『百日天下』

 2---年--月-2日。


 頭が痛くて仕方がない。

 この痛みは気象でも熱中症でもなく、失楽ゆえの痛みである。

 この痛みを知る者は、およそ歴史上、ナポレオンの他にいるはずがない。

 と言われる、彼の一世一代の復古への志は、運命によって平らげられたのだった。いや、僕のこの痛みは、およそ悲劇の貴人に同一視するような、この性格ゆえに招いたのであろうが、これによって、せいぜい今を生き延びているのだから、しばらくご容赦願いたい。

 不可能の字の無い辞書など欠陥品に過ぎないことを、コルシカ島の砲兵は知っている。それをむしろ掲げることで、いよいよ彼は終生、参謀本部を持たなかった。さればこそ、彼の神通力は、この頭痛をもって、エルバからセントヘレナへ埋もれてしまったのだ。


 僕の手元にタカジヤスターゼなどはなく、曇った洗面台で顔を濡らす他に、意識を保つ術もない。

 せめて断頭台へ送られていたならば、身を喰う不安に怯えずにいれたのだろうが、死刑宣告は先伸ばされて、王宮と距離を取ることを命じられた。自ら死ぬことを厳重に封じられ、喜びも悲しみも、いかなる言葉さえ、相手からかけられるのを待たなくてはならなかった。

 それはかつて、皇帝を前にした臣下の礼であったはずであるが、彼の刑罰として打ち返されたのだ。

 初めて真の孤独を味わった。それまで自ら進んで孤高を享受することはあったが、強制的に独りとなることは初めてであった。

 電車内では眠ることで、駅のベンチではひたすらに文庫本に没入することで、世間との交渉を断とうとした。否、世間からすれば落伍者そのもので、同じ空間に居るのさえも何とも気まずい市民の端くれなのではあるが、それでも引きこもることができかねたので、こうして痛い頭をおさえつつ、ふらふらと曇り空のもとを歩んだのだった。

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