第2話 公園のネコ

 K警察署の近くに、都心部でよく見られる、ビルの間にある公園がある。その公園は、まわりにはマンションや、商業施設の入ったビルや、いくつかの会社が入った雑居ビルなどが存在していたが、人通りや利用する人は多いのだが、それは一定の時間が多いだけで、中途半端な時間には、ほとんど人がいないという状況であった。

 昼間などは、ちょうど春の陽気に誘われて、OLやサラリーマンがお弁当を持って、各々ベンチに座り、ランチを食している。男性社員はほとんど一人が多く、弁当もコンビニが多いが、女性社員は、数人でランチをしていて、こちらは、自分の手作り弁当が多かった。

 ただ、これは十分想定できる光景で、むしろ、こういう光景しか想像がつかないと言ってもいいくらいであり、ある意味。この時間が一番公園らしい時間帯ではないかと言ってもいいのではないだろうか。

 ただ、ほとんどの会社は昼休みの時間は決まっていて、公園でランチが見られるのは、十二時頃から一時過ぎくらいまでである。その時間を逃すと、ほぼ一人で食べなければならなくなり、一人では恥ずかしいと感じる人はこなくなる。そうなると、昼休みが前述以外であれば、ここで遅いランチを食そうという人もまずいないと考えるのは妥当なことであろう。

 この公園は、日の出前後には、犬の散歩の人を見るくらいで、ベンチに座っている人もほとんどいない。

 朝の出勤時間でも、たまにここでコーヒーを飲んでいく人もいるが、昼のランチタイムのように集まってくるわけではなく、朝のコーヒータイムは、OLであっても、一人が多かった。

 ただ、本当はいけないのだが、タバコを吸いたいと思う人がいるからだろうか。加熱式タバコを吸いながら、コーヒータイムとしゃれこんでいるようだ。いくら加熱式とはいえ、人を巻き込みたくないという気持ちがあるからなのか、それとも朝は出勤時間が違うという意味で一緒になれないということなのか、必然的に、単独の人ばかりだというのが、朝の光景であった。

 十時を過ぎると、日が上ってきて、公園も暖かな空気に包まれるが、ベンチに座っている人を見ることはほとんどない。足早に公園を抜けていく人がまばらに見られるくらいで、立ち止まったりする人は、ほとんど散見することはできなかった。

 昼の時間は、前述のようなランチタイム。そして、午後三時をすぎたくらいから、やっと人が集まってきたりする。赤ん坊の散歩だったり、幼児を公園で遊ばせる母親を見かけるのだが、ほぼ毎日来ているであろうから、皆顔馴染みというところである。

「奥さん、今日はいつもより遅いですね?」

「ええ、この子がお昼寝から、なかなか覚めてくれなかったんです。その間に前倒しで家事をこなしてきたので、夕方は少し時間に余裕があるんですよ」

 などという会話が聞こえてきたり、聞こえてこなかったりと、実にほのぼのとした光景であることは間違いない。

 ちょっと行けば、警察署もあり、郵便局もある。学校にしても、小学校もあれば中学校もあるあたりで、会社も散見されるが、このあたりは都心部の中でも、住宅街に属する地域と言ってもいいだろう。

 そのため、この時間帯は、小学生や中学生が家路を急ぐのに、公園を抜けていく姿も結構見られる。公園で遊んでいる子供もいるが、一時期に比べて減ったらしいということを、高杉刑事は、配属になった刑事課の方で教えてもらった。

「一度、時間があったら、ベンチに座って、しばらく観察してみたいくらいですね」

 というと、

「それもいいだろう。ただし、事件のない時な」

 と言われた。

 その公園は夕方になると、今度は人間よりも動物の数が増えてくる。ちょうどその時間が勤務終了時間だったので、寄ってみることにした。すると。六時過ぎのそろそろ日が沈もうとしている頃になると、どこからか、ネコがやってきて、悲しそうな声を挙げている。

 お腹が減っているのか、寂しいのか、自分はネコではないので、分からないが、この状態を人間であれば、まず寂しいと思うだろう。それに誰かが構ってくれるのであれば、何か食べ物が貰える可能性も高いので、声を出したくなる気持ちも分からなくもない。

「猫撫で声とはよく言ったものだ」

 と感じるが、実際に猫たちが寄ってくるのは、本当に慣れた人だけで、たまに行ってもすぐに逃げられてしまう。

 気のせいであろうか、集まってくるネコはそのほとんどはクロネコである。三毛猫や白いネコ派見ることはできず、それだけに皆同じ猫に見えて、慣れている人でも間違えるのではないかと思うほどであった。

 ネコに何を挙げればいいのかと思っていたが、目の前のポスターに、

「無秩序で身勝手な餌やり行為や、動物の投棄はおやめください」

 と書かれていた。

 そのポスターは、公園の棒物を適正に管理するグループが掲げているもののようで、なるほど、野良猫がいるのといのは、一度は飼われていた猫が飼い主の都合によって捨てられた場合に発生しているのだろう。

 飼い主の死亡などのように、やむ負えない場合もあるであろうが、飼い主の転勤、家が手狭になった、果ては、飽きてしまったなどという本当にどうしようもない理由もだるだろう。

 転勤が多いことを分かっている人はそもそも猫を飼ってはいけないだろうし、家が手狭になったのなら、ネコが飼える大きな家にでも引っ越せばいい。飽きたなどというのは論外で、そんな奴は最初から猫を買うなど、ありえないことである。

 それは、最初から分かっていたことを、その時の感情を抑えられずに飼うことにしてしまったのは仕方がないとしても、飼えなくなったらどうするかということくらい、最初から考えておかなければいけない。転勤にしても、手狭が原因にしても、ちょっと考えれば分かることだ。

 人間は、生まれることと、死ぬことは選べないと言われるが、ペットはさらに生きるための飼い主も選ぶことはできないのだ。

 人間も親を選べない。そういう意味で、ロクでもない親の元に生まれた子供は悲惨である。そういう話を訊くと、

「かわいそうだ」

 と言いながら、同情しているが、ではペットに対して自分たちがしていることは何なのだろう。

 野良猫や野良犬が増えたのは、完全に人間の身勝手が産んだ現象だ。昔の戦後の混乱であれば仕方がないだろうが、そうでもなければ、エゴというしか他にないだろう。

 人情としては、野良猫にも餌を挙げたいと思うのは、誰もがそうであろうが、住民生活が野良猫の被害に遭っているというのも事実である。それを無視して、

「かわいそうだから」

 というのは、少し違う気がする。

 警察官という立場では、決して餌やりを積極的に行ってはならない。せめて警察官であることを示さずに、餌をやっている人を黙ってみているくらいしかできない。本当は注意をするのが職務なのかも知れないが、直接的な職務ではないので黙って見守るしかないと思った。

 張り紙を見ると、施行が令和三年となっている。まさに今年から施行の法律であった。昨年には、

「受動喫煙防止法」

 が成立し、本当であれば、病院、学校などと同じくして、おととしからの施行だったはず。

 それを、まるで、

「室内で吸えないんだったら、公園で吸うしかないじゃないか」

 と、公園が病院。学校と同じ、

「公共の施設」

 だということを認識していないようだ。

 おととしから先行した行ったのも、この三つが重要だからであり、

「公園だったら、屋外なのでいい」

 などというバカな解釈をする輩もいるということであろう。

 それに比べれば、ネコを助けたいと思うことのどこが悪いというのだろう? 少なからず正義感の強い憤りを感じていたのだ。

 その日は、時間に余裕があった、と言っても、いつも誰かと待ち合わせをしているわけではなく、週に何度か、絵画教室があり、毎日教室は開いているが、仕事の関係で来れる人、来れない人が出てきても仕方がないということで、自由参加になっていた。

 昨日まで二日間通ったので、今日は一日休もうと決めていたので、公園でのんびりしようと思った。

 今日はお腹が空いているわけではないので、ゆっくりと猫が現れるのを待っていた。

 公園に行ってベンチに座って、前を見ていると、まだ猫が集まってくる雰囲気がないような気がして油断していると、腰かけてから少しして、

「ミャー」

 という猫の申し訳なさそうな小さな声が響いた。

 振り向くとそこには、丸くなった黒猫が一匹、こちらを見ていた。逃げるわけでも近づいてくるわけでもないその値を見ていると、下手に動いて脅かしてはいけないと思ったのだ。

 こちらも、舌打ちをしながら、指でこっちにこいとばかりに人差し指をこちらに向ける形にしたが、最初の体勢からまったく崩すことなく、こちらを見ているだけだった。

 少しの間にらめっこが続いていたが、根負けをしたのはこちらの方だった。笑顔を見せて少し近づいたが、別に逃げようとはしなかった。相変わらず、

「ミャー」

 と鳴くだけだが、どうもお腹が空いているわけでもなさそうだ。

 警戒しながらでもこちらを見ているのは、本当は構ってほしいのだが、大丈夫な相手なのかを見逃さないようにしているのだろう。

 ネコというものの本性がどれだけ人間の本質を捉えているか分からないが、あまり考えていないように見えるのは、自由奔放なイメージに左右されてしまうからだろうか。

 愛想がよく見えるが、どこか食えないところがあるのが猫だというが、人間もそうだろうが一人として同じ人間はいないということである。

 指紋が一致しないのと同じで、似ているとしても、まったく違う性格なのであろうということは想像がつく。人間にとって猫が少しでも似ていれば見分けがつかないのと同じで、ネコにとっても、人間と見分けがつかないと思えるのではないかと感じるのだった。

 イヌであれば、臭いで分かるはずだが、ネコは何で人間を分かるのだろう。慣れた人間でれば、分かるというよりも、一度でも餌を挙げた人の顔はネコ派忘れていないようだ。そういう意味で、ネコの記憶力は、人間よりもすごいのではないだろうか。人間は思考するというのだが、イヌやネコ派、本能だというのだろう。

 気が付けば西日はビルの影に隠れてしまって、それまで徐々だった暗がりが、急激に視界を狭めていく。何と言っても相手はクロネコ。そのうちに身体の形が分からなくなるだろう。

 人間の視覚というものは、目の前のものをじっと見ていれば、目が慣れてくるのは、焦点い合った部分以外は、どんどん薄暗くなっていくもののようだ。きっと全体的に暗くなっているものを、少なくとも焦点が合っている部分だけでもハッキリ見えておきたいという意識が働くのか、瞳孔が一点に焦点が集まるかのように無意識に動作するようにできているのであろう。

 そう思って猫を見ていると、最初に感じた猫の輪郭を残像として残しておいたことで、まわりはすでに真っ暗に見えているにも関わらず、ネコがいるあたりは明るくはないが、薄っすらと輪郭がぼやけて見えるようであった。

 こちらはほとんど動いていないはずであり、ちょっとでも微動だにすれば、自分自身、かなり動いたような感覚になるはずで、固まってしまった自分の身体は、すでに硬直状態だった。そのうちに、どうも猫がその場から立ち去ろうと、身体を傾けようとしているのが分かったが。どうしても動かすことができないようで、まるで、その様子は金縛りにでも遭った科のようだった。

 ネコに金縛りというのは訊いたことがない。ただ、ネコも猪突猛進なので、急に道に飛び出してくることもあったりする。

 イヌの場合は反射的に身体が動いて避けることができるのだろうが、ネコの場合は身体を動かせずにその場で硬直してしまうようだ。

 だから、動物のひき逃げはネコの方が多いのではないか? だた、イヌもよけようとして失敗することもあるので、一概には言えないか……。

 ただ、ネコはその場で硬直してしまう。それを人間が分かっているので、反射的に逃げるのかも知れない。

 目の前のネコは何に怯えているというのか、明らかに自分にではない。自分の後ろに何か猫にとって怖い物でも見ているのかも知れない。

「イヌは飼いやすいが、ネコはちょっとね」

 という人が多いのも事実だった。

 イヌとネコでの一番の違いは、

「イヌは人につき、ネコは家につく」

 ということである。

 つまりは、イヌは人間につくので、飼い主が引っ越してしまうと、飼い主を追いかけて行ってしまうが、ネコは人ではなく家につくので、その家で買主が違っても、今までの飼い主を追いかけることをせず、もし、しばらく空き家になっても、飼い主を追いかけようとはせず、家の近くで、野良猫になるのだろうと言われる。実際にどうなのだろうかと調べたことがあったが、どうやら、イヌが人につくのは本当だが、ネコが家につくというのは、少しニュアンスが違っているようだ。

 家につくというニュアンスは、元々額面通りの「家」ということではない。

「領域や縄張り」

 という意味になるのか。、いわゆる。

「テリトリー」

 というものらしい。

 つまり、ネコは環境が変わることをすごく怖がるという。ということはいつも行動している場所から少しでも離れると臆病になり、ストレスを感じるものだという。確かに、イヌのように従順ではないので、人を見下して見ているのではないかと思われがちだが、そんなことはない。猫は犬のように、嗅覚が異常に発達しているというようなものはない。ただ、人間やイヌに比べて、身軽ですばしこいところがあるので、特に塀や屋根の上から見下ろされると、上から目線に見えてくると感じるのも無理もないことかも知れ合い。

 だが、ネコが自分のテリトリーから離れたくないという発想は、何も今に猫だけのものではない。人間だって、言ったことのないところにいきなり一人で置かれたら、どう感じるだろうか?

 まわりは知らない人ばかり、子供の頃、遊園地などで、楽しみすぎて、ふと気づくと、いったことのない場所にいて、思わず泣きだしたということだってあるだろう。幼稚園は小学生くらいになって、親が遊びに連れて行ってくれた遊園地であったり、百貨店であったり、親と一緒だから安心して知らない場所でも、それほどストレスを感じることなく、普通に入って行くことができる。それが、まったく知らない場所に放りだされた時の恐怖を、子供心にも分かっているだろう。

 おぼろげな記憶であっても、迷子になって、親の名前を叫びながら、泣きわめいたという記憶くらいは残っているはずだ。その記憶は、きっとまわりの大人が、

「大丈夫? 心配しなくてもいいよ」

 と言って慰めてくれているのを覚えているはずだ。

 しかし、それでも、余計に泣き喚いたはずだ。一人でいるのとでは全然心細さが違ったはずなのに、どうして泣き止まなかったのか、本当に怖かったのなら、慰めてくれていたことすら覚えていないはずだ。それを覚えているということは、思ったよりも冷静だったということではないか。冷静だったのだが、不安には打ち勝てない。それが、どうしてかというと、自分の知らない場所に放置されたことが、まわりに人がいることで幾分か恐怖が薄れているはずなのに、実際には泣きわめいていた。それこそが、テリトリーの内と外とでの感覚の違いであろう。

 そう考えてみると、

「人間はネコとイヌのどっちに似ているのだろうか?」

 ということを考えた時、高杉は、

「猫に似ているのではないか?」

 と感じた。

 何よりも、イヌほど、人間に対して従順ではないということであろう。さらには、今のように、人間は場所よりも人だろうと思っているが、このように猫のように、自分の領域というものをしっかり持っていて、そこを人に犯されたり、荒らされたりするのを、極端に嫌がるものだ。

 もっとも、これは、

「イヌとネコ。どっちに見ているのか?」

 という二者択一というだけのことなので、賛否両論の世界であるが、高杉は今ネコをじっと見ているせいか、まるで自分がネコになってしまったのではないかと思っている。

 ネコと一定の距離を長時間保っていると、イヌであれば、

「もう近づいてくることはないような気がする」

 と思うのだが、ネコであれば、

「ひょっとすると近づいてくるかも知れない」

 と思うのだ。

 人によっては、

「それは逆ではないか?」

 と思われるであろうが、実はそうではない気がした。

 短い時間、見つめ合っていて、

「どっちなら近づいてくるだろうか?」

 と言われば、

「イヌじゃないか?」

 と答えるだろう。

 しかし、自分の中にある許容時間というものを超えれば、今度は逆の思いが頭をよぎってくるのだった。

 イヌであれば、寄ってくるかも知れないという自分にとっての許容時間を超えれば、

「これは、懐くまでには時間が掛かるな」

 と思うのだ。

 しかし、ネコであれば、興味を持ってこっちを見つめているのだろうから、許容時間を超えてもこちらを見ているということはそれほど興味があって、第一歩が踏み出せないだけかも知れないと思う。

 そうなると、興味がなければ、さっさとプイッとなって、何事もなかったように、歩いて立ち去るネコを想像する。怖いという感じではなく、自分を優雅に見せるということを忘れないような挙動を感じるのだが、ネコというのは、それだけ用心深くはあるが、人間に対して興味を持っているのではないかと思うのだ。

 高杉は、

「イヌとネコ、どっちが好きだ?」

 と訊かれると、即答で、

「イヌだ」

 と答えるだろう。

 イヌの中には、本当にずっと見ていても飽きない種類の犬もいる。

 実は高杉の好きな犬の種類というのは、子供の頃から少し変わってきていた。

 子供の頃は、柴犬や秋田犬のような凛々しい顔の犬が好きだったが。大人になってからは、パグであったり、ペキニーズのような、言い方は悪いが、少し潰したような顔に愛嬌を感じていたのだ。

 特にペキニーズなどは、身体が重たいのか、歩き方ものしのしと歩く感じで、実に滑稽に見える。

 しかし、彼らほど、勇敢で義理堅く、仲間意識の強い犬もいないという。ただし、ペキニーズをペットとして飼う場合、ペットショップの人から、

「イヌというよりも、ネコだと思って飼ってあげてください」

 と言われたという。

 それというのも、

「ペキニーズは気位が高い品種で、気分屋なところがあるから、いくら慣れた買主であったとしても、いきなり吠えてきたりします。でも、基本的にはこれほど優しく、自分の仲間を自分で守ろうとする勇敢なところがあるのは、この子たちの他にはいないと言ってもいいでしょうね」

 と言って、胸を張りながら話していたようだった。

 そんな話をペキニーズを飼っている親戚のおばさんから聞かされたことがあった。

「何しろ、西大后のペットだったというし、英国のビクトリア女王に寵愛されたとも言われている犬ですからね」

 ということであった。

 だが、イヌはしょせん飼い主に懐くので、可愛いことには変わりない。

 高杉の家では、今まで犬を飼うことがなかった。それは母親の意見であり、実は、昔両親が結婚した時に、イヌを飼い始めたのだが、高杉が十歳未満の時、そのイヌが死んでしまって、まだ子供だった高杉は寂しいという思いはあったが、それ以上ではなかった。しかし母親は、さらに可哀そうという思いから、

「死に目に逢うのは辛いから」

 という理由で、二度と動物は飼わないということで家で何かを飼うことはなかったのだ。

 そういうことで、イヌを飼っていたという記憶はほとんど残っていない。

 だから、高杉は、基本イヌが好きだったが、ネコも好きだった。公園で自由なネコを見ていると、

「何か自分がそうありたいということを実践してくれているような自由さだな」

 と感じるのだった。

 ネコとイヌは実際には結構仲が良かったりするもので、一緒に飼っている人も知っていて、

「うちでは、ネコちゃんが強くて、ネコが威張っているんだけど、でも、ネコを助けるのは、イヌなのよね」

 と言っていた。

 またイヌとネコとでは、アレルギーという意味で、かなり違う。イヌではあまりアレルギーという言葉を訊かないが、猫アレルギーという人は結構いたりする、今回、高杉がネコに決して近づこうとしないのは、脅かして逃げられるのが嫌だというのもあるが、急に近づいてこられて、アレルギーが出ても嫌だと思ったからだ。

 今までにネコのアレルギーを感じたことのない高杉であるが、実は最近、花粉症に悩まされている、幸い、時期的に終わった植物のアレルギーなので、今は収まっているが、どうにも何をするにも手がつかないというあのアレルギー状態に逆戻りだけは、マジ勘弁であった。

 ネコがじっと高杉を見ている。それにしてもこれほど見つめられたことは誰からもなかった。相手がネコとはいえ、何か気になるというもので、実際に目が離せないでいた。この予感がすぐに的中することになるのだった。

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