第2回
第一章
1
結婚後は一戸建てに住めると婚約者から聞いた時、村崎紫音は全く現実感が持てなかった。
仙台の公営団地で生まれ育ち、宇都宮の大学に進学してからは、学生寮で四年間を過ごした。卒業後は地元には戻らずに、そのまま栃木県内で就職し、今はワンルームマンションで一人暮らしをしている。そんな紫音には、戸建てに住むという感覚がよくわからない。
きっと物凄く広いから掃除が大変だろうなぁと、漠然とした感想は抱けるが、そこに自分が住むのを具体的に想像することがどうしてもできないのだ。
婚約者の
先に声をかけてきたのは大河だ。女性職員の間では大河は密かに人気があって、だから、紫音は自分が選ばれたことが素直に嬉しかった。それに大河も紫音と同じように、魚─特に熱帯魚が好きだとわかり、共通の趣味で盛り上がることができた。
もっとも「好き」の度合いでいうと、遥かに大河の方が上だ。紫音は金魚鉢で青いベタを飼っている程度だが、大河はアクアリウムに凝っていて、流木や水草でディスプレイされた大きな水槽に、何種類もの魚を泳がせていた。
大河は一人暮らしの部屋に紫音を招き、よく手料理を振舞ってくれた。流石にプロの料理人だけあって、大河の作るものはどれも美味しかった。二人で水槽を眺めながら、取り留めのない会話をする時間は、紫音にとってかけがえのないものだった。
そして、三年の交際期間を経て、二人は結婚を決めた。既に互いの家族への挨拶も済ませている。大河は宇都宮市の出身で、実家は両親と兄夫婦が同居していた。当然、紫音たちは結婚後に二人で暮らす新居を探さなければならない。
紫音としては、職場から近い場所でアパートを探すか、市営住宅の空きを待って応募するか、どちらかが現実的だろうと考えていた。
しかし、唐突に大河から一戸建てに住めるという話が出たのである。
「ずっと前に親父が親戚の家を相続したんだ。どうせ誰も住んでないから、俺たちが自由に使っていいって」
その家は水族館からは車で四十分程離れたS町にあるという。通勤は今よりも時間がかかってしまうが、その程度ならば許容範囲ではある。
聞けば、大河の兄夫婦が結婚した際も、その家に住む話が出たのだが、生憎、宇都宮市にある二人の職場までは車で片道一時間半かかってしまうため、断念したらしい。
「義姉さんからは随分羨ましがられたんだぜ」
大河はそういって笑っていた。
それでも紫音は結婚後の生活がどうなるのか不安で、大河の提案をすんなりと受け入れることはできなかった。
「今度の休みに一緒に家を見に行こう。決めるのはそれからでいいさ」
次の休館日に、紫音は大河の運転する車で、S町にあるその家へ向かった。大河のアパートから日光方面へ国道を走ると、三十分程度で目的地に到着した。
山々に囲まれた閉塞感のある場所で、周囲には田圃と畑、それにビニールハウスばかりが目立つ。一応、途中でコンビニは見かけたが、それ以外には通り沿いに商店は見えなかった。
「お店はみんな旧道沿いにあるんだ。小さいけどスーパーもあるし、診療所も、歯医者もある。普通に生活する分には大きな不便はないよ」
大河はそういったが、全く実感が伴わない。
本当にこんな場所で新婚生活を送るのか?
わざわざ慣れない土地で、新しい生活を始めるメリットが何処にあるのだろう?
紫音の中には幾つもの疑問が膨れ上がっていった。
そして、実際に大河の父親が所有する物件を目の当たりにした紫音は……。
硬直した。
というのも、そこは彼女が想定していた一戸建てのイメージを軽く凌駕するような物件だったからだ。
まず敷地が余りにも広い。田圃の中に一段高くなった土地があって、そこに家が建っているのだが、母屋だけではなく、納屋や石蔵も付属している。屋根付きの車庫も完備しているし、畑やビニールハウスまであった。
庭には楓、銀杏、松、柿、
敷地の西には竹藪が広がり、母屋の裏手となる北は、杉林になっている。これは屋敷林といって山から吹き下ろしてくる風が直接母屋に当たるのを避ける防風林の役目を持っているそうだ。
裏庭には小さな赤い鳥居があり、稲荷が祀られた小社まであった。
大河の話では、庭の手入れは母親の知り合いの植木屋が定期的に行ってくれるので、こちらで心配することは何もないというのだが……。
「ここに住むの?」
訪れる前よりも、実物を目にした今の方が、現実感が遠退いた。
「古いけど、なかなかいい家だろ?」
大河が誇らしげにそういうので、紫音は曖昧に頷くことしかできない。
母屋はくすんだ青いトタン屋根の木造二階建てだった。広いベランダだけが金属製で、手摺りの部分が鮮やかなパステルグリーンに塗られている。もしかしたら増築された部分なのかもしれない。建具はどれも乾いた色をした木材で、時代を感じさせた。
ただ、古い建物ではあったが、手入れが行き届いていることもあり、紫音は清潔な印象を受けた。自分は訪問した経験がないのだが、所謂「田舎の祖父母の家」というのは、こんな感じなのだろうと思った。
南に面した玄関は一段高くなった位置にあった。木製の引き戸には曇りガラスが嵌まっていて、中を窺うことはできない。
大河が鍵を開けて戸を引くと、かなり広い三和土が出迎えた。右側に大きな靴箱があるのだが、それでも大人が三人は並べる空間がある。
「この靴箱の上に、水槽を置こうかなって思うんだ」
既に大河は頭の中で新しい生活を思い描いているようだった。事前に掃除にも訪れているのだろうから、それもわからないではないが、紫音は戸惑うばかりである。
「取り敢えず上がって、中を見てくれよ」
玄関から上がってすぐが、左右に走る短い廊下になっている。左手はそのまま縁側に続き、右手には二階へと続く狭い階段が見えた。
玄関の正面は仏間で、今は障子が開け放たれている。紫音には馴染みのない神棚と仏壇が置かれていて、何だか違う国に迷い込んでしまったような気がした。神棚にはお札や幣束が祀られているが、仏壇の扉は閉まっていた。
「これ、中は何も入ってないから」
大河はそういって、仏壇の扉を開けた。確かに位牌も仏画もない。まるで仏具店にディスプレイされているような状態だった。
仏間の西側には、襖で仕切られた八畳の座敷が二間続いている。手前の座敷には北側に窓があって、開けると薄暗い裏庭の様子が望めた。一方、奥の座敷には床の間が設えてあり、先祖代々の遺影が飾られている。
全く知らない人たちの遺影というのは、不気味なものだ。皆、既に死んでいる。それなのに、こうして面識のない自分がその顔と対面することになる。
これではまるで……幽霊を見るのと同じじゃないか。
しかし、大河にとっては親戚なわけだから、余計なことをいって彼の気分を損なわない方がよいと判断した。
再び仏間に戻ると、その東側には南北に延びる短い廊下がある。北の突き当りがトイレだった。入口こそ古びた木戸であったが、中には温水洗浄便座のついた真新しい便器が設置されている。
「ここと洗面所と風呂場は、リフォームしてあるから」
聞けば、彼の両親が二人のために、業者に依頼してくれたのだという。本当にありがたいことだと感謝すると同時に、プレッシャーも感じる。
仏間と廊下を挟んで向かい合った部屋は、十畳の茶の間。室内のやや南寄りに掘り炬燵がある。ここが家族の団欒の場所なのだろう。
茶の間の東はガラス戸を隔てて、ダイニングキッチンになっている。
「こっちは前からシステムキッチンに交換されてたんだ」
型は若干古いと大河はいうが、紫音には十分だった。床は白と黒の市松模様で、中央にはアンティーク調のテーブルが置かれている。冷蔵庫や食洗器は大河の両親が新しく購入してくれたのでピカピカだった。
そうした現代的な雰囲気のダイニングキッチンと対照的に、東側の引き戸を開けると、古びた狭い土間があった。かつて使用されたものなのか、石造りの流し台や竈が設えてある。
「竈は使えるかわからんけど、こっちも水は出るから」
例えば土付きの野菜などを買ったら、ここで洗うことができるし、キッチンと直結なのも利便性が高いだろう。土間からは裏庭へ出られる扉があった。
ダイニングキッチンの北には脱衣場を兼ねた洗面所と広い浴室があった。大河のいう通り、きちんとリフォームされていて、清潔感のある水回りだった。
一階をすべて見終わった頃には、紫音も徐々にこの家に住むビジョンが湧くようになってきた。
「じゃあ、今度は二階を案内するよ」
幅の狭い階段は二階に至る間際に踊り場があって、九十度折れている。踊り場には南向きの明かり窓があり、古惚けた照明が下がっていた。
二階には狭い廊下に面して、東側に八畳の和室、北側に四畳半の和室、西側に六畳の和室の三部屋があった。八畳間は東と南に窓があり、明るい空間だった。学習机が二つ置かれているところを見ると、どうやら子供部屋だったようだ。
一方の六畳間は夫婦の寝室といった雰囲気で、西と南に窓がある。南の窓は大きく、そのままベランダへ出ることができた。周囲に高い建物がないので、存外に遠くまで見渡すことができる。とても晴れた日だったので、空が妙に青く見えた。
「夏にはここから花火も見えるんだぜ」
そういった大河は、何故か自慢げというよりも、少し寂しげな表情をしていた。
八畳間と六畳間の入口はそれぞれ襖で、それを閉めると最低限のプライバシーが保たれるようになっている。
しかし、北に位置する四畳半の和室は、建具が障子で、今はそれも開け放たれていた。室内には大きな書棚と文机があるから、書斎として使用していたのかもしれない。北に面して窓はあるものの、外は薄暗い杉林が見えるだけだった。
「この部屋にも水槽を置こうと思う」
「二階まで運ぶの大変じゃない?」
「まあ、だから小さいやつだな。紫音のベタとか」
四畳半の部屋の向かい、六畳間の入口近くには収納がある。階段の上部の空き空間を利用して造られているので、内部は思ったよりも広い。
両開きの戸を開くと、廊下は完全に塞がれてしまう形になる。紫音たちが確認した時には、箒と塵取りがかけてあるだけで、中はがらんとしていた。すぐに使わないようなものは、ここに収納しておけるだろう。
「これで家の中は全部だ。どう?」
「やっぱりちょっと広いね」
「今は、な。その内、家族も増えるんだから、部屋数は多い方がいいだろ?」
大河ははにかみながらそういう。紫音は明るい未来を思い描くパートナーの姿が眩しかった。そして、彼のそのひと言で、ようやく自分が結婚することを自覚したのであった。
紫音と大河は水族館の休館日である月曜日とそれぞれの休日を利用して、新生活の準備を始めた。
家の中には大河の親戚がかつて使用していた家具や食器類がそのまま残されている。大河の両親からは自由に処分して、新しいものに買い替えてもよいと許可は得ていたが、紫音としては余計な出費は極力抑えたかったので、ほとんどのものはそのまま使用することにした。
箪笥や棚は古いものだったが、どれも丈夫な造りだったし、紫音自身アンティーク家具には憧れがあった。食器類は日常で使う茶碗やコップだけではなく、戸棚の奥から綺麗な茶器や高価そうな大皿も見つけた。ただ、流石に押し入れの中の寝具を使うのには抵抗があったので、それらは新調することにした。
休館日以外の休日も、なるべく二人で合わせたかったのだが、それぞれのシフトの関係で、なかなか実現するのは難しかった。そのため、紫音はしばしば一人で新居となる家を訪れていた。
一人で引っ越し作業をしている間、紫音は何度か奇妙な体験をしている。
荷物の入った段ボールを玄関前の廊下から二階へ運んでいた時のことだ。階段を下りて、何気なく奥の座敷に視線を向けると……。
人影らしきものが見えた。
ドキッとして再度目を凝らしたが、誰もいない。
同じようなことは仏間にいた時もあった。その時は風通しをよくするため、西側にある二つの座敷の襖は開け放ってあった。
紫音は神棚の下の収納に入った座布団の選別をしていた。まだ使えそうなものと黴臭くて処分しなければならないものを仕分けていると、奥の座敷で何かが動くような気配がした。
はっきりソレが見えたわけではない。
ただ、視界の隅を何かが横切ったような気がしたのである。慌ててそちらを向いたが、やはり何もない空間が広がっているだけだった。
紫音の体験を聞いた大河は、一瞬表情を引き攣らせたものの、「気のせいだよ」と白い歯を見せて笑った。
「まあ、古い家だからな、一人でいると心細くなるのはわかる」
紫音としては古さよりも、広さの方が不安の要因になっていると思う。だから、神経が過敏になっているといわれれば、そうなのかもしれない。
だが、そうした錯覚で片付けることができないような出来事もあった。
その時、紫音はキッチンの整理をしていた。調理器具の確認をしていると、たんたんたんたんと誰かが階段を上がっていく音がした。
驚いて耳を澄ましてみると、二階の廊下を歩く足音が聞こえる。
その日は暑かったから、縁側の窓を開け放っていた。紫音は家の中に誰かが侵入したのかと思い、身を強張らせた。だが、放ってもおけないだろう。
擂粉木を片手に、恐る恐る階段を上がって二階へ行った。ドキドキしながら三つの部屋を回ったが、怪しい人物はおろか、野良猫すら見当たらなかった。
紫音は一連の体験を不思議だとは思ったが、殊更に怖いとは感じなかった。それは紫音が幼い頃に東北地方に伝わる座敷童子の伝承を聞いていたことが影響している。
団地で暮らしていた紫音には縁のない話だったが、東北地方、殊に岩手県の家には座敷童子という、妖怪とも神霊ともつかない子供の姿をした存在が棲んでいるという。
座敷童子という呼び方は東北地方のものだが、似たような妖怪の伝承は各地に伝わっていると聞く。だから、この家にも同じような存在がいるのかもしれないと思ったのだ。
裏庭には小さいながらも稲荷の社もあるから、もしかしたらお狐様かもしれない。座敷童子のいる家は栄えるというし、稲荷の加護があるなら福が招かれるに違いない。紫音と大河の新しい生活も、きっと豊かなものになるのではないだろうか。
その時の紫音は、そんな呑気なことを考えていたのである。
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