第3回

 村崎紫音と池澤大河が新居に移り住んだのは、九月最初の月曜日だった。

 二人はまず隣近所への挨拶回りをすることにした。この地区は全部で十三の班に分かれており、それぞれ近所の家々が五軒を目安に一つの班を構成している。回覧板のやり取りも、葬儀の手伝いも、すべてこの班単位で行われるらしい。

 事前に挨拶に訪れた区長の話では、紫音たちの家は十二班に所属するそうで、他に四軒の家があるそうだ。

 隣近所といっても田舎のことだから、一番近い隣の家とも百メートル近く離れている。他の家々とも直線距離だとその程度なのだが、間に水田やビニールハウスがあるせいで、迂回のために農道を通ったり、県道を挟んだりすると、存外に遠かった。

 紫音と大河は水族館のオリジナルクッキーを手土産に持って、十二班の家々を一軒一軒回った。

平日の昼間だから留守宅が多いかもしれないと覚悟していたが、三軒は高齢の夫婦が家にいて、紫音たちに応じてくれた。ただ、若者に慣れていないためか、どの年寄りもぎこちない笑みを浮かべて、おざなりな態度であった。決して排他的ではないのだが、かといって好意的ともいえず、紫音は居心地の悪い思いがした。

 同じ班で一番離れている家は、棘木という珍しい苗字で、瓦屋根の大きな平屋だった。

 二人が訪れると、ちょうど家主と思われる男女がジャージ姿で庭仕事をしていた。男性の方は目が細く全体的にのっぺりとした印象の容貌だったので、年齢が掴み難い。しかし、女性の方は三十代半ばくらいかと思われた。丸顔で柔和な印象の女性である。

 棘木家までの三軒では高齢者としか会っていなかったので、自分たちと比較的近い世代に会えたことで、紫音は安堵した。

 簡単に挨拶をして、手土産を渡すと、棘木は慇懃な態度で受け取った。表情は読めないが、腰が低く丁寧な人物のようだ。近くに寄ると煙草の臭いがして、ヘビースモーカーであることが推し量られた。

「何か困ったことがあったら、いつでもいってください」

 棘木は町の郷土資料館の学芸員だそうで、月曜日が休みなのだという。自分たちもO市の水族館に勤務しているので月曜日が休日だと伝えると、「それはそれは」と微笑んだ。

「あそこ、いい場所ですよねぇ」

 そういったのは棘木の妻のももだった。

「あたしねぇ、ピラルクーが好きなんですよぉ」

 見た目よりもやや幼い口調である。

 それからは専ら紫音と桃が雑談を交わし、最終的には互いの携帯電話の番号とメールアドレスを交換した。その間、大河は手持ち無沙汰に庭木を眺め、棘木は微笑みながら、紫煙を燻らせていた。

「買い物する場所とか、ゴミ出しのルールとか、色々教えてください」

 紫音が改めてそういって頭を下げると、桃は「はいはい」と朗らかに応じた。

「あたしは専業主婦で大抵家にいますんでぇ、何かあったら気軽に連絡してくださいねぇ」

 早くも近所に知り合いができたことで、紫音の中で少しだけ新しい環境への不安が軽減された。


 最初の一週間は、とにかく新しい生活に慣れるのに必死だった。

 この生活が始まる前から、紫音と大河は互いの部屋に行き来していたので、二人で生活することについては、何となくシミュレーションができていた。実際に同じ家に住み始めても、目立った問題はない。勿論、大河に対して不満が全くないといえば嘘になるが、まあ、想定の範囲内の些細なものがほとんどだ。

 しかし、通勤時間が十分から四十分と大幅に長くなったことは、わかっていたとはいえ、なかなか大変だった。出勤前は紫音が洗濯物を干している間に、大河が朝食と弁当の支度をする(ちなみに、大河は職場で賄いが出るので、弁当は紫音の分だけだ)。慌ただしく準備をして、二人一緒の車で水族館へ向かう。それぞれ車は持っているが、節約のためだ。

 仕事が終わって帰宅するにも、同じだけの時間がかかる。更にいざ二人暮らしをしてみると、色々と足りないものにも気付いて、帰りがけに何度かホームセンターに足を運ぶこともあった。

 環境の変化のせいか、玄関の靴箱の上に置いた水槽の中の熱帯魚が何匹か死んでしまっていた。紫音は裏庭に穴を掘って、魚たちを埋めた。早速回覧板が回ってきたので、その日の内に目を通して隣に回す。家事の合間を縫って棘木桃から届いたメールに返信をする。大河との生活は充実していたけれど、仕事とプライベートの双方が忙しく、夜になると泥のように眠っていた。

 時折、奥の座敷であの妙な気配がすることはあったものの、そんな些末なことに関わっている余裕は、その時の紫音にはなかったのである。

 しかし、ようやく新しい生活リズムに身体が慣れてきた頃、不可解な現象が起こることに気付いた。

 真夜中に玄関のチャイムが鳴るのだ。

 ピンポーン、と一度だけ。

 それで紫音は目が覚めてしまう。

 最初は気のせいかと思った。しかし、同じことが二度、三度と続く内に、やはり聞き間違いではないことがわかった。

 チャイムが鳴る時間は、いつも同じくらいだ。逐一確認したわけではないけれど、午前二時から三時までの間に鳴らされる。時間が時間だけに、誰かの悪戯にしては質が悪い。

 ただ、大河にそのことを告げても、「気のせいだって」とまともに取り合ってはくれなかった。それでも紫音が食い下がると、「気のせいじゃないとしたら、ヤンキーの悪戯って可能性もあるから、下手に構わない方がいい」といわれた。確かに帰宅途中にあるコンビニの駐車場には、よく若者が屯しているのを見かける。

「俺らが引っ越してきたばっかりだから、ちょっかい出してるだけだよ。どうせすぐに飽きるから、あんまり心配するなって」

 そういわれても、気にはなる。

 五度目だったか、六度目だったか、遂に紫音はチャイムが鳴った直後に、こっそりベランダに出てみた。何者かがピンポンダッシュを繰り返しているのならば、上から逃げる姿が確認できると思ったからだ。

 しかし、月明りが照らす砂利敷きの庭に人影はないし、誰かが走り去るような物音もしない。

 まさか、まだ庭に留まっているの?

 紫音は大河を起こさないようにして静かに寝室を出ると、階段を下りる。なるべく慎重に足を運んだつもりだったが、家が古いため、どうしたってぎしっぎしっと軋む。真夜中の静寂の中では、そんな微かな音も闇を震わせて、存外に大きく感じられた。

 一階に至った紫音は、身を低くして玄関の引き戸を見て……思わず息を呑んだ。

 曇りガラスの向こうに、誰かが立っている。

 シルエットから判断すると、小柄な人物のようだ。中高生くらいの女子だろうか。

 その人物は玄関の前に佇んだまま動こうとしない。

 紫音は急に腹立たしくなった。毎晩毎晩こんな悪戯をされて安眠を妨害される筋合いはない。相手がヤンキー集団だったら怖気づくところだが、向こうは一人のようだし、体格も紫音と余り変わりない。ひと言ガツンといってやろう。

「ど、どなたですか!」

 紫音は相手を威嚇するように、できるだけ大きな声でそういった。

 しかし、玄関先に立つ人物は何も答えない。

 微動だにしない。

 紫音が再び声を出そうとすると、

「ダダィマァ~!」

 それは紫音の声よりも大きく、引き戸が僅かに揺れる。

 その喉が潰れたような片言の声を聞いた瞬間、紫音は総毛立った。

 聞いてはいけないものを聞いてしまったような、悍ましい感覚に襲われて、紫音はその場から逃げ出した。

 バタバタと這うようにして階段を一気に駆け上がると、二階の廊下に大河がいた。

「どうした?」

 怪訝そうに問う彼に、紫音は「し、下に、へ、変な人が……」とやっとの思いで伝えた。

「見てくる」

 大河はすぐに階段を下りていった。紫音は踊り場に座って、階下の様子を見守る。そこからだと上がり框の彼の姿が見えた。大河は首を傾げてから、サンダルを突っかけて三和土に下りていく。

 鍵を開ける音と引き戸を開ける音。

 駄目だよ。

 そんなことしたら、あいつが入ってきちゃう!

 紫音はじっとしていられなくなって、自分も再び玄関へ向かった。

 大河は外灯をつけて庭に出ていた。玄関周辺を見回っていたが、すぐに戻ってくる。

「誰もいなかった」

「そう。……でも、大河も声は聞いたでしょ?」

「いや。俺、寝てたから……」

 大河は踵を返して、そそくさと玄関の戸締りをする。

 その背中に、紫音は無言で疑問をぶつけた。

 あんなに大きな声だったのに、本当に聞こえなかったの?

 そもそも私だって結構大声出したんだよ?

 幾ら眠っていても、あれだけの声なら目覚めないのは不自然だ。そう思いながらも、紫音はそれ以上大河に詰め寄るのはやめた。余りにも疲弊してしまって、とてもそんな気力が湧かなかったのである。


 この家には、何かある。

 奥座敷で見かける人影、階段を上る音、それに真夜中のチャイム……。

 これまで大河に自分の体験を話しても、誤魔化されるだけだった。だから、直接訊いたとしても、正直に話してくれるのかは疑問である。しかし、あの不気味な声を聞いてしまった後で、問題を有耶無耶にしたまま生活できる程、紫音の神経は図太くない。

 座敷童子ではない。お狐様でもないだろう。

 もっと生々しい何かが、この家にはいるような気がする。

 引っ越して二週間が経過したその日、紫音は夕食の席で大河に尋ねた。この家で誰かが亡くなったんじゃないか、と。

 最初、大河はいつものように誤魔化そうとした。

「昔は病気でも最期は自分の家で看取ったらしいからな、座敷にある遺影の人たちは大体この家で亡くなってるさ。でも、そんなことはこの辺じゃ当たり前だぞ。古い家で誰も死んでない物件なんてない」

「そういうことじゃなくて……!」

 紫音が声を荒らげると、大河は缶ビールを呷った。

「わかった。わかった。正直に話す」

「うん」

「奥の座敷でな、叔母さんが頭を殴られて殺されたんだ。犯人はまだ捕まっていない。見つけたのは学校から帰った従姉だ」

「そう……なんだ」

 当時はかなり大きな騒ぎになったらしい。こんな田舎でもマスコミ関係者が押し寄せてきて、近所ではだいぶ迷惑したようだ。挨拶回りで老人たちが見せたぎこちない態度は、もしかしたらそうした過去の出来事に起因しているのかもしれない。

「まあ、紫音にとっちゃ気持ち悪い話だろうから、黙ってた。それは……謝る。だけど、俺、叔母さんにはスゲー世話になったっつーか、可愛がってもらってさ。この家に遊びに来た記憶って、どれもいい思い出なんだよ。叔母さんはさ、親父の弟の奥さんだから、血は繋がってないんだけど」

「じゃあ、この家で不思議なことが起こるのは、大河の叔母さんがまだ成仏できていないからなの?」

「そうかもしんねぇな。実は、俺も何度か不思議な経験はしてる」

「え?」

「だから、紫音が同じような目に遭ったって聞いて、やっぱりなって思ったんだけど、今更いえねぇじゃん」

「最初からいってくれればよかったのに……」

 そういってみたものの、逆の立場ならやはり事情を説明するのは憚られただろう。大河の気持ちは何となくわかる気がした。

 大河はもう一度ビールを飲んでから、「やっぱり気持ち悪いか?」と訊いてきた。

 正直、気持ち悪くないといえば嘘になる。しかし、大河にとって殺された叔母が大切な存在だということはわかったし、これまでの体験だって、実害があったわけではない。だから紫音は「大丈夫だよ」と微笑むことにした。

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