第7回

第二章 なべしまねこすけ(二〇一三年)


 時刻は午後四時四十四分の四分前である。

 辺りはすっかり暗くなり、周囲に人影もない。十一月も終わりに近く、日が沈むと途端に寒さを実感する。

 オカルトライターの鍋島猫助は、湖畔にある公園の時計台から湖面に向かって一眼レフのカメラを構えていた。静止画ではなく、動画を撮影するので、既に録画ボタンは押してある。だから「寒い」という呟きすらできない状況である。鍋島の「猫助」というのは、勿論、ペンネームで、有名な鍋島の化け猫騒動から付けたものだ。

 隣には背中を覆うくらいの長い黒髪に、白いロングコートを着た女性が立っている。元々色白なのだが、闇の中では一層顔面が白く見え、唇だけがやけに赤く浮き上がっていた。どう見てもステレオタイプな幽霊であるが、彼女は霊能者でじゅうもんという。

 鍋島と十文字は、『よう』という雑誌の企画でコンビを組んでいる。この雑誌はオカルト系のコンテンツの中でも、幽霊や妖怪に特化したもので、偶数月に発売される。二人はあちこちの心霊スポットを巡り、その様子をルポルタージュ形式の記事にして発表していた。お陰様で連載は好評で、十文字との付き合いはもう一年半になる。近々これまでの記事を単行本にまとめて出版することになっている。

 今回も『妖』の連載のための取材で、神奈川県S市にあるいななき湖畔公園を訪れていた。ここは全国的な知名度は今一つだが、県内ではそれなりに知られた心霊スポットである。また過去には何件もの不可解な水難事故が発生していた。

 稲鳴湖には幾つか怪談が伝わっている。その中で、今、鍋島たちが検証しているのは、「四時四十四分に時計台から湖を眺めると、水面に白装束の少女の幽霊が立っている」という都市伝説めいた噂である。出現する幽霊は、かつてこの湖の主に生贄として捧げられた少女なのだという。

 市史の民俗編に記載された伝説によれば、かつて稲鳴湖に棲んでいた大蛇に、毎年うら若き乙女を一人と馬を一頭生贄に差し出していたそうだ。結局、大蛇は九百九十九人の乙女たちを食らった後、偶然この地を訪れた武将によって退治されたと伝えられている。稲鳴湖の名前の由来は、生贄となった馬のいななきが時折聞こえるからだとされている。

 さて、四時四十四分の噂であるが、これがなかなか厄介なものだった。というのも、話のバリエーションによって、夕方と早朝の二パターンが存在するので、両方確かめなくてはならないのだ。

 鍋島が確認した限りでは、伝わっている噂の中に季節を指定しているものはない。しかし、十文字が「暗い方が雰囲気が出るのではありませんか」というので、わざわざ今の時期を選んで現場に来ている。この時期ならば日の入りが午後四時四十四分より前であり、日の出が午前四時四十四分よりも後になる。

「一分前です」

 十文字が囁く。小さいがよく通る声だ。

 鍋島は全く何の期待もしないまま、カメラを湖面に向け続けている。十文字との現地取材で、客観的に観察できるような不思議な現象が起こるかは、五分五分である。何か異変が起こったとしても、よくよく調べれば自然現象で説明が付くような場合が多い。

 それでも十文字だけは何かを感じ、何かを見ている……らしい。こちらはその様子をカメラに収め、文章に起こせばよいだけだ。

 やがて時間が来た瞬間、十文字が「あ」と短い声を上げた。

 ちらりと横目で見ると、湖を凝視しながら指を差している。

 咄嗟にそちらを向いたが、鍋島には何も見えない。カメラの画面もすぐに確認したが、やはり異状は見られなかった。

 十文字が念仏だか真言だかを唱え出す。

 傍から見ると、相当不気味である。

 鍋島にとってはすっかり見慣れた光景だが、もしも通行人がこの様子を見たら、心霊体験をしたと錯覚しても不思議ではない。どう見ても湖畔で幽霊が念仏を唱えているように映る。

 念のため五分程はカメラを回しておいた。今は何も見えなくても、後で映像を見直してみると何かが映っている場合もある。逆に、撮影したデータすべてが何故か消えていることもしばしばだ。曰く因縁のある現場を取材するようになって、鍋島はもう三台もデジタルカメラをお釈迦にしている。どれも原因は不明だったが、壊れる直前に撮ったのは、すべて呪いや祟りが甚だしいといわれる場所やものだった。その時の十文字は「生命が無事だっただけでも奇跡ですよ」といっていたが、あれは何処まで本気だったのだろうか。

 カメラを静止画モードにして、時計台をバックに十文字の写真を何枚か撮影した。十文字にはかなりのファンや信者がいるらしく、彼女のポートレートは毎回必須になっている。

 客観的に見て、十文字は整った容姿をしている。年齢は知らない(というか、教えてくれない)が、容貌は二十代にしか見えない。ただ、間近で接していると、人形や絵画のような人工的な印象が強く感じられる。別に美容整形をしているとか、そういう話ではなく、十文字八千代という人間そのものが、非人間的に見えてしまうのだ。案外そうした二・五次元的な特徴が支持されているのかもしれない。

「さっきは何が見えたんすか?」

「馬に乗った女の子が、湖の上を走り抜けていきました。何も撮れていませんか?」

「俺には何も見えませんでしたが……ちょっと待ってください」

 鍋島は改めて撮影した映像を確認する。

「スローで再生してみてください。とても素早かったから」

 いわれた通りスローで映像を見てみると、画面の左から右へ白い光のようなものが移動していた。

「ほらね」

 十文字は満足げに微笑むが、多分、飛んでいる鳥に公園内の外灯の光が反射しただけだろう。勿論、そんなことは口には出さないが。

「取り敢えず、メシ行きますかね」

 鍋島がそういうと、十文字は静かに頷いた。

 今夜は湖畔公園内にあるキャンプ場のバンガローを拠点として、翌朝の四時四十四分まで取材をする予定だ。といっても、かなりの長丁場であるから、今からは少し休憩タイムとなっている。食事をして午後九時まで仮眠を取るというスケジュールだ。

「あ、ここ、写真撮ってください」

 移動中も十文字はそうした指示を唐突に出す。この一年半で鍋島もすっかり彼女の言動には慣れたので、いちいち疑問を呈することもなく、写真を撮影する。

「そうそう、例の幽霊屋敷の件ですけれど……」

 十文字が口にした幽霊屋敷とは、栃木県北部の田舎町にある賃貸物件のことである。奇妙なことに、そこは事故物件であることを公にした上で、最恐の幽霊屋敷を謳い文句に借り手を募っている。そして酔狂な客というのは何処の世界にもいるもので、非常に人気のある物件となっていた。

 鍋島と十文字は来月その家に取材に赴くことになっている。半年前から賃貸の予約を入れて、ようやく順番が回ってきたのだ。滞在期間は契約上の最短日数の一週間としてある。

 最恐の幽霊屋敷には、元々朽城という一家が住んでいた。そこの主婦が拝み屋のようなことをしていて、近隣住民たちからの信頼も篤かったという。

 しかし、一九九四年にその主婦が何者かに殺害され、家族も相次いで不審な死を遂げた。その後、親類が土地と建物を相続したが、不可解な現象が起こるようになり、身内も含めて住人が居着かない状況が続き、とうとう売りに出した。今の大家であるおどろという人物は不動産会社を通して、それを買い取ったらしい。

 それから棘木は、使川原がわらげんじょうという業界ではそれなりに名の知られた霊能者に旧朽城家の除霊を依頼した。しかし、勅使川原はその除霊の最中に死んだといわれている。

「勅使川原先生がその場所で亡くなったのは事実です。当時、同行していたお弟子さんに直接確認が取れました。家の中を見回っていた時に、お弟子さんの一人が突然台所から刃物を持ち出して、お風呂場で勅使川原先生を刺して、止めに入ったもう一人のお弟子さんの首を切って、最終的には自殺されたそうです。それから知り合いの同業者を当たってみたのですが、勅使川原先生の後に除霊を依頼されたいとぐちびゃくれんさんはベランダの手摺りで首を吊ってお亡くなりになっていますし、うられいさんもやはり除霊中に帰らぬ人になっています。首の骨が折れてしまったとかいうお話でした」

「霊能者が三人も死んでるんですか?」

 鍋島は少なからず驚いた。しかし、十文字は涼しい表情のまま、「三名だけではありません」といった。

「わたくしの近い範囲で聞き込みをした結果、その三名の名前が明らかになっただけで、実際に亡くなった霊能者や宗教者はもう少しいるようです」

 最恐の幽霊屋敷に関わった霊能者は、全員が死亡している─ネット上ではそんな噂がまことしやかに囁かれているが、あながち単なる噂とはいい切れないようだ。

「そちらの調査の進捗は如何ですか?」

 十文字の質問に、鍋島は「それなりに進んでますよ」と答えた。

 鍋島は今、十文字から指示を受けて、かつて旧朽城家で暮らした経験のある人々に話を聞いて回っている。中でも十文字が重要視しているのは、棘木の前の大家が物件を所有していた時期に入居した人間である。それもできるだけ遡って、より古い入居者を見つけて欲しいという指示だった。

「その場所を訪れた多くの同業者が亡くなっているとなると、具体的にその家に何があるのか情報を得ることができません。生き残った勅使川原先生のお弟子さんは未熟だったとかで、霊視はできなかったそうですし。こちらのリスクを下げるためにも、情報が必要です。そのためには、より根源に近い怪異を体験した方々のお話が参考になります」

 鍋島にとっても、実際に旧朽城家に住んだ経験のある人々から体験談を蒐集するのは、記事を書く上で必要なことだった。とはいえ、探すのはなかなか手間がかかる。物件を管理している不動産会社に問い合わせたところで、個人情報を簡単に教えてくれるはずはない。

 鍋島は根気強くネットを渉猟し、旧朽城家での体験談を書き込んでいる人物を探した。その結果、現時点で三人の該当者にコンタクトを取ることができた。

「その三名は別々の家族なのですか?」

 十文字が尋ねる。

「そうです。全く関係のない三人です。二人分はある程度文章に起こしてますから、後でお渡しします。三人目は来週会う予定です」

 鍋島がそういうと、十文字は唇の両端をすぅっと上げて、「相変わらず仕事が早いですね」といった。目が笑っていないので非常に不気味な表情であるが、微笑んでいるらしい。

「俺らにも何か危険なことが起こるんですか?」

「さぁ。でも、死人が出ていますからね、用心に越したことはないでしょう」

 そういった後、十文字は「あそこも撮ってください」と電話ボックスを指差した。

 急いでシャッターを切ると、誰もいなかったはずのボックスの中に、制服姿らしき少女の姿がぼんやりと映っている。

「撮れましたね」

 鍋島がそういった瞬間、何の前触れもなしにデジカメの電源が切れた。

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