第4話 伊藤医師

「おい、高杉君。しっかりしろ」

 という声が聞こえた。

 聞き覚えのある声で、それが辰巳刑事であることは分かった。何度もその声を聴いた気がした。最初は意識が遠のいていく時、そして、今度は意識が戻る時、この間本人の意識としては、ほとんど繋がっているようにしか感じなかった。もし意識を失っているのであれば、限りなくゼロに近いとはいえ、意識を失っていた瞬間がしばらく続いていたという意識だけは存在しているはずなのだが、その時の高杉にはまったくその意識はなかったようだ。

「僕は気を失っていたんですか?」

 と聞いたのは、気を失ったという意識を感じさせないほどに、二言目があっという間だったからだ。

「ああ、短い間で会ったが、完全に気を失っていたよ」

 と辰巳刑事が言ったので、

「僕は何か言いましたか?」

 と聞いたのは、以前にも大学時代、急に気を失ったことがあり、その時は、何かを言っていたと聞かされた。内容は分からなかったが、明らかに何かを言っていたという。

 その時は、気を失ったという意識はあった。気を失って意識が戻るまでの間、何か別の時間が存在したという意識があったからだ。しかし、今回そんな意識はなかった。だから前の時とは違うと思ったのだが、どう違うのか、前との比較の意味で、気を失った時に何を言ったのかを確かめたかったのだ。

「何やら、ハチに刺されたから、どうのというような感じだったような気がするんだけどね」

 と辰巳刑事は言った。

「ハチ? ですか?」

 と驚いた高杉を見て、まったく驚きの様子を見せない辰巳刑事は、

「ああ、そう言ったよ。君は最近、ハチに刺されたりしたのかね?」

 と言われて、

「いいえ、子供の頃に刺された経験があるだけなんですが」

 というと、

「じゃあ、この雑木林でその時のことを思い出したんじゃないか?」

「ええ、そうかも知れません。ただ……」

 と言いかけていうのをやめた高杉だったが、

「ただとは、どういう意味だね?」

 と辰巳刑事に訊かれて、

「気絶する少し前に、一瞬息苦しさを感じて。その時に異臭を感じたんです。それがアンモニアの臭いだったんですよ」

 というのだ。

「アンモニアというと、ハチに刺された時の特効薬のようなものじゃないか。その匂いを感じた時、子供の頃の記憶がよみがえってきたんじゃないか? でもおかしいな。私にはその時、そんなアンモニアの臭いなんかしなかったんだけどな」

 と辰巳刑事がいうと、

「僕は学生時代にも気絶したことがあって、あの時も何か臭いを感じた気がしたんですが、その匂いを理解する前に、息苦しさから一気に気を失ったんです。目が覚めると、その時、何か臭いを感じて気を失ったということをすっかり忘れてしまっていました。でも、今ここでもう一度気を失うと、あの時の記憶までよみがえってくるようで、実におかしな感覚なんですよ」

 と高杉は言った。

「それは、何かの暗示があるのかも知れないね。ハチに刺されたことがトラウマになっているとか」

 と言ったのは、門倉刑事だった。

 門倉刑事は、K警察署の誇る自慢の刑事で、まもなく警部補に昇進するという話にもなっていたほど優秀で、歴代の新人刑事の憧れの的だという。

 類に漏れずに高杉も門倉刑事を尊敬していたが、自分の尊敬するという視線は、今までの先輩たちとは違っているように思えた。どこがどう違っているのか自分でもハッキリとしているわけではなかったが、漠然とそう思うのだった。

 かづ蔵刑事にそう言われて、

「ハチに刺された記憶からアンモニアの臭いを感じたのか、それともアンモニアの臭いを感じたから、ハチに刺されたことを思い出したのか、どっちなのかって思うんですよ」

 と高杉刑事がいうと、

「君にはウスウス感じていることがあるんじゃないかい?」

 と見透かしたように門倉刑事が言った。

 さすがに、尊敬に値する刑事だけのことはある。

「私は今回、気を失った時、その期間を意識できなかったんです。前の時は明らかに気を失っているという自覚があったんですが。今回はなかった。でも、あの時は臭いが分からなかったんです、アンモニアだったのではと思ったのは、今回アンモニアを感じたからであって、ひょっとするとその二つの意識が重なって目が覚める時、気を失った瞬間がなくなってしまったのではないかと思ったんです」

 と高杉刑事がそういうと、

[私にはそんなアンモニアの臭いを感じることはなかったが、辰巳刑事はどうだい?」

 と訊かれた辰巳刑事も、

「いいえ、私もそんな感覚は皆無でした」

 というではないか?

 それを訊いて、頭をひねりながら考え込んでいると、

「別に私は高杉君がウソを言っているとは思っていないんだ。むしろ、本当に高杉君にしか感じることのできない何かがこの空間に溢れているのではないかと思うんだ。そういう意味で、その正体が分からないだけに、ここは、高杉君には一刻も早く離れてもらって、このまま病院に行ってもらいたいんだ。医者に話をして、その状況を報告してもらいたい」

 というではないか。

 それには辰巳刑事も賛成で、現場を見る限り、第一発見者として高杉刑事に何かを訊くということはもうないような気がした。門倉刑事のいうように、一刻も早く医者の話を訊いてきてもらいたいと思ったのだ。

「どこかかかりつけの医者でもいるのかい?」

 と言われて、

「ええ、K大学病院の伊藤先生ですね」

 というと、

「伊藤先生は私も知っているが、なかなかの先生だ。よろしくお伝えください」

 と門倉刑事に言われて、さっそくK大学病院に向かうことにした。

 まずは、病院の方に連絡を取ると、ちょうど今日は病院にいたようで、

「とにかく、来てください」

 ということで。急いで病院に向かった。

 伊藤先生は子供の頃にハチに刺された時、話をしてくれた先生だった。今までに何度も先生の世話になってきたが、またハチのことで世話になることになるとは思ってもいなかった。

 しかも、ハチのこととはおえ、本当に刺されたことでいくわけではないところが、少し違ったところだった。

 もっとも、もう一度刺されていくようであれば、その時は救急車で運ばれ、生死の境をさまよっていたかも知れない。それを思うと、想像するだけで、ゾッとするような恐怖を感じるのであった。

「先生、お久しぶりです」

 と言って、まずは、久しぶりの再会に顔が緩んだ高杉だった。

 そういえば、この病院に来るのは刑事になってから初めてで、前に来た時は、警察に入ってすぐの研修期間だった。あの時は確か、研修中のちょっとした不注意からの軽傷からだった

 あの時は、

「いやあ、久しぶりだね、警察に入ったんだって?」

 と言われて、

「ええ、そうです。まだ研修期間中なんですが、ちょっとした不注意で面目もないです」

 というと、

「いや、何、君が来ることは分かっていたよ」

 というではないか?

「えっ、そうなんですか?」

 というと、先生は一瞬、しまったという顔をしたが、すぐに気を取り直して、

「虫の知らせのようなものだよ」

 というのだった。

 今まで現実主義者だと思っていた先生に、初めて違和感を感じた時だったので、よく覚えている。

「先生は今回も虫の知らせがありましたか?」

 と皮肉交じりで言ったが、一瞬ドキッとした様子を見ることができたが、

「ああ、あったよ」

 という返事を、あたかも用意していたかのように感じたことで、やはり、以前の虫の知らせも本当だったのだと感じた。

「実は。今日来たのはですね……」

 と言って、さっき自分が死体の第一発見者となり、その時アンモニアの臭いを感じることで意識を失ったことを話した。

 すると先生は、

「なるほど、それで、過去にハチに刺された時のことを思い出したんだね? 確かにアンモニアはハチに刺された時の応急処置に使うものだからね。それにしても、それだけのことで私のところまで来たのかね? 意識はすぐに戻ったんだろう?」

 と言われて、ここに来ることを強く推したのが門倉刑事であるということをいうと、先生は少し考えていたが、急に微笑んで、

「なるほど、門倉君だったら確かにそういうかも知れないね。彼は、結構人間の中にあるトラウマであったり、PTSDつまりは心的外傷後ストレス障害のようなことにはかなり気を遣っておられるので、君を見てそのことを感じたんだろうね。ところで、そのアンモニアの臭いというのは、最初にいきなりアンモニアだと思ったのかい?」

 と言われて、

――何を不思議なことをいうんだろう?

 と感じたが。

「いいえ、最初は何か分かりませんでした。まずは酢ではないかと思ったけど、何か違うし、次に感じたのはホルマリンのような臭いで、それも何か違うと思ったんです。そしてアンモニアだと感じた瞬間、一気に意識が薄れていったんですよ」

 というと、

「なるほど、その時に誰かが君に対して何も言わなかったかい?」

 と訊かれて。

「辰巳刑事が、大丈夫かと言ってくれていたのを意識が遠のいていく中で覚えていたんです。でも、その次の瞬間、また声が聞こえ始めて、今度はそれで意識が戻ったんです」

 というと、

「ということは、君の中では意識を失っていた瞬間がなかったということだね。ふむふむ、なるほど」

 と先生は一人納得していた。

「どういうことですか?」

 と聞かれた先生は、

「実は今の段階でコメントできることはないんだけど。高杉君が感じたその思い、間違いではないんだよ。自分がおかしくなったとでも思っているとすれば、それは違う。それだけは断言して言えると思うんだ。とりあえずは、少し精密検査をしてみようと思うんだが、大丈夫かな?」

 と言われて、

「時間的にはどれくらい?」

「検査のための準備も含めて、二、三日は必要だ。君さえよければ、門倉刑事には私から話をしておこう。この事件に感じても、君の精密検査は大いに意味のあることだからね」

 と先生は言って、意味不明の笑顔を浮かべた。

 安心させるつもりの笑顔だろうが、そう簡単に安心できるものではなかった。

「そういえば、君が一番最初にこの病院に来たのは、確かハチに刺された時だったかな?」

 と先生は話し始めた。

「ええ、そうです。確か小学三年生の頃だったと思います。最初はハチに刺されたことで、僕も怖くなったんですが、それ以上にまわりの人がやけに心配しているのにはビックリしたんです。ハチに刺されたくらいなら、クスリを塗るだけでいいのかと思っていたら、救急車まで来て、点滴を打たれながら、病院に来たのを覚えていますよ。とにかく皆慌てていて、肝心の僕だけが落ち着いて、何が起こったのかと思いましたよ」

 と言って笑うと、先生も笑いながら、

「今だからそうやって笑っていられるんだけど、あの時はそうでもなかったんだよ。何しろハチに刺されたということは分かっていたけど、君の学校の先生からは、ハチの種類が分からないということだったからね。君は本当にあの時、意識がしっかりしていたのかい? 救急車の情報を訊いた時は、既得状態だということだったんだよ。実際に君がここに運ばれてきた時は、正直意識はなかった。呼吸困難を起こしていて、何らかのアレルギー反応だと思ったんだ。そうなると、問題はそのアレルギーの正体なんだけど、どちらにしても、ショック状態い見えたので、これは危ないと思った。このまま意識がなくなれば意識が戻る可能性は低いと思ったんだ。だから、既得状態のまま、何とかその原因を見つけたかった。そのためには、時間との闘いだったんだよ」

「そんなに危なかったんですか?」

 と聞くと、

「ハチの毒が頭に回ってしまえば、ショックが脳を侵食し、そのまま意識が戻らない可能性がある、下手をすれば植物状態だ。一番最悪な形だと思ったんだ」

 と聞くと、さすがにゾッとした。

「でも、君の意識が戻って、君から話が聞けたとき、君は、意識を失った記憶がないと言ったんだ。今のようにね」

 というのを訊いて、高杉は頷いた。

「確かに意識を失ったような記憶はあったんですけど、すぐに意識が戻ったんです。まるでうとうとしていて、そのまま眠りに就いてしまいそうになっているところを、誰かに起こされたような気分ですね。あまり気分のいいものではなかったですが、先生たちまわりの人のホッとした表情を見ると、何が起こったのか分からなかったけど、気を失っていたというのは分かった気がします」

 と、高杉は言った。

「その時の状況と、今回の状況が何となく似ているような気がしたので、私は精密検査をしたいと言ったんだ。あの時も結局分からずじまい。だけど、もう一度あったとすると、以前のこともあるので、ここで解明しておかないと、また起こった時、どう対処していいか分からないだろう? 今原因を突き止めておいて、治療法があったり、発作のようなものであれば、その特効薬を持っておくこともできるわけだ。時間との勝負ともなれば、なおさらのことだからね」

 と、伊藤医師はいう。

「ただ、僕が気になったのは、自分の意識がない時間が、どこかに意識として残っているような気がするんですよ。その証拠に、子供の頃に意識がなかったと言っているまわりの話のその時の記憶が自分にはあるんですよ。その記憶が本当に正しいのかどうかは別にして、その時繋がらなかった意識を今になって結び付けようとする。そう想うと、急に、自分には予知能力でもあるんじゃないかって思うんです。まったく意識としては逆なんですけども、自分には信憑性が感じられるんですよ」

 と、高杉は言った。

 伊藤医師は、当時、教授になりたてくらいの頃だっただろうか。学会では新しい学説を発表し、それが医学界で評判になり、

「K大学病院に、伊藤医師あり」

 と言われるようになった。

 こういう評判は普通は病院内だけにとどまるものだが、伊藤医師の場合は地域をあげて大々的に宣伝した。それから先生は病院では一目置かれるようになり、今では一度学長を経験し、若手に後進を譲り、今は名誉学長という肩書だった。

 しかし、研究熱心なのは変わっておらず、医療の現場よりも、研究に没頭するようになり、自分が気になった患者には積極的に治療を行うという、変わり種だが、偉大な医者であることに間違いはない。

 伊藤医師の本当の専門は実際のところ、ハッキリと把握できている人はいるのだろうか? 病院内ではいろいろな治療に従事し、外科や内科はもちろん、循環器、呼吸器、泌尿器、消化器などの各部とともに、精神科などにも造詣が深い。さらに薬剤にも造詣が深いようで、どこまでが伊藤医師の領域なのか、K大学としても、よく分からないようだ。

 しかし、これだけ専門が広いと、一人の患者を一人で見るとこができる。逆にいえば、不特定多数ではなく、一人にかかりきりになることができるという意味でいいことなのかも知れない。

 K大学病院では、そういう医者を求めていた。K大学病院に限らず、そういう医者の出現を待ちわびていた医療界で、今まで数人いた同じような医者だったが、まだまだ全国では人数的には少ないだろう。

 もちろん、伊藤医師のような医者ばかりでは、逆に医療界は成り立たないだろうが、これらの医者がバランスよくいることが、これからの医学界の発展を暗示するのではないかと言われていた。

 伊藤医師はそんな中で、論文もたくさん書いていた。一つの分野に特化した他の論文と変わらないような主旨のものもあれば、いろいろな分野を研究することで、一人の人間を形成しているかのような論文も存在する。

 それが、今後の医学界にいかなる事態をもたらすか、注目されていた。

 最近の論文の中で、先生の注目しているものは、

「伝染病」

 に関してのものだった。

 奇しくもその論文が発表されてから、数年後に実際、未知のウイルスが世界的な大流行を招くことになるのだが、それを予知してのことなのか、先生の論文はよくできていた。

 さすがに未知のものを具体的に予知できるはずもなく、今までの伝染病に関しての種類は医療の例を元に、

「もし、今新たな伝染病が流行った際のシュミレーション的なものから、予防対策や行政への提言まで幅広く書かれていた。

 そんな論文をまだ何も流行っていない間は、誰も気にする人はいなかった。それよりも、その後に書いた論文の方が社会的に評判になっていたのだ。

 その論文が発表されたのは、数か月前のことで、ちょうど高杉が入院した時は、伝染病関係の研究に入っていたところだった。

 以前発表された論文の主題というのは、

「アレルギーとそのショック」

 という内容のものだった、

 アレルギーによって引き起こされる一種の副作用である、

「アナフィラキシーショック」

 というものと、さらには精神的なものへの影響が書かれていた、

 先生は、

「アナフィラキシーショックが治ったとしても、その後に後遺症が残る。一種の精神病と呼ばれるようなものだが、記憶が飛んでしあったり、あるいは、ショックによって、条件反射が発生しにくくなったりする」

 という研究であった。

 その論文は学会で一定の評価を受け、今は世界的な論文への評価に回された。各国からエントリーされた研究を吟味し、その年の最優秀な論文は表彰されることになっている。

 伊藤先生はこれまでの研究成果の論文が入賞したことが三度ほどあって、一度であっても、

「世界的に有名な医学者」

 としての名声を手に入れることができるのに、すでに三回も受賞しているということは、本当に世界に認められたということで、誰からも認められた先生は、K大学病院の誇りであることは間違いなかった。

 だが、医学界ではレジェンドのような存在ではあるが、一般の患者にはそんな意識はなかった。

 伊藤医師自体が自分から表に出ることがあまりなく、ずっと研究室で籠り切りというのが多いからであろうが、そんな伊藤医師に対して、インタビューや取材はあまりないようだった。

 それは先生が自分で止めているようで、

「まだまだ私は研究員としては、通過点でしかないので、これからの発表でいかに変わるか分からない。だから、あまりマスコミに姿を見せるのは嫌なのだ」

 と言っていたが、実はそれは本心ではない。

 実際にはマスコミ嫌いというのが本心だったようだ。

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