第7話 遠のく意識の中で
翌日からいよいよ高杉の精密検査が行われた。普通の人間ドッグのようなものだが、今回は精神的なもの、脳はや反応などの臨床試験のようなものも結構あったので、クスリの投与や注射なども結構打たれたりした。
「心配することはないからね」
と先生はいうけれど、普段から健康で、あまり病院などに来ることのない高杉には、精密検査はさすがにきつかった。
以前入院したことがあったといっても、子供の頃だったし。大人になってからではまったく精神的に違っている。
「今回の臨床的な試験は、君の条件反射と言った反応や、脳はなどの検査によって、意識や記憶を探るもの。そして、薬品の反応をみることでアレルギーなどの事前チェックだね」
と先生は言った、
「アレルギー? って先生、大丈夫なんですか? まるで人体実験みたいじゃないですか?」
いくら権威ある先生だとはいえ、まるでモルモット扱いされることには抵抗があるではないか。
「いやいや、そんなに心配することではない。薬品はすべて実際に使われているもので、市販薬でもある。そういう意味でも君を怖がれセルつもりはないんだ。それよりも、私は逆に君が薬品に新たな効果を生み出すと思っているんだ。だから、君が何か変わるということはない。そこは安心してもいい。だけど、薬品を使ったことで、君の潜在的な能力が覚醒するかも知れない。それは私も願ってもないことなんだ。もっと言えば、私が今回の精密検査で知りたいところは、君の中にあるアレルギー性の力なんだ。ハッキリと言って君にはアレルギーによって、まだ隠された力があると思うんだ。ショックによって覚醒するのではないかと思う。それは一種のアナフラキシーショックと言えるのではないかと思うんだが、ショックを起こしたからと言って、君が苦しんだり危篤状態に陥ったりはしない。そちらかというと、君の本性が出てくるのではないかと思うんだ。実はこの実験は海外でも行われていて。アナフィラキシーショックに似たもので、その人の才能を覚醒させようという研究が行われている。まだ正式承認はされていないんだが、いずれ近い将来、認められることになるはずなんだ」
と先生は言った。
先生は少し言葉を切って、呼吸を整えて、再度話し始めた。
「私は、海外で少しの間、この研究チームに入って、一緒に研究してきた実績とノウハウを持っているんだ。そして、日本での研究を今も続けている。実際に被験者も今は数人いて、私の研究を立証してくれいるんだ。私は君を覚醒させたいんだ。君にはその能力があると思っている。危険なことは何もない。だから私を信じてほしい」
と先生はそう言っているが、次第にその声が遠のいていくのを感じた。
――あれ? どうしたんだ?
鼻を突くような臭いがして、その臭いがまず、ホルマリンの臭いがして。次には酢の臭いを感じた。
そして最後にはアンモニアである。
そこまで来ると意識が一気に遠のいていき、そのまま昏睡状態に陥るのは分かっていながら、身体を動かすことはできなかった。
意識が薄れる中で、
「これはこの間感じた時と逆の臭いではないか」
というものであった。
種類は同じだったが。感じてきた臭いの順番がまったく逆なのである。あの時は、アンモニアから始まって、酢の臭い、そして最後にホルマリンだった。
今回はホルマリンからだと今感じているということは、完全に意識をまだ失っているわけではない。それがこの間の時との違いだろうか?
「ん? ということは、順番は違うがあの時、この臭いを感じたということか? それは先生以外にもこの臭いを所持している人がいるということなのか、まさかあの場所に先生がいたというわけでもあるまい」
と、混乱する頭の中でいろいろと発想してみた。
しかし、どこまでが自分の意識のうちなのか分からずに、きっといつの間にか眠ってしまうのだろうと思っていると、一気に臭いを感じなくなると、身体が宙に浮いたように楽になり、
「このまま眠りに堕ちていくんだな」
と感じたのだった。
夢というのは、
「潜在意識がなせる業であり、夢から覚めていくにしたがって忘れていくものだ」
という思いを抱いたまま、今まさに自分が夢の真っ只中にいることが分かった。
この間、潜在的な意識と記憶を感じたが、記憶の方は自分が意識するしないに関わらずに持っているものだという感覚だったが、潜在意識の場合は、自分が意識していないところで意識しているものなのだろうか。
どちらにしても、意識してできるものではなく、本能によるものなのかがどこかで働いているのかも知れない。
そういう意味で、夢というものを、自分ではどうすることもできないものであり、勝手に見てしまうものであり、しかも、勝手に忘れてしまうから厄介でもあった。
夢を見たことすら忘れてくれていればいいものを、楽しい夢などは、おぼろげに頭の中に残ってしまっているから、完全に忘れることができず、まるで残像のように残ってしまっている。
起きている時にもそのような感覚というのはあるのではないか?
眠っている時と同じように、確かに意識がしっかりしている時に、ふと記憶が昔に戻っていることがある。しかし一人の人間がハッキリしている意識の中で二つのことを同時に意識することはできない。できているかのように重いのは、ものすごいスピードで意識が展開されているからなのか、それとも意識を展開を感じることができないように人間ができてるからなのかではないだろうか。
昔の無線機のように、こちらから話をしている時は相手からは何も聞こえず、相手が話している時にこちらが何を言っても、向こうは分からないというような感じのものではないだろうか。
だが、意識として残っているものが、何かの残像のようなものであったとすれば、同時に存在できるかも知れない。その残像が夢だったのだとすれば、決して夢を忘れてしまっているわけではない。結界ほど完璧なガードではないベールのように、風が吹けば少しは向こうが見えてくるというそんなものであれば、意識と記憶、さらに意識と本能、そして夢と現実という感覚に風穴を掛けられるのではないか? という考えが、薄っすらと意識が遠のく中で感じられた。
そういえば、点滴を打ちながら、看護婦さんが、優しい声で、
「意識が薄れていく時に、何を考えるか、それが大切なのよ」
と言っていたのを思い出した。
その声は優しく高杉を包み込んでくれているようだった。
高杉は、意識が遠のいていく中で、大学生になってから付き合った女の子のことを思い出していた。今の看護婦さんの声のように、優しく包み込んでくれるような声だった。
「この声を聴いていれば、意識も失うわ」
と思うと、点滴を打っているから意識を失いかけているわけではなく、それよりも看護婦さんの声に自分の意識を吸い取られているかのように感じるくらいになっていた。
看護婦さんの声はそれほど甘くとろけるような声で、しかも、かつてその声に覚えがあるだけに、薄れ始めた意識を、どうすることもできなかった。
夢というのは、潜在意識が見せるものだからこそ、自分に経験したこと以外を見ることはできないともいえる。そういえば、覚えている夢のほとんどは、過去に感じたことで怖かった思い出を夢に見ているのがほとんどだった。怖くないが、印象に深く刻まれているかのような思い出は夢に残っているのか、残像になっていた。
自分の意識は大学時代に戻っていたが、やたらとリアルに感じられるのは、その夢に友達が何人も出てきたからだった。
だが、出てきた友達は皆今の自分であり、大学生の自分に対して、対等には接してくれない。完全に上から目線で、今の自分であれば、懐かしいと思うのだろうが、夢の中の自分は友達のリアルさに恐怖を感じていた。
そして、付き合っていた彼女が目の前に現れる。彼女だけは自分と同じ大学生で、その瞬間、二人は大学時代に戻っていた。だが、大学時代に戻った甘い時間を過ごしている自分を見ていると、どうしても他人事にしか思えない。
「ああ、俺はもう大学を卒業しているんだ」
と思うと、目の前に見えている二人の影が次第に薄れていくのを感じた。
「ここから夢が覚めていくんだな」
と感じると、
「夢というのは、限界があり、その限界に向かってゆっくり進んでいるように見えるけど、気が付けばあっという間にその結界まできていて、結界を超えると今度は一気に目を覚ますところまできてしまう。目の覚め方はゆっくりではなく、一気に覚めてしまうところが夢の夢たるゆえんではないか?」
と感じるのだった。
この時は、夢から覚めていくという意識はあった。
しかし、普段のように、
「覚めないでくれ」
という思いはない。
覚めないでほしいという意識を持っている時は目が完全に覚めると、見ていた夢を忘れてしまうという意識だったが、今回の夢は覚めないでほしいと思わなかったわりには、夢を覚えているわけではない。夢の内容は覚えていないが、意識だけが残っているのだ。それが登場人物が今と同じか、夢を見ている自分と同じなのかというような形式的な感覚だけであった。
そういう意味で、感情が思い出せない。
そう考えてみると、夢を見て、怖い夢しか覚えていないという感覚は、
「怖い夢というのが、意識的に覚えているというよりも、夢のインパクトが強すぎて、忘れさせてくれないと言った方がいいのかも知れない」
つまりは、
「覚えているわけではなくて、怖くて忘れられない」
ということである。
覚えているということが、自発的な意思であれば、忘れられないというのは、受動的な感覚としてのものであり、それを、
「意識に対しての潜在意識と呼ぶのではないだろうか?」
と感じるのだった。
意識というのは意志に対して、自分が発信して行う行動ではない。しかも、潜在意識はその意識からさらに、感覚すらないということではないかと、高杉刑事は感じるようになっていた。
ふと、今度は自分が刑事であるという意識がよみがえってきた。
どうして刑事になろうと思ったのか?
忘れるはずもないことを、思い出そうとして、なぜか思い出せなかった。
「まだ夢の中にいるのだろうか?」
覚めたと思っていた目は覚めたわけではなく、夢の世界から抜けただけであって、完全に目を覚ましたわけではないと思うと、どこか納得できる自分がいた。
「夢なんて、まるでマトリョーシカのようではないか?」
と大学時代の友達が言っていたのを思い出した。
あの時は友達が何を言っているのか分からず、
「どういう意味だい?」
と聞き返したが、今から思えばその言葉を訊いて、一瞬にしてその意味を理解できていなければ、理解することはそれ以降できるはずはないと感じたということを、忘れてしまっているのだ。
だが、今回の夢でそのことを思い出した。
きっとその時はすぐに忘れてしまう運命だったのだろうが、もし未来において、偶然か必然か、思い出すことができたとすれば、その理由が分かる時なのかも知れないと思った。
今夢から覚めたと思った時、まだ目が覚めていないという途中の段階を感じた時、必然だか偶然だかが起こってしまったのだろう。
まさしく、ロシアの土産物として有名な、
「マトリョーシカ人形」
人形の形の蓋を開けると、その中には少し小さな同じ人形が入っていて、さらにその中にまた同じ人形が入っているという、どんどん小さくなっていく人形を横に並べてみることを楽しみにするという子供心、それが、マトリョーシカであるが、その精神は人形だけではなく、人間の中の感情の中にもあるものであり、どんどん蓋を開けていくと、そこに佇んでいるものは、一体なんであろうか?
それを別の意識で考えると、
「前と後ろに鏡を置いた時、その先にはどんどん小さくなっていく自分が永遠に見えている」
という感覚に陥ったことがあった。
まるでマトリョーシカと同じだが、この時、マトリョーシカに感じた一番の疑問がこの鏡でも同じことの言えるということにすぐに気付いた。
それは何かというと、
「どんどん小さくなっていき、半永久的に続いているのに、最後には消えてなくならないのだろうか?」
という思いである。
その時、高杉は、もう一つ似たような発想を思い浮かべた。
それは数学の発想で、
「ある整数に対して、どんな数字で割ったとしても、絶対にゼロになることはない」
というものであった。
いくら一を数百億で割ったとしても、絶対にゼロにはならない。これは小学生にだって分かることではないか。
しかし、そうは思っても、そのことに誰が疑問を感じるだろうか?
「あらたまって考えると、これほど不思議なことはない」
と感じることが、この世の中にどれほど多いというのかを考えてみると、実に面白い。
例えば、前述の鑑ではないが、
「左右は対称に見えるのに、上下はどうして逆さまにならないのか?」
という疑問である。
最初、高杉は、
「左右に見えるのが当たり前で、どうして上下が同じなのか?」
ということを疑問に思ったのだったが。他の人に話すと、まったく逆の発想で、
「何言ってるんだよ。上下がそのままなのは当たり前じゃないか。左右が逆に見える方が不思議な感覚なんだよ」
と言っていた。
要するに、感覚の違いが錯覚を呼び、どちらが正しいのかと考えるべきか、事実は別にあり、どっちもおかしいという考え、さらには、見え方が違っていることが悪いというわけではなく、どちらも正解だという考えもある。
つまり、
「考え方が自由にあるように、感じ方だって、人それぞれでいいではないか」
という発想である。
だが、ある程度までは共通していないと、それぞれが勝手な行動を起こしてしまい、秩序が守られなければ、同じ空間で生きていくことはできないと言えるのではないだろうか。それを思うと、
「信号機を守らないとどうなるか?」
というところまで落とした発想になってしまう。
錯覚と潜在意識の違いをいかに説明できるかということから、話は始まっていくのではないかと思うのだった。
前述の鑑の話ではないが、上下左右の鑑に写ったものの違和感という意味で説明している話を訊いたことがあったが、その人の意見としては、
「上下というものほど、意識が強く持たれていて、左右に関しては結構曖昧だ」
という発想であった。
その発想がどこから由来するのかというと、それは重力という観点からであった。
「重力があるのだから。上から下に対してモノが落ちるのは当たり前で、左右に関しては反対に見えることに違和感はあっても、上下が逆さまに見えるほどではない」
という感覚であった。
「だからどうした?」
というところまでは理解できなかったが、違和感があることであっても、別の媒体によって説明できることであれば、違和感も少しは解消できるのではないかと言いたいのではないかと勝手に想像していたりした。
看護婦が注射を打ちながら、意識が朦朧としてくる中で、よくそこまで考えられたものだと感じたが、そもそもいつも何も考えていないように自分で感じている時以外は、必ず何かを考えているという感覚に陥っている。
つまりは、
「少ないと思っていることも、結構多かったりするが、実はその反対がもっとたくさんであることを知る」
という意識である。
平たくいうと、例えば、水平線の見える砂浜に佇んでいる時、その状態を目に焼き付けておいて、今度は、天橋立で見るように股を開いて、その間から同じ景色を見た時に、どう感じるか? というのと似ているのだ。
上が下になって、下が上になる。そのため、それまでそんなに広くはない、空と海と陸を三等分したかのように見えていたはずの光景では、一番下にある空が、その光景のほとんどを占めているかのような錯覚に陥ってしまう。
これは前述の鑑の上下で反転しないという感覚とは逆であることを思い出させるものだ。そう考えると、やはり上下で同じに見えてしまう感覚というのは、やはり違和感があるはずなのだ。
「違和感がない」
と言った友達も本当は違和感を感じているが、左右の違和感の方が強すぎて、こちらに違和感を感じていないだけなのかも知れない。
そういえば、先生がハチに刺された時に、注意してくれたことを思い出した。あの時には何を言っているのかよく分からなかったが、最近では、ワクチンの副反応という見地からよく耳にするようになった言葉であるが、
「アナフィラキシーショック」
というものがある。
先生の話として、
「ハチに刺されると、一度では死なないけど、二度差すと死ぬという言葉があるんだけどね、あれは大げさではあるんだけど、実際に死んだりする人のいるから気を付けなければいけないんだ」
と先生が言った。
「どうしてなの?」
と聞くと、
「人間というのはね、怪我をした時には血が出てくるでしょう? その血はいつの間にか、かさぶたができて、血が止まっているでよね? あれは自分の中で怪我を治そうとする力があるからなんだよ。それに、風邪ひいたりした時、熱が出たりするだろう? あれだって、風邪が熱を出ささせているわけではないんだ。人間の身体の中にある力が、風邪を抑えようとして風邪と戦っているから、熱は出るんだよ。だから熱が出た時って、本当はすぐに冷やしては本当はいけないんだ。さすがに四十度近くなると危ないけど、三十八度台くらいまでであったら、熱が上がり切るまで上げた方がいいんだよ。たぶんその間には汗がほとんどでないと思うんだ。汗が出ないから、身体に熱が籠ってしまうので、どんどん熱がでる。でも、その熱が上がり切ってしまうと、今度は汗とともに、風邪の悪い菌が一緒に出てくるんだ。その時に一気に冷やすようにして。着替えを何度もして、身体から汗と毒素を追い出すんだよ。だから、そこから少々でも熱が下がれば身体がスーっとして、楽になってくるんだ」
と先生が教えてくれた。
「へぇ、そうなんだ・知らなかった」
というと。
「それでね、人間には毒牙入ってくるとそれを追い出すための血がらが働くし、一度身体にその毒が入ると人間の身体は学習して、今度はその毒が入ってきても大丈夫なように、バリアを貼るんだ。そのバリアを抗体というんだけどね。免疫と言えば分かりやすいかな? 覚えておくといい。それでね、他の病気であれば、その抗体は反応してくれて、最初ほどひどくならなかったり、身体を壊す前に撃退してくれたりするんだよ。はしかやおたふくかぜのような病気は、一度掛かれば、二度と掛からないと言われているだろう? それと同じことなんだよ。でもね、ハチの毒というのは少し違うんだ。一度刺されると、同じように人間は抗体を作るんだけど、もう一度刺されると、人間は他の病気と同じように毒を撃退しようと、その抗体が反応して追い出そうとするんだ。でもね、ハチの毒というのはそんなに簡単なものではなくて、何とせっかく作った抗体と反応して、アレルギーを引き起こすんだよ。それが原因で人間はショック死することになる。それをいわゆるアナフィラキシーショックっていうんだ。このショックは酷い時には命を失う。だから、ハチに二度刺されると、二度目には死んでしまうというのは、このことなんだよ」
と説明してくれた。
「なるほど、よくわかった気がするわ」
と言ったが、さすがにその時はどこまで分かっていたか、自分でも自信がないが、話をしているうちに、
「じゃあ、人間はハチの毒で死ぬんじゃなくって、アレルギーによるショックで死ぬっていうことなんだね?」
というと、
「うんうん、そういうことだよ」
と先生は嬉しそうに言った。
言われてみれば当たり前のことを説明してもらって、それを反復しただけのことなのに、先生がここまで寄るこぶということは、それだけ難しい話であり、話の中で一番どこが重要な部分かということを分かってもれていないということであろうか?
それなのに、高杉少年が何の気なしにいった言葉が的を得ていたことが、よほどうれしかったのだろう。
高杉少年にとって、アナフィラキシーショックという言葉は、子供心に言葉が難しいだけに、
「覚えたら恰好いいだろうな?」
と思い、ずっと口ずさんでいたことで、この話を思い出したら。すぐに出てくるようになった言葉だったのだ。
最終日の検査では、
「いよいよ今日が最終の検査となります。今までにも何度か気を失うような形で検査を行ったまいりましたけど、今回も気を失うかも知れませんが、今回の検査では、あなたの中に意識として残ることになるかも知れません。別にそれで何かの変調があるというわけではありませんが、そのつもりでいてくださいね」
ということを看護婦から言われた。
ここまで来て、いまさら拒絶する気もなく、先生の検査に従うだけだったが、最初の看護婦のその言葉は少し気になっていた。
なるほど、検査を受けて、次第に気が遠くなっていく。これは昨日までと同じで、看護婦の声に快感を覚えながら、まるでエクスタシーの波を超えるかのように、夢の世界に飛び込んでいくのであった。
だが、今回はこれまでと違って無臭であった。アンモニアの臭いも、酢の臭いも、さらにはホルマリンの臭いもしない。ただ、看護婦の声だけで広がっていくエクスタシーの世界であり、臭いがないことに却って違和感があったが、快感というものがどこに繋がっていくのか、追いかけたい気分になっていくのだった。
これまでの治療で気を失った時に見ていた夢は、時系列に沿った形での過去から気になっていたことを夢に見るという形だった。忘れていた内容を思い出されるものもあったくらいで、まず最初の日に見たのは、あのハチに刺された日の記憶だった。
ハチに刺された時の夢は、今までにも何度か見たことがあった。その都度、
「ハチに刺された夢」
という意識を持って覚えてはいたのだが、日にちが経っていくうちに、その夢の記憶というよりも、夢を見たという事実自体が意識から曖昧な記憶に変わりつつあったのだ。
夢の内容は忘れるわけではなかった。日が経つにつれても色褪せない記憶に、却ってその夢を見たのがいつだったのか、それが曖昧になってくるのだった。
つまりは、記憶が鮮明なせいで、それ以外の部分の意識が曖昧になってくる。こういうことって実際にあるのだろうか?
一体その夢を見たのがいつだったのか。昨日だったのか一か月前だったのか、それとも一年前だったのか、過去であることに間違いはないという当たり前のことしか意識として分からないというほど、曖昧を通り越して、当たり前のことですら、曖昧だとしか思えないくらいになっていた。
そのことを、一日目の意識あなくなったその日に先生に言ってみると、
「高杉さんが、その意識を持ったのは、私にとっては成功なんです。一日目はあなたが本当に意識してしまった原点を見せる夢だったんですよ。だからこれから幾度か意識が遠のくような検査を行いまずが、それは過去からどんどん時系列で経過することで、最後に見る意識不明の中での意識は、本当に過去なのかということですね」
という意味不明の話をしていた。
「どういうことでしょうか?」
と聞いてみると、
「先ほど見たあなたの夢は、あなたがウスウス自覚しているかも知れない能力を、自分でも意識できるようになるための、準備段階にしか過ぎません。しかもそれは、あなたに自覚を促すもので、もちろん最初は私が指摘しなければ、分かるはずのないことなんですよ」
というではないか。
「じゃあ、私がこの話をするのも想定されていたということですか?」
と高杉が効くと、
「ええ、そうです。きっと高杉さんは、ハチに刺された時の意識を、夢の中で見たことでしょうね。でも、そのハチに刺されたという夢は今までにも何度か見ている。見ていてその夢の内容を覚えているわりには、それ以外の記憶が定かではなくなっていた。ただ、むしろ曖昧になってくる現象は、夢でなくとも当たり前のことなんですよ。時間が経てば記憶は曖昧になってくる。なぜなら、途中から記憶というところに移動するからなんですよ。そのタイミングというのは、人それぞれだし、意識の持ち方でも決まってきます。ただ、その容量には違いはないので、おのずと、記憶に移行するタイミングは人によって違うというわけです。でも、その記憶から意識に移さないと、もう一度夢を見ることはできないんですよ。しかもその意識は潜在意識でなければいけない。そこが同じ夢を見れるかどうかの分岐点になるんです。人間であれば、誰もがその分岐点を分かっているはずなんですが、それを意識できないがために、同じ夢を見ることは決してできないと思い込んでしまうんですね。それは、一種の自己暗示で、それが当たり前のようになっているのが、夢と現実を使い分けるという、人間の意識の中にあるテクニックと言われる部分だと思うんですよ」
と先生は説明していた。
そう言われると、疑問に思っていた部分が少しずつでも瓦解してくるように思えた。
これまでに何度も失った記憶の中で、高杉はどんどん記憶が現在に近づいていたのだ。
なぜなら、夢の中に出てきた自分は、夢を見ている自分は、あくまでもハチに刺された少年時代なのだが、夢の登場人物である友達だったり、家族や先生は、夢を見ている時の自分の世界そのものだったのだ。つまりは夢を見た時が大学生であれば、自分だけが子供で、まわりの友達は大学生であり、親も大学生の頃の自分と比較できる年齢だったのだ。
考えていれば、過去の夢を見た時というのはそうではなかったか、自分だけが過去に戻っていて、まわりの人は現代なのだ。背景は過去のものなので、自分がいることへの意識に違和感はないが、まわりに人は違和感だらけであった。
そんな夢をこの入院中に何度、気を失いながら見たことだろう。しかも、それは一度だけではなく何度も見ているのだ。その見た夢は既視感があり、初めて見る夢ではないということは何度目かには確信に変わっていた。
夢から目覚めた時にはいつも、先生が目の前にいた。
「先生、どうして、すぐに目の前におられるんですか? まるで目が覚める時間が最初から分かっていたようじゃないですか?」
というと、
「いやいや、それが錯覚の元になるんだよ」
「どういうことですか?」
「君も今までに覚えがあるかも知れないけど、自分が意識していない時、目が覚めたその時に、どうして相手が分かったんだろうって思うことがあるだろう? それは今回と同じ理屈なんだけど、それは当たり前のことなんだ。これは君に限らず誰もが意識としては持っているんだけど、そのことについて皆自分だけでしか分かっていないと思っているので、余計に自分で感じている理屈が結び付いてくるとは思わないんだろうね。きっとステップをいくつも経由しないと理解できないこととして、勝手に難しくしてしまっているんだと思う。それが余計な発想を生むことで、理解できないのだろうが、遠回りすることも実は大切なことなんだ。つまりは、遠回りするからこそ、潜在的に分かったように思うのだろうね。まさか遠回りの末に辿り着く意識だなんて、誰も考えたりはしないだろうからね。それが夢のメカニズムだと私は思うんだ」
「結局、どういうことなんですか?」
と、痺れを切らして聞いてみると、
「少し焦らしてしまったようになったけど、これはすまないことをしたね。つまりはね、君も聞いたことがあるかも知れないが、夢というものは、どんなに長いと感じる夢であったとしても、目が覚める直前の数秒で見るものだという発想なんだよ。それは、夢を見ている間、意識がギュッと凝縮されているということでもあるんだけど、それよりも、さっき言った、遠回りの発想を抱かせるためのものでもある。だから、ここに現実に戻った時と夢の中での大きな埋めることのできないギャップがあることで、夢を意識として目覚めることはできないんだ。夢は夢としての記憶の格納場所が存在していて、実際の記憶と混同しないようにしていると私は思う。だから、同じ夢を基本的には見ることはできないものだし、見たとしてもその意識がハッキリと分かるものでもないんだよ」
と先生は言った。
「つまり、今まで自覚していたことは単独で考えるから、真相には近づかなかったけど、今の先生の説明のように、なかなか理解は難しいけど、理論立てて考えると、おのずと見えてくるものがあるということでしょうか?」
と聞いてみた、
「そういうことになると思うよ。私も今こうやって説明をしてはいるけど、理解してもらおうとして話をしているわけではない。ただ、もし理解できるとすれば、今のような状態でないと感じることはできないと思うんだ。それで話をしているんだけどね」
という先生に対して、
「でも、先生はその結論に、しっかり達しておられて、他人に説明できるだけの理解をされているわけですよね。先生も今僕が受けているような状態を、誰かに作ってもらったりしたことがあったということでしょうか?」
と聞くと、
「それはハッキリとは言えない。いや、言ってはいけないことになっているので、申し訳ないが、これ以上、私のことには触れないでほしい」
ということであった。
「じゃあ、僕が今こうやって受けている検査のことも、誰にも話してはいけないということですか?」
と聞くと、
「いや、別に話をしてはいけないわけではない。でも、聞いた方が理解できるわけもないと思うし、それ以上に、君にこれを他人に対して正確に伝えることができるかどうかと言えば、できないんじゃないかい?」
と先生に言われ、思わず顔を伏せてしまった。
「ええ、その通りです、完全に看破されてしまいましたね」
と言って微笑んだが、その笑みの中に屈辱感があることを、先生には分かっているに違いないと思った。
「今の君が受けている検査は、実は私にとっても、いい試験になっていると思っているんだ。これを研究材料にして、さらなる薬の開発に役立てたいと思っているのだけども、基本的には実用化は難しいと思っている」
と先生が考えながら言った。
「それはどういうことですか?」
と聞くと、
「この薬品は臭いがどうしてもきついのと、本当に正常な人が服用すると、その副作用が懸念されるんです。理論上、かなりの副作用がある。だから、服用時点でかなりの制限があるこの薬は、薬剤師の処方でも、難しいところがあります。きっと認可が下りることはないと思うんだよ」
と先生はいう。
「じゃあ、どうするおつもりなんですか?」
と高杉が訊ねると、
「治療薬としては難しいんだけど、今回のような治験薬としては十分に使用できると思うんだ。ただ、それも一定の制限を受けた患者にだけ使用できる。今回の君のように、意識の中にあるトラウマが、身体の中に潜伏しているショックとが微妙に反応するような時、これを使って治験ができるんだよ。治療には使えないが、精神的なことから身体に異変が起こった人に対して、一番有効なのではないかな? 治験だけではなく、うまくいけば、この薬を使って、完治させることもできると思うんだ」
と先生は言った。
「でも、副反応があるんでしょう?」
という高杉に、
「それはあくまでも、正常な人に対してのことであって、少しでも精神に異常がある人には的確に反応してくれる。そう、この薬は、相手の症状によって効用が違うんだ。一番いい方法を薬が判断して、身体に入ると、そのように変化していくんだ。まるで生きているかのようで、知識を持ったクスリ。こんなもの、一体誰が信用してくれるというんだ? これが今のところの私のトラウマというところかな?」
と、先生は珍しく熱く語った。
「熱く語った」
というのは、贔屓目に見た言い方で、完全にその時の先生は、
「自分の説明に酔っていた」
のであった。
「いやあ、すまないね。私も自分でこんなに興奮してしまうとは思ってもみなかったのでビックリしているんだけど、とにかく高杉君には、本当に感謝している」
と先生はいった、。
「感謝?」
「ああ、君はたぶん、検査を受けながら、私の考えていることを分かったんじゃないかな? 君の精密検査と言いながら、私が君の検査結果を研究に役立てようとしていることをね。私としても、そんな研究の横流しのようなことに対して罪悪感がないわけではない。だけど、研究者にとって、超えなければいけない壁のようなものがあるんだ。それは結界ほど強くはないけど、よほどの結果が得られなければ、先に進むことのできないもので、今ちょうど私は結界にぶち当たっているところだったのだが、そこへちょうど君が来てくれたことで、私の研究も進めていくことができる。そういう意味で君には感謝しかない。それだけに、何としても君のその症状を和らげてあげることにも全力を尽くしたいと思っているんだ」
という先生のセリフを、
――どこか、言い訳っぽい気もするな――
と思いながらも、医学の発展に自分が寄与できれば、それに越したことはない。
そう思うと、先生を信じるしかないと思うのだった。
「ところで先生、アンモニアの臭いと酢の臭いと、さらにはホルマリンの臭いが、いつも交わることなく、時間差で襲ってくるんだけど、どうしてなんだろう?」
と聞くと、
「今言った臭いはね。実は三つ一緒にすると、無臭になるんだよ。それぞれの臭いが打ち消す合うというか。まるで三すくみの関係のようじゃないかと私は思うんだ」
と先生は言った。
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