第9話 大団円

 捜査本部に戻った高杉刑事は、まわりの刑事から、

「大丈夫なのか? 精密検査と言われてビックリしていたんだぞ」

 と言われ、

「ええ、大丈夫です。ご心配をおかけしました」

 というと、門倉刑事は、

「伊藤先生に任せておけば安心だから、心配はしていないが、あまり無理をしないようにした方がいいかも知れないな」

 という労いの言葉をもらい、感服してしまった。

「捜査の方はあまりうまくいっていないという話を伺ったんですが」

 というと、

「そうだね。聞き込みであったり、情報収集に関しては、想像以上にうまくできたんだけど、そこから推理するとなると、なかなか難しい。これから捜査会議に入るんだけど、どうだい、きつくなければ、参加してみないかい?」

 と言われて、

「ありがとうございます。ぜひ参加させてください」

 と言って、これまでの捜査内容を記した書類を渡された。捜査会議は一時間ごということだったので、内容はそれを読めば分かりそうな感じだった。

 被害者はチンピラの山岸で、彼は詐欺行為を繰り返していたようだ。その詐欺の被害者も何人かいて、中には自殺をした人もいるという。殺害現場はやはり別にあり、これも最近になって分かったのだが、取り壊されるはずになっている廃工場に、血痕が残っているのを発見した作業員が警察に通報していた。

 その場所というのは、山岸が騙した中の一人が勤めていた場所の工場であり、山岸によって騙された女性が、会社の金を使い込み、そのため、会社の経営が傾いたことで、いくつかある工場お一つを閉めることになったという曰く付きの場所だった。

 その女性は使い込みがバレる前に退職し、山岸と逃げるつもりだったようだが、最後には山岸が掌を返して、本性を現したという。訴えようとしても、山岸が関わっているという証拠はどこにもないので、すべてお前が悪いことになるだけだと言われたと、遺書に書かれていた。

 そう、騙された彼女が自殺をしたのである。

 その彼女には妹がいて、彼女が復讐をしたのではないかということで捜査本部は捜査したが、結局、鉄壁のアリバイがあるようで、彼女の犯行を立証できずに、今に至っているという。

 他にも山岸に騙された女性もたくさんいるのだが、彼女たちにはすべてアリバイがあるということであった。

 そこまで分かっているようだったが、一番怪しいと思われる女性を発見するまではすぐだったのに、そこから一歩も前に進まないというのは、これほど苛立たしいことはない。確かに山岸という男は殺されても仕方のない人物ではあり、それも分かり切っている高杉であったが、どうにも、この事件に対しての苛立ちが身体から湧き出してくるようで仕方がなかった。

 それは、門倉刑事の苛立ちとは違うところから来ているようで、何かが見えてくるような気はしていたが、今の段階では、

「苛立ちを感じる」

 という程度で、それ以上のものはなかった。

「これ以上は、捜査会議に出席して、実際に事件に入り込んでみなと分からないことではないか」

 と思ったが、この事件をいかに考えるかということはこれからの問題だった。

 高杉にとってこれから何をすべきかというのは、そこからである。

 時間がある限り、捜査をまとめた資料を何度も読み返したが、そのたびに何かがこみあげてくる気がするのだが、どこから来る思いなのか分からなかった。

 そのうちに、どこからか臭いがしてくるのを感じた。

「ヤバい」

 と感じたのは、その臭いがホルマリンの臭いだったからだ。

――そのうちに、酢の臭いがしてきて、さらにはアンモニアを感じるようになるんだろうな――

 と感じたのだ。

「それでは、捜査会議を始めます」

 という声が聞こえてきた。

 高杉は、ビックリした。というのは、さっきまで、刑事課の部屋にいたはずなのに、臭いを三つ嗅いだと思い、気が遠くなるのではないかと思ったその瞬間に、遠くの方から、捜査会議を始めるという声が聞こえ、そして目を開けてみると、そこは捜査本部であり、まわりの刑事は粛々とした緊張感に包まれ、真剣な顔で正面を見ている。

 正面には、門倉刑事と本部長が座っていて、まわりを見渡していた。

「それでは、それ以降の情報を教えてください:

 ということで、手を挙げたのは、辰巳刑事だった。

「被害者に対して一番の容疑を持っている中村綾香という女性は、あれから田舎に帰ったようです。田舎に戻ったのは、姉の墓参りが目的で、尾行していた刑事の報告では、姉の墓前で山岸が殺されたことを、憎しみを込めた笑いで話していたということです。まるで妖怪のようだったというほどに苦み走った顔だったと想像できます」

 と報告した。

「アリバイの方は?」

 と訊かれて、

「ええ、やはり鉄壁で、一緒にいたという人も、少ししてから、コンビニの防犯カメラに映っているんですよ。二人が一緒にいたというカラオケ店の防犯カメラも疑いようもなく、そういう意味では彼女が山岸を殺害するのは不可能ですね」

 という報告で、

「じゃあ、他の容疑者は?」

 と訊かれて、桜井刑事が立ち上がり、

「他の容疑者も同じことでした。誰も被害者を殺害できるところにはいませんでした。そしてやつが殺された廃工場にお、容疑者の痕跡は一切ありません。被害者の痕跡は至るところに残っているのにですね。それだけ周到に計画された犯行なので、結構手間のかかったと思います。そうなると、時間的に、他の人にも犯行は無理ですね」

 ということで、八方ふさがりのようだった。

「じゃあ、新しい発見はなかったと?」

 と言われて、

「被害者が廃工場に入って行く時、後ろからその様子を伺っている人がいるようなんです。ただ、それが誰なのか分からない状態だったので、怪しいといえば怪しいですね」

 ということだった。

 さらに、

「被害者と直接関係があるというわけではないんですが、容疑者の一人である中村綾香が最近、誰かと付き合っているという話を訊きこんだのですが、どうやら彼女は姉が騙されてから、一時期、男性恐怖症になっていたらしいのですが、そんな彼女がいきなり男性と付き合い出したというのもおかしいですよね」

 という話も出た。

「その男の身元は分かっているのかね?」

 と訊かれて、

「いいえ、今のところはハッキリとはしまぜん」

 という報告を受けると、辰巳刑事が、

「その件なんですが、田舎に帰った中村綾香が、最近少し何かに怖がっているという話を訊いたりもしたんです。そして、彼女の家の近くの交番で、最近ストーカーに追われている気がするのよと、漏らしていたというんですね。今の話を訊く前は、別に深くは考えてなかったんですが、彼女に誰か付き合っている男性がいるとすれば、その話もまんざらでもないような気がしてきましたね」

 と、辰巳刑事が言った。

 その話を訊きながら、高杉はじっと黙って下を向いていた。目を瞑って、捜査本部の状況を想像しているようだったが、今までになかったかのような状況が、瞼の裏に浮かんでくるのを感じた。

 今までであれば、瞼の裏というと、赤褐色の光が通り抜けたような背景に、何もイメージが浮かんでこなかったのだが、今は真っ黒い、まるで暗黒の世界で目を開けているかのような世界が浮かんでくるのだが、話を訊いているうちに、次第に明るくなってくるのを感じた。先ほどのような三すくみの臭いが鼻をついているのを感じた。

「アンモニア、酢、そしてホルマリン」

 順番は、いつものものだった。

 すると、またしても、臭いがなくなっていき、まったくの無臭になったのを感じた。

 目の前に浮かんだ光景は、十分に色を判断できるくらいの明るさになっていて、その明るさが、今までに逢ったことのないはずの人を、シルエットで浮かび上がらせていた。

 そこにいるのは、女だった。それが問題の中村綾香であることは、自分の意識がそう言っていることで、疑いようがなかった。その女を見つめている男がいる。その男は、間違いなく見覚えがあり、そう、この間殺されたチンピラの山岸だった。

 山岸は、明らかに中村綾香を見張っている。もし、何かあれば、遅そうという意識だ。ただ、それは性欲によるものではなく、その様子は、

「隙あらば、殺してしまおう」

 という意志だった。

 つまりは、殺された男が、自分に恨みのある女を殺そうと狙っている姿だった。だが、その光景には続きがあった。

 続きというよりも、そんな二人をさらに後ろから見ている人がいるということである。しかも、綾香はその後ろの人間に、山岸が気付かないように近づいてくる。そこで、鼻と口に何か布のようなもので覆って、男が暴れはしたが、すぐに意識が遠のいているようだった。

 どうやら、麻酔剤であろう。それを高杉は、ホルマリンだと思った。すると、二人はそのまま男を縛り上げ、ニンマリと笑っている。女は最後に現れた、山岸を意識不明にした男に対して、そのご褒美とばかりに、身体を捧げる、汗臭い臭いが部屋に充満し、その時に感じたのが、酸っぱい臭いであった。

 さらに、二人が部屋から男を廃工場に運ぶために、車に乗せた。そこから彼女は自分のアリバイを作るためにすぐに別の場所にいき、男は山岸を意識不明のまま、廃工場へと連れていった。

 その廃工場では、アンモニアの臭いがしている。その臭いに刺激されたのか男が起き上がった。

「ここはどこだ?」

 とチンピラは慌てる。

「お前はここで死ぬのさ。それも自分の悪行がそうさせたことだと諦めるんだな」

 と言われたが、山岸としては、見ず知らずの男に殺されるのは理不尽とばかりに逃げ出そうとするが、逃げることなどできるはずなどない。

 そう思っていたが、もうこうなってしまっては、どうすることもできない。見たこともない男に理不尽ながらに殺された山岸は、そのまま公園に放置される。それが事件の全貌だった。

 中村綾香が見たという田舎に追いかけてきた男は、どうやら、実行犯ではないだろうか。最初は何が目的なのか分からなかった。綾香と結婚できるとでも思っていたのかと思ったが、どうやらそうではないようだ。

 確かに綾香は狙われているということを警察に相談はしているが、実際に怯えているようには思えない。自分をつけ狙っている男がいるということを思わせるだけだった。

 それが警察から疑いを掛けられているために、架空の加害者を作り上げるためだとすれば、何が目的なのだろう?

 高杉は、ここまで分かっていると、少し違った発想が生まれてきたのを感じた。

 その瞬間、妄想の中にいた自分が表に出て、何となく事件の全貌が見えてきた気がした。

「すみません。これから言うのはあくまでも私の妄想かも知れませんが、聞いていただけますか?」

 と言って、捜査会議の中で、少し停滞した時間があったので、その隙をついた。

「どういうことだね? せっかくだから、聞かせてもらおうか?」

 と本部長はそう言った。

 門倉刑事としても、今の状態では、捜査が進まないのは分かっているので、何でもいいからきっかけのようなものが欲しかった。ここまでまったく事件に入っていない高杉刑事であるが、逆に新鮮な意見が訊けるという程度に考えていたが、実際には、みんなの想像をはるかに超えていた。

「私が考えているのは、今度の事件で、計画した人間と実行犯では違うと思うんです」

 と言い出した。

「確かに、この事件は、誰か共犯者がいるのではないかという考えもある。だが、今のところ一番容疑の深い人物にも、他のやつの被害者にも犯行は不可能に思えるんだ。それをどう判断するというのだね?」

 と、門倉刑事から言われ、

「私が思うに、これは交換殺人を持ちかけておいて、相手を騙すことで、自分の保身を図ろうということではないかと思うんです。相手に実行させて、自分に鉄壁のアリバイを作る。でも、その実行犯は、被害者とまったく面識のない人なので、疑いが掛かることはない。だけど、自分は実行犯として実際に罪を犯してしまった。だから、綾香に、自分が殺してほしい人を殺してもらおうというのが、今の段階では不可能となってしまうと、すべてが綾香の計画通りになってしまう。それが真犯人である、中村綾香の計画だったんじゃないでしょうか?」

 と高杉刑事は言った。

「交換殺人? まさか」

 というどよめきの声が聞こえた。

「交換殺人なんて、普通に考えればありえないでしょう。よほど、相手に暗示をかけるか、自分の言うとおりになるように洗脳でもしない限りは」

 という話を訊いて。

「いや、それはあるかも知れませんよ。世の中には人を洗脳したり、暗示や催眠術に掛ける人など山ほどいますからね。だけど、その人物は、ある意味で、誰かに復讐したかったのかも知れない。いや、挑戦と言えばいいんでしょうか? ひょっとすると、その男が中村綾香に近づいたことで、計画を実行する気に綾香はなったのかも知れません。どう考えても、綾香だけの力ではどうにもなることではないですからね」

 と高杉刑事は言った。

「そういえば、中村綾香という女性は、以前、神経内科に一時期通っていたと言います。そもそも、姉の自殺から少しして、彼女も精神的に憔悴していたという話でしたので、彼女の中の感受性が姉の事件からのショックを引き起こしたのかも知れないですね。その時の先生はすでに辞めていたようですが、看護婦に話が聞けて、その看護婦がいうには、中村綾香さんには、アレルギー性の精神疾患があったということなんです。アナフィラキシーショックとまでは行きませんが、それ以前にショック状態が分裂するそうなんです。アナフィラキシーに移行する場合と、精神的に暗示にかかりやすいという二つにですね。それを訊いて、私は少し気になって、いろいろと聞いてみました」

 と桜井刑事が言った。

「どういうことが分かったのかね?」

 と門倉刑事が訊くと、

「どうやら、彼女は異臭を気にしていたというのです。どうも彼女が気にしていた臭いというのは、アンモニアの臭いで、子供の頃にハチに刺された時のトラウマがよみがえってくるのが怖いと言っていたと聞きました」

 と、桜井刑事が言った。

「アンモニア?」

 と聞き返したのは、高杉刑事だった。

「ええ、アンモニアです。アンモニアの臭いで、かつてハチに刺されたことがあったのを思い出したと言っていましたからね。それを訊いて、先生は少し興奮しているようだったと言います。先生はたまに、看護婦も寄せ付けないようにして、検査をしていたりしたそうですが、そのうちに、中村綾香を入院させると言い出したそうです。その病院は、入院設備もあったのですが、入院までしなければいけないほどの病気ではなかったのでどうしてなのかと思っていたようですが、看護婦には、彼女が感じる臭いに関して、逐一報告をしてほしいと言われたということなんです」

 と桜井刑事がいうと、

「臭いだって? 臭いで何が分かるというんだろう?」

 と門倉刑事は思ったが、逆に高杉刑事の方は、その話を訊いて、

――やはり私が感じた方に、どんどん流れてきているような気がするな。まもなく自分の中で、事件の真相が分かってくるような気がする――

 と感じた。

「彼女はどんな臭いを感じたというんです? ひょっとすると、酢の臭いと、ホルマリンじゃないですか?」

 と高杉刑事がいうと、まわりの刑事があっけに取られてポカンとしていたが、当の聞かれた桜井刑事だけは、カッと目を見開いて、

「そうなんだよ、まさしくその通りなんだ。看護婦に聞き出してみると、酢の臭いと、ホルマリンだったというんだ。看護婦もその理由が分からず、先生に訊き返そうと思ったようだが、先生が不敵な笑みを浮かべて一人悦に入っている表情を見ると、恐ろしくて聞き返せなかったというんです。それにしても、高杉刑事。どうしてあなたにそれが分かったというんですか?」

 と桜井刑事が訊くと、

「ええ、それは今はハッキリとは言えませんが、私の中では、交換殺人という意見が、裏付けられたような気がします。彼女が行っていた病院で、似たような経緯のある患者が必ずいるはずなので、その人を探していてください。その男が実行犯であり、今、どうしていいかを模索しているところではないかと思うんです。いや、ひょっとすると、K大学病院の伊藤医師を訊ねているかも知れません。私はそんな気がして仕方がないんですよ」

 と高杉刑事は言った。

 高杉刑事の発想は、本当に奇抜ではあったが、理路整然とはしている。むやみに無視できるないようではないだろうと、門倉刑事は思うのだった。

「とにかく、今はこの事件の全貌が見えてきていないので、高杉刑事を信じて行動することにしよう」

 という門倉刑事の号令の下、捜査は進められた。

 実に的を得ていた推理に、誰もがビックリしていた。高杉刑事の推理にほとんど違うことなく時系列という意味でも、それぞれの人間の心理においても、ほとんどその通りだったのだ。

 高杉刑事に言わせれば、

「一つのきっかけがあれば、そこから迷うことなく、人間の心理を探っていくと、結果は分かっているわけですから、時系列を逆にたどれば、必ずどこかに行き着くと思うんですよ。それがもし、途中で詰まったのだとすれば、考えを変えるのではなく、そこから見えてくる違う発想を思い浮かべることで、いかに事件を推理していけばいいかがおのずと見えてくるのではないかと思うんです」

 と言っていたが、実際には伊藤医師の実験がものを言った。

 この事件を解決するために、高杉刑事の中で、

「命にかかわらない、脳内でのアナフラキシーショックを植え付けることで、自分の脳波を覚醒させることになる」

 という思いがあったからだ。

 なぜ、その思いを持ったのかというと、

「私の助手だった男が私に逆らって、せっかくの脳内アナフィラキシーショックを悪い方に、つまり洗脳する方に使ってしまうことを危惧して、君には悪いと思ったが、それを阻止するために、君にも脳内アナフィラキシーを起こさせ、それが予知能力と、過去に脳を戻してのそこからの予知を可能にするという二手に別れた予知を脳内アナフィラキシーによって起こさせたんだよ。君はよくやってくれた。でも、このおかげで君の中の抗体は消えて、もうハチの毒でショックを起こさなくなったんだ。今後はこの研究を、どんどん広げていって、いずれは、アナフィラキシーショックを失くし、未来にはアレルギー自体を失くして、それによって、ウイルスや悪い菌を絶滅させる力を持った抗体が生まれてくれることを願っているんだ」

 と先生は言った。

 高杉刑事の力は、これで終わった。もう脳内アナフィラキシーを起こすことはないだろう。だが、彼はこれでいいのだと思った。

「人類の未来などというとおこがましいが、今の時点で、生きた証を残すことができたと思うと、感無量ですよ」

 と言って、ニッコリ笑っていた……。


               (  完  )

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脳内アナフィラキシーショック 森本 晃次 @kakku

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