第5話
この手記の書き手は、どんな人物で、その後、どうなったのだろう。
そんな至極あたりまえな想像を広げてみると、その後のヒントは得ているんだと、またしてもブレーキがかかってしまう。
鏡花と出会い、そして鏡花が殺したと思われている。
この事実が、ようやく近づけたはずの溝であるのに、本当は谷底への接近だったかのように感じられる。降りてしまったらもう、ここでの生活は、ゆったりと田舎の風景に埋もれる、というものではなくなるかもしれない。
ボクは心を病んで、ここにきた。でも、死というものほど、ヒトが好奇心を抱く問題は何一つとして無い。
「そんなはずないでしょ!」
廊下から、おそらく看護師の方の声が響いてきた。そう言えば数分前から足音などがよく聞こえていたが、何かあったのだろうか。
ここへは何も結核できている訳ではないので、ここ数日、物音などはほとんど立たない場所なのだろうなという実感があったのだけれど。
「久世さん、失礼します」
すると、先ほどの声の主が、コンコンとノックして、こちらが応える前に入ってきた。少しツリ目で40代後半くらいの、よく頼りにされている人だ。
「は、はい。こんばんは」
まるでラブレターを隠すように、例の手記を枕の下へと滑り込ませる。おそらく気づいてはいないと思う。でも、何をきょろきょろしているのだろう。
「ここも違うかぁ‥‥ごめんなさいね。黒咲さんと一緒に居たのを“
「鏡花がどうしたんですか」
「へぇー。いやぁ、それがねぇ、夕食の時間から誰も彼女を見ていないの」
鏡花が、いない?
「まだ警察沙汰でもないし、彼女はそう遠くには一人で行けないんだから、きっとすぐ見つかるわ。ごめんさないね」
「本当に、一時間も前に話したばっかりなんです!」
「そうなのね‥‥久世さんは落ち着いていてね。私たちで辺りを見てくるから」
世間から見ればここは精神病院のようなものだ。そこから患者が消えるという出来事はあまりにもセンセーショナルで、不安が夜の霧として先々を曇らしていた。
窓から見えるテラスには、ただ街燈が寂しく反射しているだけで、時折、人影が動くものの、彼女を探すここの人でしかなかった。そもそも彼女があのように走る姿を、たとえ幻影であろうと、見ることができるとは思えない。
だんだんと、施設の人々の声が、夜の虫の鳴き声と合わさって、環境に溶け込みつつあった。ボクがもともと住んでいたところでは、しょっちゅう、工事や何かで騒音に悩まされもしたけれど、人間は雑音だと一旦処理すれば、もう聞こえてない時だってあるくらい。海外の方はこの虫の音色を、鳴き声だとは思っておらず、判別できないとか。
彼女ももう、ボクたちの呼びかけに、いよいよ応える気を捨てたのだろうか。それとも、あれだけ綺麗な顔立ちだから、誘拐されてしまったんだろうか。何だか両方あり得てしまう。
もう、居ても立っても居られない。
ここに居ろと言われて、パジャマにも着替えてしまったけど、日中はそこそこ暑かったのもあって、かえって、これからあても無く探すには、かえって動きやすい恰好かもしれない。
もしも‥‥これが意図した雲隠れだったなら、それは彼女が殺人犯だったという事なのだろうか。
いいや、流石にそんなはずない。
未成年だったとしても、更生施設に入ることになるはず。証拠不十分だったから不起訴?
まだまだ知り合って間もないからこそ、そんな大きな謎だけでなく、もっといろんな話をするはずだった。サナトリウムでは時間はゆっくり動いているのに、からくり人形のような幼い彼女が欠けるだけで、どうしてボクはこんなにも不安なんだろう。
「だれ!?」
スマホのライト機能の灯りを頼りに、施設の外へと向かおうとしたとき、青地にユリが描かれた着物を着た女性がいた。
思わず、顔に光を当てると、映画などで海外の貴族が、仮面舞踏会で付けていたようなマスクを目につけている。和服なのに、マジシャンのような雰囲気を醸し出す、ボクよりスタイルの良い年上っぽいその人は、手でさらに目元を光から覆うと、コツコツと音を鳴らして、どこかへと向かおうとする。
不審者ではあるけれど、この人が鏡花を誘拐したとは思い難い。
「あ、あの!」
声をかけたけれど、一言も発さずに、ついに闇へと消えていってしまった。ボクは誰もこの手で止めることはできないのかな。
せめてもの救いは、ここが社会ではなく、心を病んだ人々のいる場所だということ。
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