第9話
台風の進度が少しゆっくりになっているとお天気アナウンサーの女性がテレビでいっている。またしてもここは大荒れで、山あいなので土砂災害が心配だ。ボクの階には冠水とかも起こらないだろうけど、慣れない土地の自然災害ほど恐ろしいものはない。
ここには様々な症状を抱える人がいる。なので、雷鳴や大雨というのにもきっと敏感なのだろうと身構えていたというのに、院内はとても静かだった。
雨音にかき消されているだけなのか、それとも鎮静剤などをもとから投与されているのか。
「そう言えば、鏡花は雨風しのげているのかな」どうせ誰にも迷惑にならないし、独り言も自然と多くなる。どんどん社会に馴染めなくなってないよね、ボク。
洗濯ものも上手く乾かず、仕方がないので、いつものカジュアルオフィスではなく、本当に何かあった時のためのワンピースを着ることに。これなら上下が不揃い問題も無い。ここは空調もしっかりしているから、汗でシルエットが出てしまうことも無いだろうし。
‥‥それはそれで、ボクの貧相さを久々に感じてしまうけど。
「うわぁ、いつぶりだろ」
あんまりこの姿を人には見せたくないけど、どうせここで交流がある人なんて限られているし、いずれはここも出る。いっそのこと、もっといろんな服をそろえていたら、ボクがフェミニンでガーリーな恰好が似合わないのも緩和というか中和できていたはず。長期旅行では気を付けないと。
というか、仕事、どうしようかな。今の性格を直さないといけない。
ここではわりあい、平穏に過ごさせてもらっている。いろんな奇妙な出来事はあるけれど、働きだした時みたいな苦しさはない。そういう意味では、少しは良くなってるのかな。
「え!?」急に部屋の照明が消えた。誰も部屋には入っていないから、電気のスイッチはオンのまま。じゃあ、停電?
いや、廊下へ出てみると、まわりは普段通り。つまりは球が切れたというわけで。
職員の人に言いに行くと、なぜか今はきらしているというわけで。
なので、今日だけは別の部屋で過ごしてほしいと先生にも丁重に頼まれた。
男性職員に案内されたのは、なぜか福原さんの部屋だった。
でも、表札はもちろん、中の方もすっかりかたずけられ、彼女の影はどこにもなかった。
「あの、福原さんは‥‥?」
「あぁ、昨日、退所したらしいですね」
「らしい、というのは?」ダメだ、これ以上聞いては。ボクの世界が崩れてしまう。
「いやぁ、私も先生が昨日の朝にいきなりそう仰ったので、詳しくは」
そうすると、福原信子は、ボクと話した後、ここを去る手続きをし、その日のうちに出ていったということになる。消灯時間が近かったあの日、まさか即日退院のようなことはしないだろう。それも、心のクリニック関係であるこういった施設ではなおさらだ。
誰かが書き換えている。ボク、久世詩音の社会復帰のための日々を。
彼女の持ち物は全て、ここにはもう残されていない。あるのはただ、窓際に死んだ蝶一頭。
いや、誰か、じゃない。先生だ。ここでの最高権力者。院長。
そして、ここの部屋が空いているからと言ったのも、彼だった。目的は分からない。でも、ボクだけは姿を消すことなく、こうして管理されているままだ。
もしかすると、鏡花も、東雲さんという方も、何か思ってもみなかった事件が隠されているんじゃないか。
だからこそ、フリールポライターが潜入していたんだ。あのとき、話を聞かれていたんだろう。まさか盗聴まではしていないと信じたい‥‥けど、もう独り言をつぶやくのはやめよう。
『百日天下』の内容のように、ボクはついに孤独になってしまった。これが、吉野山の怪奇なのか、いいや、これは人為なんだ。
一般解ではたどり着けない、人間の起こす
非ユークリッド博物学だろうが、これが解けてしまうなら、何にだってボクは。
飛鳥の昔、ここに吉野宮が造営されて以来、何かがここでうごめいている。もう一つの日本が、ひそかに人目を忍んで、あるいは大々的に対抗勢力として浮上したように。
途端に、ここの誰もが静かなのも、ボクがワンピースを用意していたのも、台風がとどまっているのも、何もかもが怖くなってしまった。
―――いいの? 今なら、みんなみたいに、知らないふりだって出来るよ?―――
鏡花はボクにはっきりと、かつて消えてしまう前にそう言っていた。。
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