第11回
5
翌日の午後二時過ぎに鍋島猫助はY市の駅まで十文字八千代を迎えに行った。
私鉄の最寄り駅はN市になるが、JRの場合はこちらが一番近い。寂れた駅舎から出てくる十文字の幽霊染みた姿を見た時、鍋島は安堵の余り目頭が熱くなった。彼女に対してこのような感情を抱く自分に戸惑いつつ、やはり精神的には限界だったのだろうと改めて思い知った。
最恐の幽霊屋敷に行く前に打ち合わせがしたいという十文字の希望に従い、Y市内のファミレスに寄ることになった。窓際の席を案内され、十文字はパフェとドリンクのセット、鍋島はドリンクだけ注文した。店員が下がると、矢庭に十文字は一枚の写真を差し出してきた。
「鍋島さんが遭遇したワンピースの人物ですが、もしかしてこの方ではありませんか?」
写真には神社をバックにして、三十代くらいの痩せた女性が写っていた。セミロングの黒髪で、美人だが切れ長の目がきつい印象を与える。彼女は濃い紫色のワンピースを着ていた。鍋島の目が吸い寄せられたのは、その胸元だ。そこにはあの夜に見たものと同じ五芒星のペンダントが輝いていた。
間違いない。
顔は見なかったが、この女性は玄関に出現したあの霊だろう。
「やはりこの方でしたか」
「は、はい。え、あ、こ、この人は……?」
動揺して舌が縺れた。
「卜部美嶺さんです」
卜部といえば、あの家で死んだという霊能者ではないか。
「ど、どういうことですか?」
「恐らくですが、美嶺さんは死後にあの家に取り込まれてしまったのではないでしょうか」
棘木から旧朽城家の除霊を依頼された霊能者の一人が、死後は逆に悪霊となったということか。
「これは想定外の事態です。あの家を見て回った時は、あちこちから発せられる霊的な波動が複雑に絡み合って、それぞれの所在が曖昧になっている状態でした。或いは、上位の霊魂が低級霊を利用して巧妙に自分の存在を隠していたのかもしれません」
いつになく十文字には焦燥感が窺えた。
「十文字さんは何を心配しているんですか?」
「美嶺さんが取り込まれているなら、あそこで亡くなった他の同業者の皆さんも、同じように悪霊化している可能性があります」
「それは……」
そうかもしれない。
「例えば、勅使川原先生のような強い力をお持ちの方が万が一にも悪霊化していたら、わたくしにはどうすることもできません」
なるほど。鍋島はようやく十文字の危惧することを理解した。だからすぐに、「その時は逃げましょう」といった。十文字も「はい」と頷く。
実際にこの身で卜部美嶺の霊と対峙してわかった。あれは危険だ。その上で勅使川原玄奘がもしも悪意を持った霊として顕現したら、卜部以上の脅威になるのは確かだ。
午後四時十五分になって、鍋島たちは幽霊屋敷に到着した。
初日もこうして二人でここを訪れ、平凡な外観に肩透かしを食らったが、現在の鍋島が受ける印象はあの時とは全く違う。黄昏に沈むように鎮座する旧朽城家は、今にも獲物に飛びかからんと身構える野獣を思わせた。
五時には取材のために棘木がやって来る。それまでには簡単な準備をしておく必要があった。逃げるようにこの家を出たから、散らかったままの状態である。
玄関の戸を開ける時は流石に緊張したが、それでも側に十文字がいてくれるだけで心強かった。
私物で溢れている茶の間に棘木を通すわけにもいかないので、取材は仏間で行うことにした。許可が取れれば写真の撮影も行うので、生活感のない空間の方がよい。
奥座敷までの襖や障子を開け放ち、鍋島は急いで掃除機をかける。外は既に暗いのに、奥座敷に入っても不思議と恐怖感はなかった。
十文字には玄関の掃除を頼んだ。霊能者が心霊スポットで箒を片手に掃き掃除をしているというのは滑稽にも思えるが、鍋島はその姿に親近感を覚えた。
思えば今まで十文字のことは別世界の人間として、無意識に距離を置いていた気がする。鍋島は彼女のプライベートに関して、ほとんど何も知らない。しかし、本当に異世界に属するような卜部の幽霊を目の当たりにしたことで、十文字がこちら側の存在であることを実感した。これからは相棒として、もっと色々な話をしてもよいのかもしれない。十文字の華奢な背中を見ながら、そんなことを考えた。
棘木は約束の時間の五分前にやってきた。細い目をした凹凸の少ない顔で、年齢がわかり難い。「こんばんは」と柔和な笑みを浮かべて挨拶する様子は、とてもこの忌まわしい屋敷の大家とは思えなかった。毎日池の鯉に餌を与えにここを訪れているらしいが、鍋島が午前中眠っていたこともあって、直接会うのは初めてだった。コートの下はスーツ姿で、きちんとネクタイまで締めている。棘木はお香のような芳香を漂わせていて、鍋島は好意的な印象を持った。
鍋島と十文字は、テーブルと座布団を用意した仏間で、棘木と向かい合って座った。インタビューの最中に何か起こるかもしれないと考え、仏間、八畳間、奥座敷の仕切りはすべて開放してある。一応仏間には灯油ストーブを置いていたが、かなり寒かったので、三人とも外套は羽織ったままである。
最初にこの屋敷を手に入れた経緯について尋ねてから、こんな質問をしてみた。
「どうしてこんな曰く付きの物件を購入しようと思ったんです?」
「当初は単純に貸家として家賃収入を得るのが目的でした」
「でも、ご近所にお住みなわけですから、ここがどういう場所かはよくご存じだったのではないですか?」
「勿論です。朽城さんとは先祖代々長い付き合いですし、こちらの前の持ち主─池澤さんが所有されていた頃の入居者の方たちとも交流はありましたから、この家で不思議なことが起こっていることは聞いていました」
「それでも棘木さんはこの屋敷を購入なされた。何故ですか?」
「単純な話です。ここは地元でも幽霊屋敷という噂が立っていて、管理している尾形さんのところでもその事実を隠すことは不可能でした。その結果、価格が非常に安かったのですよ。池澤さんは宅地だけではなく農地も一緒に手放したいというお話でしたから、UターンやIターンで田舎暮らしをしたいと考えている方々には丁度よい物件でしょう? 然るべき方にお祓いでもして貰えば、何とかなると思っていたのですが……」
棘木は色々と調べて、政財界にも影響力を持つという勅使川原玄奘の存在を知った。多少謝礼はかかるが、どうせならきちんとした人間に除霊を依頼した方がよいと考えたそうだ。コンタクトを取ると、勅使川原は依頼を快諾してくれた。何でも生前の朽城キイと親交があったとのことだった。
しかし、実際に弟子を連れてこの屋敷を訪れた勅使川原は、弟子に殺害された。次に依頼した糸口白蓮も、卜部美嶺も、除霊に失敗したようで、不可解な死を遂げてしまった。
「考えが甘かったのでしょうね。正直な話、私はこの家の悪霊については半信半疑でした。ただ、大々的に除霊を行えば、借り手の不安がなくなるのではないかと考えたのです」
それは何となく理解できた。
しかし、結果的に霊能者が三人も亡くなってしまったことで、この家はより一層不吉な場所として恐れられるようになる。
「その後も除霊をしたいとおっしゃる方々が何人かいらっしゃいましたが、皆さんお亡くなりになってしまって……それでいっそのこと、幽霊屋敷として保存しようと思い立ったのです。日本では馴染みがありませんが、イギリスのロンドンなんかでは幽霊が出るスポットを巡るツアーがあって、幽霊が出る城や邸宅も観光資源になっています。この屋敷も幽霊が出ることを前面に押し出すことで、そうしたものを好む方々に借りていただけるのではないかと考えました」
「逆転の発想ですね」
「ええ。お陰様で非常に多くの方々にご利用いただけております」
棘木へのインタビューの間、十文字は時折ちらちらと奥座敷に視線を向けていた。
話題が切りのよいところで、「何か見えましたか?」と訊いてみた。十文字は控え目に「奥から呼ばれました」といった。
「マジっすか?」
「はい。わたくし、ちょっと行って参ります」
「大丈夫なんですか?」
「多分……」
「一緒に行きますよ」
「いいえ。呼ばれたのはわたくし一人です」
十文字は立ち上がると、八畳間を抜けて、奥座敷に入る。一人で座敷の中を見回していたが、滑るように移動して縁側に面した障子を閉める。
「朽城キイさんがいらっしゃるようです。少しの間、座敷を閉め切って、キイさんの顕現を促します」
そういうと、こちらに面した襖も閉めてしまった。
棘木はその様子を眺めて「いつもこんな感じなのですか?」と問う。
「ええ。まあ」
何かを察知した十文字は、傍からは奇矯な振る舞いをしているように見える。しかし、それは些末なことだ。所詮凡人に霊能者のことは理解できない。それよりも鍋島の頭の中を占めていたのは、全く別の問題だった。
棘木へのインタビューの内容が、全く面白くないのだ。
彼の話は至極真っ当なものだった。幽霊屋敷を賃貸するのも、ビジネス的な理由だというのは理解できる。しかし、そんな常識的な答えでは、『妖』の読者には受けないだろう。もっとオカルト愛好家を唸らせるようなエピソードなりコメントなりを引き出さなくては。
ただ、鍋島は棘木の態度に若干の違和感を覚えてもいた。というのも、この家にディスプレイされた曰く付きの品々と目の前の常識人然とした棘木には距離があるように思えたからだ。神棚に置いてある人形を集めるだけでも、相当な執念が要るはずである。しかし、目の前の男性からはそうした猟奇的な雰囲気が一切感じられない。
「そこの神棚に置かれている人形ですけど、あれはどのように集められたのですか?」
「嗚呼、あれは娘が用意したものです」
「娘さんが?」
「この家を幽霊屋敷として貸し出すことが決まった時に、娘がいったのです。『地元で有名な幽霊屋敷でも、外の人から見たら普通の農家だから、家の中だけでもそれらしくしないと話題にならない』と」
「いやぁ、それにしても娘さん、よく集められましたよね。十文字の話では、適当なものを並べたわけじゃなくて、どれも本物の呪いの人形や心霊写真だというし」
「ここにあるのは一部ですよ」
「と、いいますと?」
棘木は神棚を見上げて、「蔵の中にはああしたものがもっとたくさん仕舞ってあります」といった。
そういえば、この家を訪れてすぐに、十文字が石蔵を見つめていたことを思い出した。恐らく彼女は蔵の中に収蔵されたモノたちから何かを感じ取ったのだろう。
「最初はこの家を演出するのが目的だったはずなのですが、いつの間にか娘はそうしたものを集めるのが趣味になってしまったようなのです。取り憑かれたとでもいいましょうか。親としてはほとほと困っているというのが本音です」
それは……面白い。是非とも棘木の娘に直接会ってみたいものだ。
「娘さんに取材させていただくわけにはいきませんか? 勿論、また改めて日取りを設定させていただきますので」
すると棘木は薄い眉を下げて「申し訳ございません」といった。
「娘からはそうした申し出は一切お断りするようにいわれているのです。あの子は昔から体が弱くて、病院に入退院を繰り返していたせいか、非常に内向的な性格になってしまいまして。持病もあるものですから、余り人前に出たがらないのです」
「そうですか……」
まあ、そうした理由ならば諦めるしかないだろう。無理をいって取材させてもらっても、それが原因で体調を崩されたのでは、今回の取材もお蔵入りし兼ねない。
鍋島は切り替えて、別の質問をすることにした。
「棘木さんご自身は、この家で何か不思議な体験をなさったことはありませんか?」
「私は家の中には滅多に入りませんから、余りそうした体験はありません。ただ、やはり奥の座敷で妙なモノを見たことはあります」
棘木の話は、これまで鍋島が聞いたことのある現象と同様のもので新鮮味はなかったが、さも興味があるように装って相槌を打った。棘木は機嫌をよくした様子で、自身の体験談だけではなく、不動産会社や清掃業者から聞いたという話も披露してくれた。こちらは後で体験した本人たちに取材してみるのもよいだろう。
十文字が奥座敷に籠もってから、およそ一時間が経過しようとしていた。
インタビューはほぼ終わっていたが、十文字は未だに出てくる気配がない。
流石に心配になった鍋島は、八畳間に移動して、襖越しに中に呼び掛けた。
「十文字さん、大丈夫ですか?」
しかし、中から返事はない。霊との交信に集中しているのだろうか?
「十文字さん、何かありましたか?」
先程より大きな声で尋ねたが、十文字は何の反応も示さなかった。
「様子を見ては如何ですか?」
棘木も怪訝な表情でこちらにやってきた。
「もしかして中で体調を崩されているのかもしれませんし」
「そ、そうですね。……すみません、十文字さん。開けますよ」
そういって鍋島は襖を開ける。
奥座敷には、誰もいなかった。
十文字の姿もなければ、幽霊の姿も、ない。
「え……」
どういうことだ?
鍋島は予想外の事態に頭が回らない。
棘木も戸惑ったように「いらっしゃいませんね」と呟く。
奥座敷には家具は一切見当たらない。唯一畳の上に置いてあるのは、初日に設置したセンサー付きのカメラだけである。鍋島はカメラを一瞥し、それが作動していないことに気付いた。確認すると電源が切れている。
この部屋には押し入れもない。収納は床脇の天袋と地袋だけだが、とても人間が入れるようなスペースではなかった。しかし、念のため鍋島は両方を開けてみる。天袋には掛け軸が、地袋には陶磁器が、共に桐の箱に入った状態で収納されていた。どちらにも存外に多くの箱が入っていて、隙間は僅かしかない。
鍋島は十文字の名前を呼びながら、障子を開けて縁側に出た。そこから玄関まで見通せるが、人影はない。縁側の窓にはすべて内側から鍵が掛かっているから、ここから出入りしたわけではないだろう。
「我々は仏間にいて、誰も玄関から出入りしていないことは見ていました。十文字さんは家の中にいるはずです」
棘木は冷静にそういった。
「そうですね」
「とにかく中を捜してみましょう」
二人で縁側を移動し、玄関まで行く。十文字の靴はきちんと揃えられたまま三和土にあった。
鍋島は棘木と一緒に、茶の間、ダイニングキッチン、その横の土間、脱衣場、風呂場と見て回ったが、一階では十文字を発見することはできなかった。
続いて二階の三部屋を調べたが、何処にもいない。駄目元でベランダにも出てみたが、案の定、誰もいない。そもそもベランダに出る窓には内側からスクリュー錠がかかっていたので、十文字が出たとは思えなかった。
鍋島が途方に暮れていると、ベランダまで付き合ってくれた棘木が庭を指し示した。
「あれ十文字さんではありませんか?」
「え!」
慌てて庭を見下ろすと、庭に黒髪の女性が倒れていた。玄関の外灯に照らされて、白いロングコートが暗がりから浮き上がって見える。
間違いない。十文字だ。
鍋島は階段を駆け下りると、外へ飛び出した。
十文字は玄関から近い砂利の上に、俯せに横たわっていた。
周囲には血痕らしきものが飛び散っている。
「十文字さん!」
走り寄って呼び掛けるが、何の反応もない。
左を向いた十文字の顔は蒼白で、両目が恐ろしい程に見開かれていた。首からどくどくと血が流れて、地面に染みていく。十文字は右手に血の付着したナイフを握っていた。
「今、救急車を呼びました」
遅れて出てきた棘木がいった。
鍋島は何が何だかわからず、ただただ混乱した。
十文字は鍋島と棘木が見ている前で、確かに奥座敷に入った。その後の一時間は誰も奥座敷に近付いていないし、出入りもしていない。鍋島がいた仏間からは玄関も縁側も良く見えるから、十文字が移動すればすぐにわかるはずだ。
奥座敷には窓はなく、出入りするには縁側に面した障子か、八畳間との間にある襖を使うしかない。縁側の窓は施錠されていたから、外に出るには玄関の引き戸を通るしかないのだが、そうなるとどうしたって鍋島の視界に入ることになる。しかし、実際のところ鍋島は十文字の姿を見ていない。つまり、彼女は密室状況ともいえる奥座敷から忽然と消え失せ、庭に出現したことになる。
これは……超常現象ではないのか?
十文字はこの家に巣食う悪霊によって奥座敷から外へテレポーテーションされ、生命を奪われたのでは?
「そうだ」
玄関には防犯カメラが設置してある。ケーブルのない簡易なものではあるが、あれに何か映っている可能性は高い。鍋島はそう思ったのだが、後になってその期待は裏切られることになる。
警察がやってきて現場検証を行った結果、奥座敷のカメラと玄関の防犯カメラは、前日から電源が入っていない状態だったことが判明した。鍋島が幽霊屋敷を離れて温泉施設に滞在している間に、カメラの電源が切れてしまっていたのである。
勿論、バッテリーが原因ではない。センサー式だから、まだ十分録画できるだけの残量はあった。心霊スポットではしばしば電子機器の誤作動がある。今回もそうした現象が起こって、カメラの電源が切れてしまったのかもしれない。
その後の捜査で、十文字の死は突発的な自殺として処理された。鍋島としてはやけにあっさりとした結論だと思ったが、旧朽城家では以前から同じように唐突に自ら生命を絶つ者がいたので、警察としても然程不審には思わなかったのだろう。或いは、警察もあの場所には余り関わり合いになりたくなかったのだろうか。
事件は幕引きとなったが、十文字が密室から消えて、庭で遺体となって発見されたという謎については、全く解明されていない。
あれからずっと、鍋島は最恐の幽霊屋敷で過ごした日々を思い出している。記事も書いたし、単行本も出版した。そうやって自身の体験を反芻する度に思うのだ。果たして、十文字の霊はちゃんと成仏できたのだろうか、それとも、あの幽霊屋敷に今もまだ囚われているのだろうか、と。
もしも、まだあそこに彼女がいるのなら……。
「もう一度会ってみたい」
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