第10回

「思った以上に普通の民家っすね」

 鍋島猫助は最恐の幽霊屋敷を前にして、早くも緊張感を失いつつあった。

「その科白せりふ、きっと何人もの方々が口にしていると思いますよ」

 十文字八千代は視線を庭のあちこちに彷徨わせながら、そういった。

 これまで取材した三人からおおよその雰囲気は聞いていたし、ネットに上げられた写真で建物の外観も確認していたが、晴天の下で直接目にする旧朽城家は、余りにも平凡な木造二階建てだった。

 庭は広いが、それは都市部の一戸建てと比較した場合であり、この地域の農家としては一般的な敷地面積ではないだろうか。それに東側には納屋や車庫があり、南から西にかけては庭木や花壇があるため、然程開放感はない。庭のほぼ中央に植えられた松の木は、見る者を惹きつける枝ぶりである。母屋の前にはT字に開けた空間があり、砂利が敷かれていた。

 本日、十二月十六日から、鍋島はこの旧朽城家で一週間を過ごすことになっている。

 十文字はといえば、ひと通り庭や建物内を霊視した後、結果を鍋島に伝え、一旦東京に戻る予定だ。彼女は彼女で存外に多くの相談者を抱えていて、一週間完全に拘束するわけにはいかないのである。十文字が再びここへ戻るのは六日目の昼で、その日は大家である棘木へのインタビューを行うことになっている。そして、最後に二人で夜通し家の中で過ごす計画だった。ちなみに七日目は掃除などの撤収作業に費やすので、調査は行えないだろうと踏んでいる。

 そのようなわけで、鍋島は今日から五日間、一人きりで幽霊屋敷で寝起きすることになる。事故物件や心霊スポットで夜通し一人で過ごした経験は幾度もあるが、連泊するのは初めてだった。当初の懸念は家賃がかかるために費用が嵩むことだったが、大家に取材のことを伝えたら、宣伝効果になるからと、思い切り家賃を割り引いてくれた。

 鍋島が母屋の写真を撮っていると、十文字がすぅっと動き出した。予備動作がないから、滑っているように見える。彼女は向かって左側─西の方へ向かう。

「十文字さん?」

 何か感じたのだろうか? 

 鍋島は撮影を中断して、十文字の背中を追う。

 幽霊のような霊能者は、躑躅つつじに囲まれた池に視線を落としていた。少し濁った水の中を錦鯉が悠然と泳いでいるが、十文字の視線はそちらを見ていない。

 この場所は朽城キイの夫である智政の遺体が見つかった場所である。もしかすると、十文字は智政の霊を見ているのかもしれない。

「ここ、撮ってください」

「は、はい」

 慌ててカメラを構えたが、シャッターが下りない。何度か試みたが駄目だった。撮れないということは、この場所には何かあるということだろう。初日から機材を壊したくなかったので、撮影はすぐに断念する。

 次に十文字が向かったのは、池の更に奥にある小さな木製の社だった。位置としては敷地の北西に当たるだろう。小さいながらも赤い鳥居があり、その向こうに腰の高さ程度のコンクリート製の台がある。社はその上にあった。

 ただ、鍋島の視線は社そのものではなく、周囲に釘付けになった。コンクリートの台の上には、小社を囲むように数十体もの白狐の置物が犇めいている。狭い空間にぎゅっと圧縮されたように置かれているから、そこだけが異質な空間のように見えた。こうしたわかりやすいビジュアルは読者にも受けが良い。鍋島はカメラが壊れていないことを確認してから、何パターンか撮影を行った。

 ついでに東の方向に視線を向けて裏庭の様子を窺ったが、屋敷林が鬱蒼と茂っていて、昼間でも薄暗い。暗がりから今にも何かが飛び出してきそうな不気味さがあった。

 いつの間にか傍らにいた十文字の姿がない。

 慌てて踵を返すと、彼女は敷地の西にある石蔵を見上げていた。二階建ての古い蔵で、入口の扉には大きな南京錠が下がっている。

「ここの鍵は預かっていらっしゃいますか?」

「いいえ。鍵は母屋のものだけですね」

「そうですか……」

「何か気になることでも?」

 十文字は鍋島のその問いには答えなかった。まあ、よくあることなので、しつこく問い質す必要はない。

 蔵の背後は竹藪になっていて、やはり日の光が遮られている。十文字はゆっくりとした足取りで再び母屋の方向へ戻っていく。途中には柿と銀杏、それに赤い花を付けた椿が見えた。

 敷地の南側はほとんど庭木が植えられていて、ちょっとした林を形成している。松や楓も見えるが、圧倒的に柘植が多い。どれもきちんと玉づくりという丸形に剪定されている。エミルの両親の遺体が発見されたのは、あの柘植林の何処かなのだろう。

 納屋裏手─庭の東側には、幅の狭い未舗装の農道が走っている。轍があることから、近隣の住民が現在も利用していることがわかる。その道を挟んだ向こうに広い畑があった。この規模ならかなりの種類の作物を育てることができるだろう。大きめのビニールハウスを二つ程度立てても、まだ余裕がある。

 更にそこに隣接するように、畑の二倍以上の面積の田圃がある。不動産屋でこの地域は兼業農家が多いと聞いたが、朽城家もそうだったようだ。十文字はそちらには興味がないようで、一瞥しただけだった。つまり、田畑からは何も感じなかったということだろう。

 家の中に一歩足を踏み入れると、平凡な外観とは対照的に、奇妙なものがあちこちに置かれていた。

 玄関の靴箱の上には、水草と流木が入った水槽があった。水が入っていてポンプも動いているのに、魚らしき生物は見当たらない。

 本来神棚が設置される作り付けの棚には、民芸品のような木彫りの像や塩化ビニル製の子供の人形などが幾つも並んでいる。仏壇には黒ずんだ木製の位牌が納められているのだが、数が多くて今にも溢れ出しそうだ。加えて盆の供養に用いられる卒塔婆も何本も立て掛けられていて、あたかも仏壇が墓場であるかのように見える。

 奥座敷の長押なげしには、若い男女の遺影が飾られていた。中には幼い子供のものまである。床の間には、男の生首を咥えたおどろおどろしい女の幽霊画の掛け軸が飾られていた。

 家のあちこちに飾られた家族写真は、よく見ると妙な顔が写り込んでいたり、家族の腕や足が消えていたりと、どれも心霊写真だった。

 裏庭の社もそうだったが、全体的に設置されたアイテムの物量が際立っている。演出としては明らかにやり過ぎであり、その執拗さには恐ろしさを感じた。

 鍋島たちは、二人ですべての部屋を見て回った。トイレや風呂場は勿論のこと、押し入れなどの収納も一つ一つチェックしていく。その間、十文字はいつもよりも口数が少なかった。ただ平素は表情の乏しい彼女が、何度かあからさまに顔を顰めたのが印象に残った。

 一段落したところで、茶の間の炬燵に入って、今後の調査についての打ち合わせを行うことにする。主導権を握っているのは、十文字である。

「まずは玄関の外に防犯カメラを設置しましょう。夜中にチャイムが鳴らされたら、カメラが何か捉えるかもしれません。それから、やはり奥座敷ですね。ここに予定通り定点カメラを置きましょう」

「いつものセンサー付きのですね」

「ええ。フレームにあの幽霊の掛け軸を入れておくといいかもしれません。あの生首の血の部分、恐らくは本物の血液で描かれています。あの掛け軸そのものが何らかの現象を起こす可能性があります」

 鍋島はコピーしたこの家の間取り図に、十文字の指示をメモする。

 ちなみに撮影で使用するカメラ、調査で用いる電磁波や放射性物質を測定する機材などは、ほとんどが十文字の私物である。鍋島が持っているのはデジタルカメラが二台だけだ。主に執筆を鍋島が行う代わりに、調査に関する機材は十文字が負担する。二人の間ではこうした役割分担ができていた。

「それから、あの仏間の神棚に置かれた人形ですが、あれらも単なる演出ではありません。幾つかは呪いに使用するものですし、よくないモノが憑いているものもありました。あそこまで数を揃えたというのは、ある意味驚異的ですね」

「それは……」

「ここの所有者の棘木氏が、意図的にそうしたものを設置しているということです。あそこの心霊写真だって本物ですよ」

 そういって十文字は棚の上の写真を指差す。それは若い男性と赤ん坊を抱いた女性、それに幼い少女が写った家族写真だった。しかし、赤ん坊と少女には首がない。

「鍋島さんが取材された三人のお話から判断して、この家にはそもそも複数の霊的な存在が出現すると考えられます」

「そうですね。発生する怪異にもバリエーションがありましたし」

「ただでさえ複数の霊的存在がいる場所に、更に霊的な力を持ったものが数多く設置されているわけです。しかもどれも非常にマイナスの波動を持っている。つまり、今、この家は悪霊の坩堝るつぼのような状態になっていると思ってください」

 十文字は存外に深刻そうにそういったが、鍋島には今ひとつピンとこなかった。これが見える人間とそうでない人間の違いなのかもしれないし、そもそもの性格の違いなのかもしれない。

「かなり厄介な場所ってことですか?」

「はい」

「じゃあ、はっきりと観測できる現象も期待できる?」

 十文字が「恐らくは」といって頷くのを見て、鍋島は「いいですね」といった。

 何も起こらないのであれば、わざわざここまで来た意味がない。今回はいつもよりも手間も経費もかかっている。できれば『妖』の連載だけではなく、最恐の幽霊屋敷を題材にした出版企画やウェブコンテンツ企画を売り込みたいと思っていた。

「本当にお一人で大丈夫ですか?」

 十文字が尋ねる。

「大丈夫なんじゃないんすかね。いつも行く廃墟よりは物理的に安全ですよ。不良グループに遭遇する心配がないだけで、精神的には楽です。それにここ、一応、賃貸物件なんすから」

「それはそうですが……」

「駄目だと思ったら車に逃げ込みますって」

「うーん。逃げ込むだけでは不十分かもしれません。庭でも幾つか不穏な気配を感じました。危険を感じたら、敷地の外に出て、できるだけ離れた方がいいと思います」

「わかりました」

「そうですねぇ。もしかしたら鍋島さんお一人の方が、安全なのかもしれませんね」

「どういう意味です?」

「わたくしと一緒ですと、ここの霊を刺激してしまう可能性があ……」

 十文字が話し終えない内に、奥座敷からダンッダンッと足を踏み鳴らす音が聞こえた。


 最初の三日間は、殊更に珍しい現象は起こらなかった。

 精々天井近くでラップ音がするとか、開け放たれた襖の向こうの奥座敷に人の気配がするとか、その程度のことである。

 鍋島は、夜の間は眠らず過ごし、朝になってから持参した寝袋に横になった。大体午前中いっぱいが睡眠時間だ。節約のために食事は自炊し、風呂もこの家のものを使用している。

 前回の利用者が出ていった後に、きちんと清掃業者が入っているので、家の中は清潔だ。自宅アパートよりも快適かもしれないとすら思う。一人で一軒家を占有する贅沢に多少酔っていたのかもしれない。

 異変は四日目に唐突に現れた。

 それまで鍋島は茶の間で眠っていたのだが、その日は実験的に仏間と奥座敷に挟まれた八畳間で寝ることにした。この部屋でエミルは金縛りに遭い、複数の霊を目撃している。防寒対策と外光をある程度遮断するために、襖と障子はすべて閉めた。北側に窓があるが、屋敷林のせいで外光はほとんど入ってこない。

 鍋島が眠っていると、不意に玄関のチャイムが鳴った気がして、目が覚めた。

 来客だろうか? 

 家主である棘木は一日に一回池の鯉に餌を与えるためここを訪れる。その際に様子を見に来ることがあるとは聞いていた。

 再びチャイムが鳴って、鍋島の名が呼ばれた。女性の声である。瞬間的に十文字だと思った。だから鍋島は寝袋から飛び起きて、玄関へ急いだ。

 曇りガラスの向こうには、確かに女性のものと思われるシルエットが見えた。

「ちょっと待ってください」

 そういって引き戸を開けると……。

 誰もいなかった。

 寝惚けた頭でも、明らかに変だということは理解した。

 外に出てみたが、庭にも人の気配はない。

 鍋島は玄関の施錠をすると、八畳間に戻った。とにかく眠かったのだ。

 しかし、そこで更に不可解なものを目にする。

 部屋の仕切りがすべて開いていた。襖も、障子も、全開である。

 そういえば、さっき玄関に出た時も、自分で縁側に面した障子を開けた記憶がない。

 時刻は午前九時を少し回ったところだった。鍋島はこれ以上この部屋で寝ることは憚られて、寝袋を引き摺って茶の間に移動した。それからは眠りに落ちると、チャイムが鳴る現象が続き、ほとんど睡眠を取ることができなかった。

 午後になって苛立ちを覚えながら防犯カメラの映像を確認したが、チャイムが鳴らされた時間に、玄関の映像には何も映ってはいなかった。

 夜の間は家中の電気は消した状態で過ごす。暖房器具もエアコン以外は光が出てしまうので、極力使用しない。年の瀬の栃木は想定していたよりもずっと寒かった。鍋島はダウンジャケットを着て、ネックウォーマーまで付けた重装備だ。

 基本的には間取りのほぼ中央に位置する仏間に陣取って、何か異変が起きないか待ち構える。これまで三度にわたり退屈な時間を過ごしてきたが、その日は違った。

 午後十時を過ぎた辺りから、仏間で断続的なラップ音がした。

 日付が変わる頃には部屋の温度が下がり、吐く息が白くなった。部屋の上の方から小さな囁き声が聞こえ始める。甲高い声で、何人かが会話していた。日本語ではない。しかし、何処の国の言語なのかもわからない。

 鍋島はすぐに声の発生源が神棚の人形たちだと気付いた。ただ、そちらにカメラを向けると、ぴたりと会話は止まってしまう。鍋島が背中を見せてじっとしていると再び声が聞こえ出した。取り敢えず録音だけはしてみたが、声が小さいので何処まで拾えているかはわからない。

 鍋島が背後の囁き声に耳を澄ましていると、前方にぬるりと影が差した。

 反射的に視線を上げる。

 開けたままの障子の向こう、玄関のに誰かが立っている。

 空間と比較して、明らかに普通の人間よりもサイズが大きい。

 暗闇にも拘わらず、鍋島は相手がシックな紫色のワンピースを着ている人物だとわかる。胸には五芒星をかたどったペンダントが下がっていた。顔は……。

 見てはいけない気がした。

 万が一、見てしまったら、こちらの中身が抜き取られる。何故かそんな危機感があった。

 デジタル温度計は氷点下を示していた。先程まではギリギリ零度だったはずなのに、室温が下がり続けている。

 激しい頭痛と吐き気。

 いつの間にか背後の人形たちの声は聞こえない。

 不自然な静寂が建物を包んでいる。

 視線を逸らすために俯いていると、ソレが言葉を発した。

 老若男女の区別ができない、複雑な音色である。

「ろだんたっかたみ」

 何といったのか認識するよりも早く、鍋島は意識を失った。


 仏間で倒れていた鍋島が意識を取り戻したのは、午前十一時のことだった。睡眠不足もあったから、気を失っていたのか、眠っていたのか、判然としない。

 少し休んで動けることを確認すると、貴重品を持って最恐の幽霊屋敷を後にした。

 車で近くの温泉施設に移動する。フロントで確認すると、客室に空きがあったので、宿泊の手続きをした。明日十文字が来るまでは、この場所で待機することにする。もう一度あの紫色のワンピースの霊が出てきたら、今度こそ鍋島の精神はたないだろう。

 大浴場で汗を流してから、自身の体験と幽霊屋敷を離れることを十文字に伝えようと、メールを書くことにした。何度も何度も携帯電話が誤作動したが、三十分程で無事にメールを書き終えて送信することができた。三十分後には十文字から「賢明な判断です」という返信が来た。

 取材中に身の危険を感じて現場から撤退することは、珍しいことではない。しかし、いつもは地元の不良グループと遭遇したとか、偶然丑の刻参りの儀式をしている人間を見つけてしまったとか、明らかに生きている人間から逃げるためであった。

 鍋島はあんなに明瞭に霊の姿を見たことはなかった。何よりあの紫のワンピースの霊と対峙した時の感覚は、頭蓋をじ開けられて脳髄のひだに爪を立てられるような、これまで体験したことがない不快感だった。思い出しただけでも、吐き気がする。

 気を紛らわそうと、自動販売機で缶ビールを買って、一気に呷った。空きっ腹だったにも拘わらず、全く酔いが回らない。そのままソファーに座って放心していると、目の前を紫色の服が横切った。

 慌てて顔を上げると、それは幽霊ではなくて、大浴場へ向かう紫色のジャージを着た老人だった。

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