第8話

 あの晩、ボクは結局、あの人が何を言っていたのかを整理するのに精一杯で、その真偽や意図を探る前に、朝日は高く昇ってしまった。まるで現実離れした彼女の告白は、いっそのこと先生に相談しようかと思うほど。

 だけど今度は、ボクが幻想を抱いていると思われて、ここより粗末な精神病院へ転院することになるかもしれない。


 それだけはイヤだった。外に居る時とは、偏見なんて持っていないつもりだった。今でも自分を偽善者だとは思っていない。けれど、行きたくはない。


 今朝は台風が近づいているせいで、久々に朝から大雨だった。ひとりで部屋にこもっていても、あるいはサナトリウムを歩き回っても、雨脚が強まるにつれて、もっともっと分からなくなってしまう。

「ボクはもう、ここの人間なんだね」

 もしかすると、鏡花は単に転院したのか?

 いや、流石にそれはない。みんな探していたし。なので、イマジナリーフレンドという可能性は否定される。もっとも、ここで出会った人すべてが現実とは保証できないのが心苦しい。なんでメンタルが弱いんだよ、ボクは‥‥。

 東雲さんのメモ書きは、まるでこれからのボクの様子を書いているようにも思えてくる。前後不覚になって、どこかへと消えていく自分を想像すると、台風のせいで起こった偏頭痛ではない、不思議な眩暈めまいを感じてしまう。

「やっぱり無い」

 鍵付とはいえ、国家機密さえもネットに保管されている時代だというのに、やはり非ユークリッド博物学なる単語はヒットしない。もしかして、非ユークリッド幾何学ですか、と検索エンジンが嘲笑する。

 一方で、東雲さんのアカウントは見つかった。最後の更新日は去年のようだ。嘘を信じ込ませるには、99パーセントの真実を、と映画などでもよく聞くけど、同じ女性の感として、どうも彼女が嘘つきには思えないんだよなぁ。まあ、女の質が違うと、今度はAIに揶揄されるかもだけど。


 仕方がないので半日、彼の小説のようなものを読むのに時間をつかってしまった。福原信子さんは、今日は見かけなかったし、ウロウロしていたついでに部屋の前まで行ったけれど、中には居ないらしかった。

 真実かぁ、鏡花なら小ばかにして、そんなものは無いくらい言いそう。というか、何でボクって、出会って間もない人にこうも干渉しちゃうんだろ。そのくせ、パリピじゃなくて、交流範囲は狭いし。

 もしあの時、ボクが鏡花に話しかけようとしていなかったら、あと少しでここから出るとなっても、心の残りが無かったんだろうな。


 ボクは諦めかけていた。自分の意志というものに。

 だからこそ、非現実的な、宝くじのような一発逆転ハッピーエンドが欲しくてたまらなかった。東雲さんの作品は別にそういうものではなかったから、読書では満たせない。

 予定通りにいけば退院まであと二週ほどしかないボクに残されているのは、福原信子という女性の妄言を真実に近づくための事実として受け止めて、ボクこそが特異点を見つける。これしかない。

 あまりにも突飛だからこそ、鏡花をもこれで見つけられるように錯覚してしまう。


 どうせここですることなんて、初日から何も無かったんだから。

 観光だと思えばいいし、慣れない散策も運動として承認されるだろう。

 明日からの日々を、一人の少女でも、真実というたいそれたものでもなく、怪異と特異点探しに費やす。

「バカみたい‥‥」台風の目に入ったばかりの空は、まだまだ黒々としていた。

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