第9話 憧れのハンバーグ

 わたしが最後にお見舞いに行ったのは、その前日のことだ。祖父は痩せて頬骨がくっきりと出て、上手く言葉を発せなくなっていた。それでも笑顔で起き上がり、わたしの目をしっかりと見ていた。病室の窓からは眩しいくらいの日差しが差し込み、窓の隙間からは柔らかい風が、祖父の背中に入り込み、優しく包んでいた。わたしの手を握っている手は小刻みに震えていた。


 お見舞いに行くと必ず「来てくれてありがとう。」と言ってくれる。絶対に祖父はまた喫茶店に戻ってくると思っていた。

 「また来るね。」と言って病院を後にした。あの短い会話が最後になるなんて思いもしなかった。


 卒業式が終わったら、夜に両親とわたしで外食に行く予定だった。どこへでも連れて行ってくれると言ったので、わたしは朝からそのことで頭がいっぱいだった。真っ先に浮かんだのは、「丘の上のレストラン」だった。誕生日に一度だけ車で連れていってもらったことがある。店名の通り、人通りの少ない丘の上にひっそりと佇んでいる瀟洒しょうしゃな建物だった。

 

 母の料理は十分においしいから家でも良かったのだけれど、あの空間は憧れだった。それは、喫茶店や家とは違った特別な空間だ。当時好きな食べ物といえば、ハンバーグ。誕生日の時もハンバーグを頼んだ。肉汁あふれるハンバーグに、たっぷりと濃いデミグラスソースを掛けて食べたそれは忘れられない美味しさだ。付け合わせのマッシュポテトもバターの風味が効いていて美味しい。


 わたしは、ハンバーグのことを考えながら朝支度をしていた。父は仕事で卒業式には来られないみたいだけど、夜ご飯は一緒に食べられるらしい。数日前から卒業式の練習―歩き方や、お辞儀のタイミングなど―をしてきて、いよいよその集大成。

 

 練習の時は、こんなことして何の意味があるのかよく分からなかったけれど、当日は保護者や校長先生など来賓の人がたくさんいるせいか、これは大切な式なんだなと子供ながらに身が引き締まった。


 卒業証書授与では一人ずつ名前を呼ばれて、舞台に上がる。練習では緊張しなかったそれも、今日は緊張している。何とか無事に証書を受け取り、席に戻る時にちらっと母が座っている方を向いた。ギュウギュウに大人たちが座っている中ぽつん、と一つだけ空席だった。母の席だ。焦点がそこにしか合わなくなり、周りがぼやけていく。そんな中、練習の成果なのか足は自然と自分の席に向かっている。その後の式のことはよく覚えていない。


 保護者席は、会場の一番後ろになっていた。他生徒の授与や、来賓の祝辞の時にこっそりと振り返る。しかし、相変わらず空席のままだった。結局、母は最後の卒業生退場の頃に着席していたのだ。何だか悲しいというよりも、イライラの感情が湧いてきたので、退場の時はわざと母の方を向かずに真っ直ぐと会場を後にした。あの時、母はどんな表情をしていたのか、ちゃんと見ておけば良かった。


 そして教室では最後のホームルームをした。同級生の子たちは記念写真をたくさん撮ったり、思い出話をして小学生最後の時間を過ごしていた。そんな風景をわたしは横目でやり過ごして、みんなより早めに母と一緒に駐車場へと向かった。

 

 あの退場の時からずっと、微かにイライラが継続していた。ぶつける場所もなく、ただ無言で車へと向かう。母のシルバーのそれが見えてきた時に、母は足を止めて、わたしの目をじっと見た。


 「落ち着いて聞いて。さっき、卒業式の時にね、おじいちゃん亡くなったって。」


 耳を塞がれたかのように、周りの音が聞こえなくなった。言葉の意味は理解しているのに、状況が呑み込めない。母の顔が小さくなっていく。全ての思考が止まり、暗くて深い溝に足からどんどん沈んでいくように、自分が立っていることが現実味を帯びなくなった。

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