第10話 甘い梅干し
今日もしーんと静まり返った喫茶店に、来るはずのない客を待っていた。やっぱり一人だとつまらない。わたしだけ置いていかれたのだ。祖父母もコタロウも、アキラのおじいちゃんも天に昇ったのではない。わたしが落ちたのだ。彼らがいるそこはきっと楽園だろうな。かつてわたしも居たことがある楽園。空間は変わっていないはずなのに、明らかに以前とは違う世界になってしまった。どんなに泣いたって、笑ったってわたしの声は届かない。
思い出した瞬間、絶望の淵に立ってしまいそうな気がする。歳だけを重ねて、心は何も変わらない。だから現在をしっかりと生きられないのだ。何も考えていないはずなのに、喫茶店の椅子や机、微かに香るコーヒーを嗅ぐと胸が締め付けられて、涙が簡単にこぼれる。まるで自分を制御できない。どれ程の愛情を注いでもらっていたか、当人がいなくならないと気付けないわたしは馬鹿だ。その日もナポリタンが喉を通らなかった。
夕方に自宅へ戻ると、ようやく空腹が込み上げてきた。冷蔵庫には、母が常備しているはちみつ梅干しのパックが目についた。小さい頃は、はちみつの甘さで梅干しの酸味をまろやかになり食べやすかった。しかし、今は甘さが後を引いて、違和感を覚えるようになってきたので、最近は食べずにいた。
このどうしようもない空腹が苦しくて、それをパックから1粒取り出して、保温されていた白ごはんの上へ乗せる。柔らかいその肉感を少し齧り、白ごはんを口いっぱいに詰め込む。ほんのりとした甘さが口に広がる。やっぱりどうしようもなく甘いのに、後味がしょっぱい。口をお米で塞いだせいか、目から気持ちが溢れ出てくる。止めどなく。
顔がどろどろになったので、仕方なくお風呂に入る。浴槽に浸かり、自分の脚を見た。膝小僧に直径三センチくらいのカサブタ跡がある。もう消えることのない跡。
小学校3年生の運動会のリレーで派手に転んでできた。力を入れ過ぎて、足が空回りして、100メートルほど走ったところで転んだ。というよりも滑った。とりあえず見えない期待に応えようと無理やりに立ち上がって走り出し、次の人にバトンを渡した。バトンを渡し終えると、すぐに先生が駆け寄ってきた。周りの心配げな顔を見て、膝がズキズキ痛み始めた。恐る恐る足を見ると、今まで見た傷口で一番大きいものが左足にできていた。
膝小僧は綺麗に丸く抉られて、わたしのものと思えないほどグロテスクな姿に変わっていた。その傷口を見た人たちは顔を歪めて、より一層の心配をしてくれた。
リレーは熾烈なバトルを繰り広げていて、わたしの遅れも取戻っていた。良かった。とりあえず保健室まで運んでもらい、手当をしてもらった。ズキズキは、その日一日消えなかった。
数日経つと、大粒の梅干しのように大きく盛り上がったカサブタができていた。無意識にその凹凸をなぞり、無意識にペリッと捲る。その瞬間は、なんだか背徳感があって、清々しい気持ちになった。
それを何度か繰り返して、ついにカサブタはできず、跡としてくっきり残っている。
何年経っても消えない膝小僧の傷跡と、すぐに移り変わっていく味覚の早さを感じながら、ゆっくりと浴槽を後にした。
誰かの背中で眠りたい 紫陽花 @hydrangea_26
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