるばかりで、肝心の何に怒っているのかは分からないんだ」
「理由を訊けよ」
「訊いても答えてくれないんだよ。実家に電話をかけても、義父も義母も『あなたの電話には出ないそうです』と答えるばかりでさ。俺はエスパーじゃないんだ。せめて怒っている理由を知りたい。俺が正論を云ったらぶち切れるし、妻には参った」
「よくあることさ。そのうち、何とかなるだろう」
「だよな」
滝田は力なく頷いた。
「夫婦ならば何があっても話し合って関係を築いていくものだと想っていたんだ俺は。なのにさ」
「だからよくあることだよ」
「新井、ちょっとこれ聴いてくれ」
俺が聴くとも何とも答えないうちに、滝田はスマフォの録音機能をタップして再生をはじめた。
女性の金切り声がホールに響いた。
音声の中で、おろおろと滝田がなだめようとしているが、覆いかぶせるようにして「いい加減にして!」「攻撃するのは止めてッ」滝田の妻の凄まじい罵声が立て続けに続く。
キーッガーッギャーという感じだ。どう聴いても、激怒して夫を攻撃しているのは妻のほうだ。
「な。何に怒っているのか分からないだろ」
「……まあ、喧嘩になると女は大抵こうだよ」
「こういうのを、自己愛憤怒というそうだ」
「なんだって?」
「自己愛憤怒。俺は妻は、自己愛性人格障碍じゃないかと想うんだ。間違いを指摘しているだけの正論に激昂して反発するし、謝らない」
滝田の妻。名は香里奈さんだっけ。写真の中の女の顔を想い出した。大人しそうな人だった。結婚後ここまで豹変するものなのか。
俺は居心地が悪かった。周囲には誰もいないとはいえ、女の素の姿が会社の中で暴かれているのは、ひじょうに厭な気分だった。社員の情事の模様を動画で見せられているような、そんな感じだ。
俺は咳払いをした。録音再生はもういい。
「彼女、何かで追い詰められてるんじゃないのか。不妊とか」
「まだ二人だけの生活を楽しみたいから子どもは数年後にしようと、夫婦で決めたんだが」
再生を停止した滝田は肩を落として、大仰に溜息をついた。今日は帰社後、妻の実家に迎えに行ってみるという。新幹線の距離だ。
「大変だな。あまりこじれるようなら押さずに引いたほうがいいぞ。俺ならこれを幸い、独身生活を楽しむけどな。家にデリヘル呼ぶとかさ」
俺は軽い気持ちで冗談を飛ばしたが、
「俺は香里奈を裏切らない」
きっぱりと滝田は云い切った。冗談にマジで返してきたその眼が据わっている。
「やっぱりさ、人と人は対話だよ。誰も一人では生きられないんだから。お互い想うところを出し合って腹を割って話し合えば誤解は解ける。付き合っていた頃から香里奈には傲慢なところと、嘘をつく癖と認知のゆがみがあった。気にしていたが、まさかここまでとは想わなかった。夫として香里奈を救うために頑張るよ」
重ねて滝田はそう云うと、妻の声を録音しているスマフォを背広にしまった。
それほど愛しているくせに、妻のみっともない姿を他人に披露して聴かせるのか。
隠れて録画録音していたのか。
それは人権の蹂躙であり、裏切りではないのか?
その時の俺の頭に、ちらりとそんなことが過った。
滝田が妻の香里奈さんと離婚した。
家庭裁判所にまでもつれこんで揉めていた。
「夫が妻に逢いに行くのがストーカーだとさ」
滝田は荒れた。
「義両親もどうかしてる。娘を甘やかすから、ちょっとしたことでもすぐに拗ねて人と向き合わずに逃げ出すような女になるんだ。最期に『君はもっと視野を広げて他人の云うことに聴く耳を持った方がいい』と伝えたら、無言のまま、香里奈はタクシーに乗って行ってしまった。あんな礼儀しらずの意固地で無礼な態度では社会人としても失格だし、あれでは絶対に幸せにはなれない。
俺がなんとかしてまともな人間になるように教育してやろうとしたのに、攻撃されたと被害妄想を炸裂させるばかりで話にならない。わざわざ実家に何度も足を運んだのに感謝もない。そんな香里奈のことが俺は心配なんだ。だから、香里奈の友人たちと情報を共有するために繋がっておこうとしたんだが、友人たちにも俺の悪口を吹き込んでいるらしくて、まったく誰とも繋がれない。俺はどうすればいいんだ。なあ、新井」
知るかよ。
「離婚したんだろ。もう他人だ」
「それは冷たいだろう。元妻なんだから、まだ関係はあるだろう」
「ないよ」
俺はやや愕いて云った。
「法律上はもう他人だ。元配偶者というだけだ。ストーカーとまで云われているくらいなんだから、先方はもう完全にお前とは縁を切りたいんだ。香里奈さんのことは、すっぱり忘れてしまえ」
「そんな情のない」
滝田は抗弁してきた。
「人は誰でも人に助けられて生きているんだぞ」
「だからって香里奈さんがお前限定で助け合いに繋がれていなければならない理由はないだろう。彼女はお前の指示どおりに動けば、絶対に安泰で絶対に成功するのか? その想い込みこそ傲慢って云わないか?」
それに、頼んでもいないアドバイスや、俺に対しても、貴重な時間を割いて聴いてもらっているという意識はないのかな、こいつには。
「ご縁と感謝の大切さを香里奈は知らないんだ」
滝田はしつこくまだ何か云う。
「感謝の気持ちはご先祖さまから続いてきた何よりも大切なことだ。香里奈に人と人との絆、貴重な時間をつかってアドバイスをしてくれる人への感謝の気持ちを教えてやらないといけない。なにげない一言が命取りの地雷になってすぐに人を拒絶するなど視野が狭すぎる。あんな意固地で幼稚で無能な問題児では他人さまにも迷惑がかかるから、今までも俺が方々に説明して、劣った香里奈のことをよろしく頼むと頭を下げてきたんだ」
「なんだそりゃ」
何かがおかしい。
何かズレている。
最初、滝田はなんと云っていた?
『考え方が大人で、とても優しい人なんだ。俺は彼女を尊敬している』
「劣っている香里奈を救済してやらないと……!」
俺の前で見せるその様子は、滝田は香里奈さんの管理者か何かで、滝田だけがはるか高みにいる完璧な人間であるかのようだった。
滝田の言い分には何か異常なものがある。聴いているとそわそわしてくる。『横断歩道は手を上げて渡りましょう』と小学校の一年生で教えてもらったことを、大人になってまで満面の笑みで他人に云っている感じと云えばいいのか。
チューリップは赤だよ! と絶対に譲らないまま、隣の女の子の描いた白いチューリップまで赤いクレヨンで嬉々として塗り潰そうとしているような歪んだ正義。
『先生、香里奈ちゃんがチューリップを間違えた色で塗っていたので、注意したら、香里奈ちゃんから無視されています。人を無視するのはいけないことですよね? これはいじめですよね? 悪いのはぼくじゃなくて香里奈ちゃんですよね? よかれと想ってやってあげたのに誤解を受けました。人に何かをしてもらったらありがとうとお礼を云わないといけませんよね。
ぼくは悪くないですよね?』
俺はあまり、人と討論をしたくないタイプだ。
ディベートが嫌いなのは某巨大掲示板の管理人のせいかもしれない。相手を嘲って打ち負かすことに血道を上げるような人間は軽蔑している。
だからその時も、滝田に何も云わなかった。
何かを云おうとしても、「どこが間違えているのか」と改めて問い返されると、発言自体には突っ込みどころがない気がした。滝田の言い分はまさに、『横断歩道は青になってから渡りましょう』だった。異論の余地なしの規範。
「おい新井、きいたか」
外で買って来た珈琲をデスクに持ち込んで呑んでいたら、上司が顔を出した。
「この前離婚した滝田が、別の女と再婚するってよ」
「早いですね」
俺はパーテーションから顔を出した上司の方を振り仰いだ。
「だよな。離婚してからまだ三か月だ」
先日のあの、心を閉ざした香里奈を救ってやらなければ、見守ってあげなければいけないんだー! からたった三か月。
「離婚係争中も、女と付き合ってたんじゃないかな滝田のやつ」
「へえ」
前妻との離婚の原因がもし滝田の浮気だったとしたら、話は全く変わってくる。さらにこんな話も飛び込んできた。
「もう新築の家も購入済だそうだ。家を即決で買うか? やっぱりずっと付き合っていたんだろう。再婚相手の貯蓄で頭金を出して、残りの金で新車を購入するんだとさ」
……まあいいや。
俺には関係のないことだ。所詮どんな悩みも、人に相談する時には自分の都合のいいようにしか語らないものだ。
だからこそ、異様に想えた。
見せびらかすようにして俺に聴かせてきた、滝田が録音した妻の怒鳴り声。心配だ、見守らないと。口先でそう云うわりには惨いことを彼女に対してするんだなという印象のほうが強かった。
行動がその者の本質。そんな言葉を想い出していた。香里奈さんではない。口先とやっていることが乖離している滝田に対してだ。
着信音。
『わたしは定時で帰れそう』
『こっちは仕事で遅くなる。先に寝て』
同棲中の恋人にメッセージを返信する。
彼女は俺の好きな女性アナウンサーにちょっと似ている。晩婚化から一転して、最近は結婚が早い傾向にある。俺も彼女も結婚を視野に入れていて、同棲はそのお試し期間だ。
外資系のいいところは、仕事の結果が良ければ後は自由だということだ。俺は旅行サイトを画面に出した。
次の週末は彼女と一緒に箱根に旅行に行く予定になっている。室からの景観が良くてディナーと朝食が美味しいところがいい。高級ホテルに予約を入れた。
週末は台風だった。北上中の台風がもたらす悪天候をおして彼女と箱根に出かけた。新車を濡らす大雨も、傘が傾く大風も、大笑いしながら俺たちは乗り切った。不測の事態をイベントとして楽しめるのはいいことだ。
「外の景色が何も見えない。ナイアガラになってる」
窓辺で彼女が笑っている。雨で何処にも出かけられないだけに、広い部屋を取っておいてよかった。結婚しても彼女とはうまくやっていけそうだ。
台風が日本海に抜けたことで、翌日の箱根はきれいに晴れた。
》後篇
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