第8回

 カケルさんとサチカさん夫婦が旧朽城家に入居したのは、二〇〇七年の秋のことだった。

 当時カケルさんもサチカさんも二十代半ばであった。S町に実家のあるカケルさんたちが、わざわざ同じ町にあるその家に引っ越した原因は、嫁 姑 問題である。

「一年間は何とか私の両親と同居したんですが、妻と母との仲がどんどん険悪になりまして」

 当初は町営住宅に空きが出るまでは我慢しようとしたのだが、その前に限界がきた。とはいえ、アパートやマンションを探すには時間がかかるし、金銭的な余裕もあるわけではない。そこで仕方なく格安の家賃ですぐに入居ができる旧朽城家で暮らすことになった。

「私も地元の人間ですから、あの家で起きた殺人事件のことは知っていましたし、悪い霊が出るって噂も聞いていました」

 しかし、その当時はまだ具体的な怪談は語られていなかったから、噂は眉唾だと思っていた。

「私も妻も事故物件とか余り気にしない質でしたし、何よりも一刻も早く実家から出ていかないと家族全員の精神が保たない状態でしたから」

 旧朽城家には古いながらも立派な家具が備え付けられていて、自由に使用してよいといわれた(逆に使わない時は、不動産会社に連絡すれば、撤去するともいわれていたそうだ)。お陰で新たに家財道具を新調する必要はなくなったし、業者に頼まず自分たちで軽トラックを使って引っ越し作業をしたから、費用はほとんどかからなかった。家賃は敷金礼金なしで月三万円であったという。

「家自体は古いものでしたけれど、水回りなんかはリフォームされていて綺麗でした。ホント今まで空き家だったのが勿体ないって感じで。気になる点があったとすれば、やたらに水槽が多かったことくらいですかね。玄関に大きな水槽があって、二階にも幾つか小さなものがありました。不動産会社の話では、前に住んでいた方が熱帯魚を飼うのが趣味だったそうです」

 それらも不用ならば片付けるという話だったが、カケルさんたちはいつか自分たちも観賞魚を飼うかもしれないと思い、そのままにしたという。

 こうして新居での生活は順調に始まった。といっても、カケルさんもサチカさんも共に隣のN市の観光施設に勤めていたから、自宅で過ごす時間はかなり少なかったようだ。

「二人ともだいぶブラックな職場でしたからね、残業は当たり前、休みも週に一度あるかないかで、帰宅したらもうくたくたでした」

 夕食を終えて入浴をしたら、倒れ込むように眠る。カケルさんもサチカさんも朝まで目を覚ますことは滅多になかった。

 ただ、カケルさんは一度だけ、夜中にチャイムが鳴るのを聞いたことがある。その時は休日の前ということもあって、いつもよりも酒を飲み過ぎたらしい。夜中にトイレに起きて、二階の寝室へ戻る途中で、不意にチャイムが鳴った。しかし、寝惚けていたこともあって、わざわざ確認することはなかったそうだ。

 カケルさんが本格的に不可解な体験をするようになったのは、旧朽城家で暮らし始めて二箇月が経過した頃だった。

 風呂場で浴槽に浸かっていると、女の声がした。

 室外から聞こえてきたもので、何をいっているのかはわからない。それでも、何となくこちらに呼び掛けていることだけはわかった。当然、カケルさんはサチカさんだと思って「なぁにー? 聞こえないよー」といったのだが、何の返答もない。

 曇りガラス越しに脱衣場兼洗面所を見ても誰もいないから、更にその外、恐らくはダイニングキッチンから声を掛けているのかと思った。

 声がしたのは一度切りだったが、風呂場から上がってサチカさんに確認しても、「知らない」といわれてしまった。

「妻ではないなら茶の間のテレビの声がたまたま聞こえたのかと思ったのですが、その時、妻は二階にいて、テレビはついていなかったっていうんですよ」

 結局、声の正体はわからぬまま、数日が経過した。

 すると、今度はサチカさんが妙なことをいい出した。洗面所で歯を磨いていたら、誰もいないはずの風呂場から女の声がしたというのだ。やはり何をいっているのかはわからないものの、まるでこちらに向かって話しかけているような口調だったらしい。

 それからも三日に一度くらいの割合で、カケルさんは入浴中に風呂場の外から女の声を聞き、サチカさんは風呂上りや洗濯機の操作をしている時に風呂場から女の声を聞くようになった。

「流石に気味は悪かったです。でも、実害があったわけじゃなかったんで、そのまま放置していました」

 実のところ、当時の二人の生活にはそんなつまらない現象に構っているような余裕はなかったのである。世界遺産のあるN市には国内だけではなく、海外からも多数の観光客が訪れ、毎日が戦争のようだった。激務による疲労とストレスから、ちょっとしたことで口論になることもあった。家の中で起こる僅かな異変など相手にする精神的なゆとりはなかったし、そんな時間があるならとにかく寝たかったのだそうだ。

 しかし、最初に女の声を聞いてから半月後、カケルさんは決定的なものを目撃してしまう。

「浴槽で体を伸ばしていたら、いつものように風呂場の外から声が聞こえたんです。その時、ふと視線を天井に向けたんですが……」

 子供くらいの大きさの何かが、四つん這いになって逆さまにくっ付いていた。

「見た目は透明なんです。天井も透けて見える。でも、人間みたいな輪郭が浮き上がっていました」

 カケルさんの話では、SF作品に登場する光学迷彩のようだったそうだ。

 それは天井をゆっくりと這い回っていたが、こちらの視線に気付いたようで、ぴたりと動きを止めた。カケルさんは慌てて風呂場から飛び出したという。

「びしょ濡れのすっぽんぽんだったんで、妻からはかなり白い目で見られました」

 改めて二人で風呂場に戻ったが、もうその透明人間の姿はなかった。

 それ以降、カケルさんは自宅の風呂場を使わなくなった。幸いなことに近隣には温泉施設が幾つもあったから、仕事の帰りに寄り道して汗を流すことができた。一方、サチカさんは今まで通り、自宅で入浴を続けた。

 それから一週間ばかりが経過した夜、職場から帰宅したカケルさんは異様な気配を感じた。玄関の大きな靴箱の上に置かれた水槽には、何故か水がいっぱいに張られていた。

 朝は空っぽだったはずなのに……。

 声を掛けたが、サチカさんからの返事はない。その代わり、風呂場からばしゃばしゃと水を弾く音が聞こえた。慌ててそちらに行くと、サチカさんは水の入った浴槽の中で意識を失ってぐったりしていた。

 すぐに救急搬送されたので一命は取り留めたが、とうとう意識は戻らなかったという。

「医者の話では、長時間水風呂に浸かっていたことによる低体温症とのことでした」

 半年後、サチカさんは病院のベッドの上でこの世を去った。

「妻はあの家の風呂場にいた何かのせいで、死んだんだと思います」

 カケルさんは無念そうにそういった。


 エミルさんの両親が都内のマンションから栃木県S町の一軒家に引っ越したのは、二〇〇八年七月のことである。

 父親のノリタダさんはずっと田舎暮らしに憧れがあったそうで、定年を前に早期退職をしての移住だった。当初は退職金を利用して、土地も家も購入するつもりだったようだが、母親のチグサさんが慎重派で、まずは賃貸物件に住んで様子を見ることになった。

 実家マンションも処分することはせずに、エミルさんがそのまま住み続けることになっていたという。

「引っ越しの時はあたしも手伝いに行きましたけど、普通の家に見えました。あ、でも、庭は凄く広かったです。田圃と畑も付いていて、父は自給自足の生活ができるって物凄く張り切ってました。それまでも都内で畑を借りていたり、ベランダで家庭菜園していましたから」

 両親が新しい生活を始めて二週間が経過した頃、チグサさんから連絡があった。

 どうも家が可怪しいというのだ。奥座敷で人影を見た。自分たち以外の人間が階段を上り下りする足音がする。夜中にチャイムが鳴る。庭で誰かが歌っているのが聞こえる。

「父は気のせいだっていい張っていたようなんですけど、母の話は一つ一つが妙にリアルだったんです。その時は母が新しい環境に馴染めなくてノイローゼ気味になっちゃったんじゃないかって心配して、取り敢えずそっちに行くことにしました」

 仕事が休みの直近の土曜日に、エミルさんは電車を乗り継いで両親の許を訪れた。

 ノリタダさんは日に焼けて健康的に見えたが、チグサさんは窶れた雰囲気だった。

「こっちでの生活が合わないなら、一旦帰ってきたら?」

 そうエミルさんは提案したが、チグサさんは首を振った。

「お父さんを一人にしておけないから」

 ノリタダさんは農業や日曜大工には精を出すのだが、家事全般をしている姿は見たことがなかった。だから、チグサさんがいないと日常生活に支障が出ることは頷ける。母親の父親に対する思いを考えると、無理に東京に戻ることを勧めるわけにはいかなかった。

 奥座敷をはじめとしてひと通り家の中を見回ったが、エミルさんが不可解な体験をすることはなかった。

 夕食は久々にチグサさんの手料理を味わい、広い浴槽で足を伸ばして入浴すると、ここでの生活も悪くないなと思いはじめた。余り心配しなくても、母親も少しずつこの環境に慣れてくるのではないか。そうすればこの家に異状があるなどとはいわなくなるのではないか。この時点では、エミルさんはそう思っていた。

 チグサさんが蒲団を敷いてくれたのは、仏間と奥座敷に挟まれた八畳間だった。

 一人になると、家の周囲の田圃で鳴く蛙の声がうるさいくらいだった。夏ということもあって、襖や障子は開け放たれていた。だだっ広い空間で横になるのは落ち着かなかったものの、移動の疲れや夕食の時に地酒を飲んだこともあって、すぐに瞼は重くなる。

 まさに眠りに落ちようとする刹那、エミルさんは金縛りに襲われた。

「胸が圧迫されて苦しかったので、思わず目を開けたんです。そしたら……」

 五、六人の見知らぬ人々が、エミルさんが寝ている蒲団を囲んで見下ろしていたという。

 皆、暗闇の中で白っぽく浮き上がって見えた。性別も年齢もバラバラだが、全員無表情でただただこちらを見ている。しかも違う人間が入れ代わり立ち代わりして、エミルさんを眺めていく。

 余りの恐怖に目を瞑ったが、その気配は消えることはなく、エミルさんは辺りが明るくなる午前四時頃まで眠ることができなかった。

「だいぶ寝坊して十時くらいに起きたんですけど、家の中に両親はいませんでした。茶の間にあたしの分の朝食が用意してあって、『お父さんと畑に出ます』って母のメモが添えられていました」

 しかし、それっきり両親は行方不明となった。

「あとで調べて、あの家が殺人事件の現場で、地元じゃ有名な幽霊屋敷だって知りました。でも、両親の前に住んでいた家族から死者は出ていないから、不動産会社に説明責任はなかったらしくって」

 それから半年程が経過した二〇〇九年一月半ば、両親の遺体は旧朽城家の庭で発見された。

 柘植の林立する中、二人は真っ黒に汚れた野良着姿で、折り重なるように倒れていたらしい。司法解剖の結果、死亡したのは、見つかる数時間前だという。ノリタダさんの全身には幾つもの刺し傷があり、チグサさんは頸部を切断されていた。近くに鎌が落ちていたことから、警察では無理心中ではないかと考えたようだ。

「両親がそれまで何処にいたのか、遺体からは何もわかりませんでした」

 遺体の第一発見者は、その時旧朽城家に入居していた家族の小学生になる一人息子である。エミルさんはその子と直接話をする機会があったそうだ。

「その子、『二階の廊下に、緑色の服を着た知らない女の人が立っていて怖い』っていってました」

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