第4回

 九月最後の月曜日に、紫音の妹のとうが泊まりがけで遊びに来た。

 藤香は現在、大学三年生である。埼玉で一人暮らしをしながら、大学に通っている。専攻は文化人類学だそうだが、紫音は実際に妹がどんなことを学んでいるのかはよく知らない。新居が一戸建てだと伝えた時から、藤香は「絶対に遊びに行く!」と何度もいっていた。

 車で十五分の最寄り駅に迎えに行くと、藤香は相変わらず高いテンションで、「しおねえ〜久し振り~」と抱きついてきた。盆休みは繁忙期だから、例年実家には戻っていない。こうやって妹と直接会うのは、正月以来だった。

「あんた、荷物はそれだけ?」

 藤香の持ち物は、然程大きくないショルダーバッグと手土産の入った紙袋だけである。

「そだよ」

 藤香は研究のためにしばしば地方でフィールドワークを行うそうだから、きっと旅慣れているに違いない。

 藤香を連れて家に戻ると、大河の車がなかった。恐らく夕食の買い出しに行っているのだろう。今夜は奮発してすき焼きにする予定だった。

 道中ずっと喋りっ放しだった藤香は、家の敷地に入った途端に口数が減り、車から降りた時には思い切り顔を顰めていた。最初は車酔いかと思ったが、どうも違うようだ。

「どうかした?」

 紫音が声をかけると、無理矢理笑みを作って「ううん。何でもない」という。

「もしかして何か感じたんじゃない?」

 藤香には幼い頃から霊感めいたものがあった。何もない方向をじっと見ていたり、家族が聞こえない音を聞いたりしたこともしばしばだ。一緒に泊まった旅館の部屋で「気持ち悪い」といい出して、額縁の裏にお札が貼ってあるのを見つけたこともある。だから、この家の微妙な空気から、何かを感じ取ったのではないかと思ったのだ。

「しお姉、ここって……」

「あのね、実はこの家で大河の叔母さんが亡くなってるの。それも殺されちゃったんだって。だからあんたにはちょっと変なものが見えるかもしれない」

「あ、そうなんだ」

「私も不思議な体験をしたけど、大したことないから」

「わかった」

 藤香はそういったが、何か釈然としない様子だった。

 それでもいざ家の中に入って、あちこち見て回る内に、藤香の表情は緩んでいった。

 滞在中、藤香には二階の東側の八畳間を使ってもらうことにした。来客用の布団一式は、昨日の内に運び込んである。

 南と東の窓を開けると、涼やかな風が通って心地よい。庭の銀杏や楓も色づき始め、秋の到来を告げている。

「何かホントに新婚生活って感じだね~」

「まだ婚姻届出してないけどね」

「いつ頃の予定なの? 式は? あたしにも予定ってもんがあるんだから、早めに教えてくれないと」

「式は年が明けてからかな。二月とかなら水族館もそんなに混まないだろうし」

 勤務先のシフトは紫音も大河もなかなか調整が難しいから、新婚旅行はお預けになりそうだというと、藤香は「社会人は大変だね~」といった。

「あんただってもうすぐ社会人じゃない」

「いや、あたしは大学院まで進むつもりだから」

「え? それ、お父さんとお母さんにはいってあるの?」

「まだだよ。っていうか、彼氏にも話してない。しお姉が初めてだよ」

 そこで「彼氏ができたの?」という話題になり、顔を赤らめる藤香から相手について詳しく聞き出すことになった。藤香の交際相手は二つ年上で、同じ専攻の院生だという。韓国の祖先祭祀が研究テーマで、藤香も現地調査に同行したことがあるらしい。

「あたしもね、韓国をフィールドにしてムーソクの調査をするつもり」

 巫俗というのは、韓国のシャーマニズムだそうだ。研究テーマにしろ、進学の件にしろ、彼氏からの影響を強く受けているのだろうが、研究と交際相手について熱心に話をする妹の姿は、紫音には微笑ましいものに映った。実家の収入を考えると、両親の説得には多少骨が折れるかもしれないが、できるだけ力になってやろうとは思う。

 大河の用意した夕食は豪勢だった。すき焼きだけではなく、鯛のカルパッチョや海老と帆立の冷製パスタも並び、三人でスパークリングワインを飲んだ。明らかにすき焼きだけが浮いているメニューだったが、どれも藤香の好きなものばかりだ。大河は以前に妹から聞いていた好みを覚えていたらしい。

 茶の間の布団を外した掘り炬燵に座って、三人で食卓を囲むと、二人の時よりも家族的な雰囲気になって、この家で暮らすのも悪くないなと思えた。不可解な現象が起こるのは勘弁して欲しいけれど……。

「大学はどう?」

 大河が話を振ると、藤香はワインで頬を染めながら、饒舌に大学生活について語った。「読まなきゃいけない論文がいっぱいなんです」とか、「専門英語がマジ地獄」とか、「児童文学サークルに入ってて、この前まで学祭で売る冊子の編集してたんですけど、入稿ギリギリになっちゃってみんなで徹夜ですよ~」とか、何処にでもいるような大学生の日常を大袈裟に話す妹を見て、紫音はほっとした。

 藤香は身内の前では今のように明るい性格なのだが、元来は引っ込み思案で繊細過ぎるくらい繊細な神経の持ち主だった。霊感めいた感覚も、そうした人格がなせるものなのかもしれない。大学進学が決まって一人暮らしをすると聞いた時は、果たして藤香にそんなことができるのかと心配していたが、どうやら杞憂だったようだ。

 大河は翌日仕事なので早めに床に就いたが、紫音と藤香は風呂に入ってからも日付が変わるまで姉妹水入らずで過ごした。まだ話し足りなそうな藤香に、「明日は日光連れて行ってあげるんだから、もう寝なさい」といって、紫音も休んだ。


 朝は大河を送り出すため、いつもと同じ時間に起きたのだが、かなりショッキングな出来事があった。

 二階の四畳半で飼っていた熱帯魚の半数近くが死んでいたのである。紫音のベタも濁った眼をして金魚鉢に浮かんでいた。原因はよくわからない。エアーポンプは正常に動いていたし、水温もきちんと保たれている。

 大河も水面に浮かぶ魚たちを見て、酷く落ち込んでいた。ただ、出勤まで時間的な余裕がなかったので、感傷に浸る間もなく出かけて行った。

 紫音が網を使って魚の死骸を掬っていると、背後から藤香が呼び掛けてきた。

「何か、あったの?」

「うん。原因はよくわかんないんだけど、半分くらい死んじゃってて」

「しお姉、この家、ヤバいよ」

「どういうこと?」

「あのね、昨日は気のせいかと思って黙ってたんだけど、この家に着いた時、縁側のところにずぶ濡れの男の人が立ってるのが見えたの。それにね……」

 藤香は昨夜自身が体験したことを淡々と語り出した。

 玄関のチャイムが聞こえた気がして、藤香は夜中に目を覚ましたそうだ。

 事前に紫音からその現象については聞いていたので、「絶対に一階に下りないぞ」と心に誓って、もう一度眠ろうとしたのだが、寝室の入口が僅かに開いているのに気付いた。

 眠る前には確かに閉めたはずだ。多少酔ってはいたが、記憶は明瞭である。自分が一番後に就寝したのだから、紫音や大河が開けたというのも考え難い。そんなことを思いながら視線を上に向けると……。

 誰かが覗いていた。

 ただ、一見して、それが生きている人間ではないことはわかったらしい。

 何故なら、その人物の顔は激しく歪んでいたからだ。

 ちょうど顔の中心から渦を描くように、ぐにゃりと掻き混ぜられていて、目も、鼻も、口も、あり得ない場所、あり得ない角度、あり得ない形で、顔貌に収まっている。

 藤香が短い悲鳴を上げると、それはすぅっと後ろに下がるようにしていなくなった。

 布団の中で耳を澄ましてみると、とんとんとんとんと階段を下りていく足音がはっきり聞こえたという。

「見間違えじゃ……なかったんだね」

「うん。幻覚とかでもなかった」

 この魚たちが死んだのも、藤香の見たソレが原因なのだろうか?

「あんたが見たのって、大河の叔母さんなのかな」

「違うと、思う。アレは普通の幽霊なんかじゃなくて、もっと禍々しいモノだよ。あのさ、この家って大河さんの叔母さんが殺された以外にも、何かあったんじゃないかな」

「でも、大河からは何も……」

 もしかして、まだ何か隠しているのか? 

 余りパートナーを疑いたくはないのだが、本当に知られたくないことを隠すために、敢えて叔母が殺害された話だけをした可能性はある。そんな話をされれば、流石にそれ以上突っ込んで事情を尋ねるのは気が退ける。大河はそんな紫音の心理を利用したのではないか。

「ねぇ、大河さんにちゃんと訊いた方がいいよ」

「う~ん、多分、駄目だと思う。大河はきっとまた誤魔化すと思うんだ。でも、この家で過去に何があったのか、話してくれそうな人には心当たりがある」

 紫音はすぐに棘木桃にメールを送って、会って相談したいことがあると伝えた。なるべく早くがいいという文面も付け加えて。

 主婦にとってはまだ朝の忙しい時間帯だったが、桃からはすぐに返信があった。十時くらいになれば時間が空くので、こちらに来てくれるとのことだった。

「あたしも同席していいんだよね?」

 藤香が尋ねる。

「勿論。むしろ一緒にいてくれた方が助かる」

 正直、一人で桃に話を聞くのは荷が重い。何もなければよいが、恐らく知りたくもないような、厭な話の可能性が高いだろう。今は妹の存在が心強く感じる紫音だった。

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