01 『恐喝』


 湿気の多い夜だった。

 初夏に入ったとはいえ、北国である。日没後には気温が一桁ひとけたまで下がるのが常だ。地元に住む者なら、いま時期の夜風は涼しいより肌寒いと考える。


 なのに、今夜はやけに蒸し暑い。異常であった。

 いつもは頼もしく思う上着が、いまは恨めしい。


 上着とはいっても、Tシャツの上に着古した革製レザーのジャケット一着だけだ。それも内張が薄い造りで中綿なかわたも入っていない非防寒仕様である。風を防ぐ効果しか望めない代物なのだが、それでも汗ばんで不快だった。肌着がじっとりと湿って気持ちが悪い。


 もっとも、肌に浮かぶ汗は湿度のせいだけではない。

 胴真どうま伸宜のぶよしは仕事帰りだった。

 夜勤明け。午前2時に工場のシフト交替。徒歩で帰路についている。疲労が溜まっているのか、足どりが重い。身体がだるかった。


 53歳、独身。非正規の派遣工。

 賃貸住まい。貯蓄といえば2~3ヶ月をなんとか暮らせる程度。人口24万人の地方都市在住にも関わらず、必需品ともいえる自家用車は所有していない。


 夜間の労働だけが疲労の理由ではなかった。精神がすり減っている。

 胴真伸宜はため息をついた。汗が額を流れている。薄くなった頭髪を隠す意味合いの強いハンチング帽を脱いでは、ぬるい夜風にあて、また被る。


 だめだ。耐えられない。蒸し暑くて気分が悪くなってきた。

 何か冷たいものを口にしたい。

 幸い、帰り道には現在いまでは稀少になった24時間営業のコンビニがあった。冷えたお茶でも喉に流しこめば、少しは涼しくなるだろう。


「らっしゃっせー」

 

 深夜だというのに、店内には他の客がいた。

 刺青タトゥの入った浅黒い肩をタンクトップ姿で見せつける、ふてぶてしい態度の若者3人組。外見からして外国人アジアンだとわかる。胴真の職場にも他国籍の労働者や技能実習生は何人もいるので、外国人を目にする機会は少なくない。


 だが、3人組は労働者ではあるまい。風体からして真っ当に働いて生活しているようには見えなかった。関わり合いになるべきではない。胴真はこちらに向けられる無遠慮な視線をかわしつつ、目的の飲料を手にレジへと向かった。


「あーしたー」


 やる気のない店員の声を背に、胴真はコンビニのドアを押し開ける。

 外に出た瞬間、じめじめと湿った空気が身を包む。季節柄、店内はさほど冷房が効いてはいなかったが、空調によって湿度が抑えられている。屋外に比べれば天国だった。


 これ・・を飲み干して、さっさと帰ろう。

 足早に歩きながら、ペットボトルの蓋に手をかける。すぐ背後から複数の足音が聞こえてきたが、胴真はかまわず冷えた茶を口にした。


「オサン、オ、サン」


 がぶ飲みしている最中に肩を揺すられ、胴真は危うく噴き出すところだった。

 咳きこみつつ飲料の容器から口を離す。少し肺に入ったらしい。せて苦しい。涙が出てきそうだった。


「オサン、オサン、カネ。カネ、ヨコセ」


 振り返る。やはりコンビニ店内にいた外国人アジアン3人組だった。

 逃げ道を封じるつもりなのだろう。すばやく胴真を取り囲む。事前に取り決めていたような動きである。


 恐喝か。

 胴真は驚いていた。

 まだコンビニを出て十数歩。敷地の駐車場を出てもいない。車通りも少ない深夜の住宅街とはいえ、店舗の照明に晒される位置にあるのだ。まして店内からは丸見えである。通報を怖れていないのだろうか。


 世事に疎い胴真でも、国内の治安悪化が大きな問題となっていることくらい知っている。しかし、よもや実感する機会が訪れるとは。強盗や恐喝は人目を避けて行うものではないのか。物騒な世の中になったものだと胴真は思った。


「オサン、現金ゲンキン


 片言カタコトだが、意味は理解できた。

 コンビニレジでの精算時、携帯端末を用いた電子決済ではなく現金で支払いをしたことを指しているのだ。オマエが現金を所持しているのは解っている。だから差し出せ。胴真の正面に立ちはだかる若者――似合わない金髪染めだ――は、そう要求しているに違いない。


「ハヤク、出セ。ヨコセ」


 金髪の男は背が高かった。

 歳は25前後といったところか。肉づきもいい。タンクトップの胸が筋肉で張っている。濃緑の刺青タトゥを肩のワンポイントではなく腕全体に彫りこんでいるのも、他の者とは違う気合いを見せつけたい虚勢のあらわれか。3人組の中心人物といえそうだ。ちらりと他の2人の様子を窺う。表情や仕草に彼ほどの余裕がなく、顔つきも幼い。やはり金髪長身の若者がリーダー格と見て間違いないだろう。


「ナニ、見テル。カネ、出セ。チビ!」

「ハヤク、出セ、デブ!」


 現金かねを要求する声が大きくなった。

 しょせん相手は中年のオヤジだ。柄の悪い外国人アジアンに取り囲まれ、動揺している。彼らはそう判断したのだろう。いきなり取り囲まれたことに戸惑とまどい、混乱して萎縮しているのだと。大声で脅せば震えあがって恐喝に応じ、どんな要求にも従うはずだと高をくくっているのだ。


 それが証拠に、金髪染めの怒声に続くかたちで小柄な若者まで図に乗りはじめる。声を張りあげながら胴真を小突きはじめたのだ。拳をつくって、革ジャケットの肩をごつごつと殴ってくる。


 失礼な奴だな、と胴真は思った。

 おれはデブじゃない。


 短躯チビであることは胴真自身も認めていた。

 身長161センチ。わが国の男性平均身長は年々低下し続けているが、それに比べてもまだ低いほうだろう。チビと呼ばれるのは仕方ないのかもしれない、と。否定しようもない事実であると。


 だが、断じてデブじゃない。


 憤るポイントが外れている気がするが、とにかく胴真は苛立ちはじめていた。


 とはいえ、はたから見た体型はずんぐりむっくりの低身長。

 先月、銭湯で量った体重は107キロだった。ぱっと見で目につくのは低身長よりも肉の厚みのほうだろう。デブと呼ばれるのも仕方ないのではないのか。


 いらいらしながらも胴真は黙ったままである。小突かれ、罵倒されるに任せていた。

 動揺こそしていなかったが、この場をどうしたものか迷っていた。コンビニ店員が通報している可能性はあるだろうか。あのやる気のない挨拶。警察沙汰とか面倒なことには関わろうとしない、むしろ無視するタイプだとは思うが、万一ということもある。


「オサン! ハヤク、カネ!」


 しびれを切らしたのだろう。リーダー格の長身がナイフを手にしていた。

 刃渡りの短い折りたたみナイフだが、切れ味はよさそうだ。月明かりに光る刃の先を、胴真はあごから数センチの距離に突きつけられている。


携帯端末モバイモ、ヨコセ。革ジャンモ、脱ゲ」


 要求が増えた。

 厚かましい餓鬼がきどもだな、と胴真は思った。


 そもそも胴真は携帯端末を所持していない。

 貧乏も理由のひとつだが、電磁波かなにかの影響で、手にとって使用すると頭痛が起きるためだ。いまの時代に不便きわまりないが、頭痛に悩まされる時間は長く、また吐き気をもともなう。とても携帯してはいられなかった。


 もうひとつの要求は革ジャンだった。

 これも売れば金になると誤解したものらしい。

 胴真が30年は着用しているぼろぼろの古着である。A2と呼ばれる旧型のフライトジャケット複製品レプリカで、れや傷により濃茶の色があちこち薄くかすれている。背中のバック絵柄プリントも大半が剥げ落ちてしまっていて、何が描かれていたのか判定できないほどだ。


 着こんでしわだらけになったレザージャケットには独特の味があり、愛好家にとってはたまらないものらしい。廃棄処分されたようなズタボロの一着でもヴィンテージとして高い値をつけられる品もある。


 とんだ勘違いであった。そういった古着は稀少な一品でなければならない。

 胴真の着ているジャケットは大陸製のロット生産された安物なのだ。若かりし日に購入したのも、キングサイズでありながら安かったという経済的な理由にすぎない。売ろうにも値段がつかないだろう。


「ハヤク、脱ゲ!」


 ついに金髪が実力行使に出た。

 ナイフを突きつけつつ、もう片方の手でジャケットの襟に手をかける。ひと言も発しない胴真に気味の悪さを感じはじめたのか、もしくは取り囲んでからの時間の経過に不安を覚えたのか。表情には焦りが見えた。


 襟首を捻られながら、胴真はぐるり辺りを見回す。

 深夜の住宅街には変わらず人影がない。遠くまで暗がりが続いている。明るいといえばコンビニくらいだ。店内に動きはない。店員がこちらに気づいていないか、見て見ぬふり。


 住宅の数々。静まりかえっている。怒声や罵声を浴びせられたが、叫びというほどの音量ではない。夜の深い眠りから目覚めるほどはないか、もしくは関わり合いになりたくない。警察官が駆けつけることはなさそうだと胴真は判断した。


「――しかたない。……うん、これは、しかたない、だろ」


 自分に言い聞かせるように呟くと、胴真は肩を突き出しつつ半歩前に出た。


「アッ?」


 金髪長身の男には口から漏れ出た間抜けな声を恥じる余裕はなかった。

 掴んでいた襟から手を離す暇も。ずんぐり体型の前進につられて体勢が半身に歪む。突きつけていたナイフは中年男の顔へと勢いよく迫る。思わず刃物を引いた瞬間、彼の世界は回転していた。


 足払い。

 武術や武道でいう足払いは相手の足首あたりを自身の足を用い、横方向から刈り払うことで体勢を崩す技である。熟練者が素人を相手に使えば、足払い単体で倒してしまうことも可能だ。


 しかし、胴真の足払いは技といえるようなものではなかった。


 金髪染めの足首めがけ、力まかせに蹴ったくっただけである。

 それだけで横薙よこなぎに払われた長身は一回転。正確には半回転して頭を地面に強打してしまった。もちろん意識を失っている。


「か、軽いな。転ばすだけのつもり、だったのに……」


 屈んだ胴真の額に汗が浮いている。

 脂汗だった。倒れた金髪の鼻あたりに手をかざし、ひとりうなずいている。呼吸を確認したのだろう。立ち上がったときには安堵の笑みを浮かべていた。


「……エッ? ……エエッ?」 


 のこる2人の外国人アジアンは顔を見合わせている。

 何が起こったか、理解できない様子だった。言葉が出てこないのだろう。さっきまで胴真を小突いていた背の低い若者の口が、金魚のようにパクパクと開閉を繰り返していた。震える手が、路上に転がったままぴくりとも動かない金髪染めを指さしている。


「し、死んでない。死んでない、からな?」


 弁解じみた台詞を吐きつつ、胴真の身体は逃げる姿勢に入っていた。

 年齢の割には耳がいいのである。そして脚も。


 赤色灯の点滅が視界に入るその前に、胴真どうま伸宜のぶよしは脱兎のごとく駆け去っていた。


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