第4話 嬉しい誤算。好きにできる!
感情を押さえたような低めの声が、私には深みのあるコーヒーのようだと思えた。
少し苦くて、しかし印象的でまた聞きたくなる。
そんな感覚に妙な感嘆を抱いたが、すぐにハッと我に返る。
「はい、ウォーミルド子爵家のマリーリーフと申します。この度は――」
「余計な口上を聞く気はない。来い、一応部屋までは案内はしてやる」
一応初対面のようなものだ。
きちんと挨拶を……と思ったのだけど、どうやら不要らしかった。
後ろでミアが殺気立ったのが分かった。
おそらく今口を開けば「何ですかアレは」と言うだろう。
が、別に私は怒りを感じない。
私だって本当ならば畏まったり形式ばった事をするのは好きではない。
そういう形式も歴史が作った一種の形態ではあるけど、そういうのは知識として知っていればいいのであって、私自身がそれをそのまま実践する事にはあまり興味はないし、歴史や伝統を重んじない人を腹立たしく思ったりもしない。
踵を返した彼に続けば、荷物を持ったミアが後ろに続いた。
ズンズンと歩いていく彼に、思わず小走りになる。
彼はこちらを見る事もなく、不機嫌そうな声で言う。
「父上とどんな取引があってここにいるのかは知らないが、俺はこの婚姻に納得していない。そもそも誰が好き好んで、女なんていう面倒な生き物を屋敷に迎え入れないといけないのか……」
後半になるにつれて独り言のようになった彼の声に、私は思わず首を傾げる。
もしかして彼は知らないのだろうか。
私が友好と借金の形としてここに来たことを。
「とりあえず、ここには住まわせてやるがあくまでも同居に過ぎない。俺とお前は赤の他人だ、俺はお前の行動に一切の感知をしない。だからお前も俺の生活に口を出すな。俺は鬱陶しいのが大嫌いだ」
突き放したような物言いだった。
いや実際に、きっと突き放しているのだろう。
「お前に妻としての行いも求めない。ノースビーク辺境伯家としての社交活動も、屋敷内の采配も、今までしなくてもうまくいっていた。変に手を出して妙な事を起こすな。お前がすべき事はここにない」
もし彼を好いている令嬢ならば、いやそうでなくとも、もし縁談を前向きに捉えていた令嬢ならば、この言葉を聞いて怒ったり悲しんだりしたのかもしれない。
しかし私はそうではない。
これはむしろ、私にとっても嬉しい申し出だった。
だって「私の行動に一切の感知をしない」なんて、つまりは好きに過ごせるという事だ。
「私がすべき事はここにない」という事は、嫁ぐ事によってしなければならないと思っていたあれこれをする必要がないという事だ。
奪われざるを得ないと思っていた時間が返ってくるという事だ。
歴史研究のための時間は今まで通り、守られるという事である。
「分かりました! ありがとうございます!!」
思わずそう言いながら胸の前でガッツポーズをすると、彼が初めてこちらを見た。
振り返るほどではなく、チラリとこちらに目を向けた程度。
依然として覚めた目をしていて、フンと鼻を鳴らす。
その行動にどういう意図があるのかは、いまいちよく分からなかった。
しかしさして気にすることでもない。
今後も心置きなく歴史研究ができるという事実は、それだけの影響を私に及ぼしていた。
今後も歴史に思いを馳せる時間があるのなら、せっかくだ。
ノースビークの歴史について、少し深堀してみたい。
前にミアが言っていたように、ここでなければ感じられない事・知れない事もあるかもしれない。
そう思えば段々ワクワクとしてきた。
「部屋はここだ」
いつの間にか、私に与えられる部屋についていたようだ。
開いた扉の先にあったのは、子爵家の我が家と比べると随分と豪華な家具が備え付けられた部屋だった。
「必要なものは揃えてあるが、飾り立てたいというならあとは自分でするがいい。俺はそういうのは好かないが、どうせこの部屋に入る事もない。俺の関知するところではない」
彼は素っ気なくそう言ったが、私には十分すぎる部屋だ。
たしかにシンプルで飾りっ気はないけど、私自身あまりゴテゴテとした場所は好きではない。
そういうものは、気が散るのだ。
総じて私の歴史的考察を妨げてくるから。
「あとは好きにしろ。両親は今長旅に出ていて、屋敷にいるのは俺とお前だけだ。挨拶の相手は誰もいない。後の事はすべてジョンに聞け」
彼の言葉に、ずっとそばに控えていた執事が一歩前に出て丁寧にお辞儀をしてくる。
「私、この屋敷で筆頭執事をさせていただいております、ジョンと申します。以後お見知りおきください」
そう言って、ロマンスグレーの髪の彼は朗らかに笑いかけてきた。
立場もこの屋敷の使用人を取りまとめる筆頭執事だし、おそらくこの屋敷に勤めてかなり長いのではないだろうか。
彼の歓迎の気持ちが宿った黒い瞳に、私も微笑み頷いた。
それを認めて、彼は無言で踵を返す。
おそらく一定の義務は果たしたという判断だろう。
「あっ、ケルビン様」
そんな彼を慌てて呼び止めると、剣呑な瞳がこちらを見返す。
呼び止めてしまって申し訳ないけど、一つだけ、どうしても気にすべき事があった。
「先程『私がすべき事はここにはない』と仰いましたが」
「何だ不服か」
「いえ、とんでもない!」
慌てて否定し、本題を告げる。
「すべき事がないという事は、好きに過ごしていいという事ですよね?」
「勝手に好きにすればいい」
「では、屋敷内にもし古書や古い文献があれば、それを読んでも?」
「執務室には絶対に入るな。それ以外の場所にあるものなら、何でも選んで読めばいい」
興味なさげに言った彼の言葉に、私はウキウキしながら言った。
「ありがとうございます!」
彼は、私を何やら変なものでも見たかのような目で一瞥した後、今度こそ部屋から出て行った。
室内は、私とミアと執事の彼――ジョンだけになった。
「マリーリーフ様、馬車に積んである荷物はメイドたちにこの部屋に運ばせます。お疲れでしたら夕食までの間、こちらでおくつろぎいただければと思いますが」
部屋に掛けてある時計を見ると、時刻は午後二時を過ぎたところ。
この屋敷の夕食の正確な時間はまだ知らないけど、ひと眠りできそうな時間はあるだろう。
が。
「よろしければ、屋敷内を案内してもらえませんか? 色々と見て回りたいのです」
先程は、ケルビン様についていくのに精いっぱいで、屋敷内をよく見る暇もなかった。
外から見た感じだとかなり広い屋敷だったから、探検できる場所も多いだろう。
それはつまり、それだけノースビークの、いや、この屋敷の歴史を知る事ができる機会が多いという事でもある。
屋敷の中の何気ない物から歴史を感じる事ができるし、何なら古書の類も探したい。
そんな思惑を抱えた私のお願いに、彼は快く応じてくれた。
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