12 『謎の訪問先』
「……ようやく晴れましたね」
隣に座る銀髪の極道に声をかけられ、
フロントガラスから射しこむ陽光が眩しい。
送風口横のアナログ時計は針を重ねて真上を指している。
灰皿は煙草の吸い殻でいっぱいだった。けっこうな時間が経過していたらしい。
「腹が空いてるとは思いますが……。ひとつ用事を済ませてからでも平気ですか?」
「あ、ああ……」
問いかけはしたものの、有無をいわせぬ響きだった。
胴真の返事を待たず、
すぐさま歩き出した朔田の後を胴真は早足で追いかける。
これから
朔田が
停めたとたん豪雨に見舞われたために待機していたわけだが、この場所へ来た理由も今日これからの予定も胴真は訊いていない。特殊詐欺の後始末について納得できず、
背後を追う男の不満を気取るでもなく、朔田はひたすら先を進んでいく。
真昼の住宅地に人影はなかった。食事どきであり、当然かもしれない。
歩くうちに車道沿いからひどく狭い路地へ入った。隣り合う家の壁と壁の間である。空間にゆとりがない。やや細身の朔田はともかく、
「ここです」
朔田が足を止めたのは古い民家の前だった。
それも玄関口ではなく、どう見ても裏口である。
年季の入った扉の横にはもちろん表札などはない。なのにドアホンが設置されている。カメラのついた真新しいもので、型式も古くはあるまい。経年劣化が進んだ建物には不釣り合いな代物に見えた。
「……なんなんだよ、ここは」
息を切らせて胴真が問う。
すでに7月も半ばに差しかかろうとしている。北国の雨上がりは関東ほど蒸さないものの、暑いことは暑い。まして狭い路地を足早に歩かされた直後なのだ。107キロの身体を覆うアロハシャツも汗でべたついていた。
「俗にいう、民家バーってところですか。表に回れば看板も出ているはずです」
ならばなぜ表から訪ねないのか。
なぜ裏口から。わざわざ狭い裏道を通って汗をかかせた意味はあるのか。
そもそも昼間に営業している
疑問や不満を胴真が口にする前に、銀髪の極道は動いていた。
ドアホンに顔を寄せ、ぼそぼそとなにか喋っている。ひどく小さな声だった。数歩の位置にいても内容を聞きとれない。
手の甲で額の汗を拭いながら、胴真はあらためて建物を見渡す。
とても客商売を営む外観とは思えない。
築年数で30年は経過しているであろう、ただの民家である。モルタルの壁には亀裂が走っているし、家の周りは雑草が伸び放題だった。それが
息を整えつつ眺めていると、古びたドアから金属音が響いた。
鍵が解除されたらしい。
続いて扉が開かれると、朔田は振り返りもせずに奥へと足を進めていく。慌てて胴真も後へ続いた。
ドアノブに手を添えて2人を招き入れたのは若い男だった。
歳は25、6といったところか。
線が細い。清潔感のある白シャツに黒い腰下エプロン。店のボーイなのだろう。外見に派手さはなく、これといった特徴はない風貌である。片眼に医療用の白い眼帯をしていることを除けば、だが。
「……ま、マスターは、こ、こっちです」
男の口調は滑らかとはいいがたい。
引き
勝手口から進む通路は狭く、壁際には薄汚れた段ボールが幾つも積まれて高い。
中には瓶ビールや日本酒のケースもあり、人の背ほどにも重ねられている。通路が食材や酒類の在庫置き場を兼ねているのだろうが、どれも
「あたっ」
在庫の壁に気を取られていたらしい。
前を往く銀髪の黒い
胴真は爪先立ちになり、黒いベストの肩越しに先を覗く。
開きっぱなしの扉の奥には厨房が広がっていた。
倉庫代わりの通路はひどく狭苦しかったが、調理場は十分な空間が確保されている。さらに奥を見ればカウンターもあり、客から直接見渡せる造りである。
小洒落た内装ではあったが、惜しむらくは清潔感に欠けることだ。
綺麗好きとはいえない胴真でも顔をしかめたくなる。油汚れが染みついた調理台。床にへばりついた得体の知れない汚れ。カウンターに置かれたアルミ灰皿は吸い
「な、なんだ、あんたら」
客席側から声がして、中年の男が近づいてくる。
この男がマスターなのだろう。
「だ、誰に断って入ってきてる?」
歳は朔田と同じくらいか。
中肉中背の男は53歳の胴真よりひとまわり若く見えた。
「なんなんだよ、いったい」
怒り眉が勝ち気な性格を思わせる。
見知らぬ男たちの出現に驚きはしたものの、おびえた様子はない。一見して
「おい、リョウジ! てめえ、なんで部外者を入れてやがる!」
もの言わぬ不審者たちに苛立ったのだろう。
中年の店主は額に血管を浮かばせて怒鳴った。
唾を飛ばした先にあるのは眼帯をつけたボーイである。
胴真の後ろで細い肩をすくめ、やはり引き攣った笑みを浮かべている。
「
「……あ、ああ?」
ぼそりと。
朔田市太郎が上体を傾け、
互いの息が鼻先にあたるほど接近していた。
「な、なんだよ。し、知らねえよ。帰ってくれ」
無精髭の中年が語勢を弱める。
腰が引けていた。さきほどまでの勢いは失せて顔色も冴えない。
「仕入れ先。……知りたいのはそれだけだ。
問う声は静かで低く、
だというのに、場には張りつめた空気が満ちていた。
無精髭の店主は呼吸もままならないようだ。口から漏れる息が乱れてはやい。眼には幾筋もの血の筋が走り、左右に泳ぎながら逃げ道を探していた。店内は空調が効いていたが、額には汗の粒が幾つも浮いて多い。
沈黙に。
そして目の前に迫る銀髪の男の圧力に耐えられかったのだろう。
もしくは無意識か。店主は振り返りもせず
一歩、二歩、三歩。手を伸ばしても届かぬ位置まで下がって勇気が出たのか、エプロン姿の中年男はようやく口を開いた。
「か、帰ってくれ。け、警察を
やっとの思いで放った侵入者への警告を、しかし店主は言い終えることができない。
エプロンの
黒い革靴の先端が突き刺さっていた。
「――――!」
声にもならない悲鳴を漏らし、黒エプロンが激痛に悶える。
床に膝をついて身体をくの字に曲げる姿が痛々しかった。
「ハヤシコウタ。46歳」
苦痛に
ゆっくりと。
抑揚に欠けた低い声で。
「10年前に開業。住宅地の民家バーは当初こそ調子が良かったものの、『法改正』後の急激な景気悪化で客入りも大幅に減少。ここ数年の経営は火の車。不動産を担保に借金を重ねていた。……そうだな?」
両手で腹を押さえる中年店主の顔は苦悶に歪んで青い。
とても答えられる状態にはなかったが、かまわず朔田は話を続けた。
「しかし、今年のはじめには溜まった利子もろとも綺麗に返済している。店は閑古鳥が鳴く状況が続いているというのに。……春先には新車まで購入しているな。なぜだ?」
店主の喉奥から漏れ出るのは苦痛を訴える
息を吸いこむ断続的な音は
「羽振りの良い理由はひとつ。違法な
店主の呼吸がようやく整いはじめる。
「その度胸だけは買うが、そろそろ吐いたほうがいい。
黒エプロンの背を撫でつつ、朔田はベストの内ポケットから写真を1枚取り出した。
片手につまみ、中年店主の充血しきった眼球の前に差し出して見せる。
「仕入れ先で、この
写真には胴真たちが捜すラーメン屋大将の息子の姿があった。
「ほお。そういうことだったのか」
銀髪の極道の背後で、
ここに連れて来られた理由も不明なままだったが、やっと理解できた。朔田は重要な手がかりを掴んでいたのだ。大きな一歩である。これで証言を得られれば、あとは見つけ出して連れ帰るだけだ。大将の喜ぶ顔が脳裏に浮かび、肉づきのいい胴真の頬が
しかし、事態はそう都合よく運ばない。
朔田の手は払いのけられ、写真は折れ曲がって床に落ちた。
「知らねえよ、この野郎」
汚れた床に唾を吐き捨て、中年店主が吠える。
涙を浮かべつつも眼は死んでいない。
自身の腹部へ強烈な一撃をくれた銀髪の男へ、憎悪に満ちた視線を向けていた。
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